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感慨、深く。 みちくさ市アルバムと武藤良子個展 「耳朶とスプーン」

心待ちしていた「みちくさ市」のアルバム(写真集)が早くもUPされた。
「旅猫雑貨店」金子さんによる作品集。

「第1回 鬼子母神通り みちくさ市」スライドショー。http://f.hatena.ne.jp/slideshow/wamezo/09-4-26%20みちくさ市/rss

前から金子さんの撮る写真がとても好きなのだが、今回の写真にも感動。今すぐあそこに戻りたいと思ってしまう。
風景の切り取り方、アングル、対象をとらえるタイミングが素晴らしいのは言うまでもない。
畢竟、人の心を動かすのは、撮る人の目と心だということを改めて感じさせてくれた。撮影された金子さんの愛情があふれています。

人はもちろん、街、本、雑貨、棚、看板などすべてのものが「いのち」を与えられ息づいている。
音はなくとも雄弁に語りかけてくる。短編映画を観ているかのように。
アップされているだけで122枚ということは、実際その2倍、ひょっとしたら3倍撮られ、その中からセレクトし、編集されているはず。その手間たるや想像しただけで気が遠くなってしまう。
金子さん、ほんとうにありがとうございました。

みちくさ市翌日、仕事の合間、武藤良子個展「耳朶とスプーン」に足を運ぶ。
静かな空間の中で、腰掛けて絵を見ながら時を忘れる。
一点一点に目を凝らすと、作者の「創造」に携わる苦悶の跡が残っているようにも感じられるのだが、見ているうちに不思議な感情に充たされてくる。懐かしいような、何かやわらかいものに包まれるような。
ブルー、グリーンの独特な色使いは多くの人の目を惹いたに違いない。
一方モノクロの画は、黒地と白地が絶妙のバランスを保っている。
そして、白地の中に描かれた黒い線の何と繊細なこと!思わず息を呑んでしまった。
正面左側に飾られていた印象的な豚の横顔。
「何と哀しい目をしているのだろう」と最初は感じられた。
ところが、しばらく見ていると、その豚を見つめる描き手のやさしい目が浮かび上がってきた。

素人の印象に過ぎないが、そんなことを感じながら素敵な時間を過ごさせてもらう。

武藤良子さんのことは、昨年のみちくさ市プレ開催の少し前に、いろいろな方のブログで知った。
今なお、様々なブログでその強烈な個性や言動が話題となっている。
でも、武藤さんがふっと立ち止まって独特の視線で自然を見たり、人との関わりの中で自分を表現するさりげない言葉が温かく、惹かれる。
個展を拝見して、繊細な人という印象はさらに強まった。
ものを創り出す芸術家というのは、傍から見ると相矛盾するものを抱えているようで、実は混沌としながらも、その両極端が在ってこそ創作を続けられる、それを創作のエネルギーにしているようなところがある。
武藤さんに、絵やイラストを描いていた父の姿を、知らないうちにダブらせているのかもしれない。
多くの方々が個展に訪れたのも、絵描きである武藤さんに触れたいからだと思う。
武藤さんのますますのご活躍を祈っています。

みちくさ市が終わったというのに、我が家の惨状は改善されるどころかさらに酷くなったような。

とみきち 「いったい何年経ったら片付くの! 好きなことはしてもいいけど、部屋を片付けるのが条件だったでしょ。このままだったら、私は一箱には出ないからね!」
風太郎 「それは脅迫だ」
とみきち 「これが脅迫だと言うなら、部屋の写真をUPしてみなさんに見てもらって判断してもらいましょう」
風太郎 「・・・・・」

さてさて、「不忍ブックストリート 一箱古本市」まであと数日しかないのに、作業はまだ5割も終えていない。明日は丸一日、約束の片付けと準備に精を出さねば(汗)。

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宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)と『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の落差

宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)には落胆した。近年稀に見る好著と思えた『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の著者が、何故このような本を世に問うたのか、疑問が残るからだ。

宮下誠の名は、7年ほど前、高校以来の親友が所有していた本で知った。当時彼は絵画にはまり、盛んに美術館巡りをしていた。山荘に招かれた時、彼の読んでいた本が『逸脱する絵画』(法律文化社)だった。興味半分でパラパラと読んでみたら、極めて難しいが、何とはなしに惹かれる不思議な著述。しかし、高価だったため購入せず、いつの間にか時は流れてしまった。3年前、気になってある新書を購入。読み出したら止まらない。ネットで著者のことを調べ、「ああ!」と納得。あの『逸脱する絵画』の著者だった。
私が読んだ『20世紀絵画』(光文社新書)は、抽象的で難しい専門用語も用いられてはいるが、著者の意図が明確に伝わるものであった。
絵画は抽象、具象に関わらず、作家あるいは民族のアイデンティティと深く結びついていて、造形上の相違とは裏腹に、時代や我々自身を映す鏡となっている。20世紀後半の具象表現は、時代の複雑化に伴い、たやすく理解できないものがある一方で、抽象絵画が理解しにくいとはいえないことも、著者の解説によって腑に落ちた。
遠近法の問題、ダダ運動、コサージュ、アサンブラージュなどについても的確にかつ、わかりやすく記述されている。パウル・クレーとピカソの話はとりわけ興味深く読んだ。この本で初めて知った旧東独美術の圧倒的な存在感には目を奪われた。藤田嗣治「アッツ島玉粋」に触れた章の中で、敢えて絵画を載せない(ブランクのままにしておく)、一見トリッキーと思われる編集にも、違和感を覚えなかった。
絵画を読み解く著者の、真摯で斬新な目に共感を覚えたものだ。
それだけに・・・。

「故意にカラヤンを貶めようとして書かれたものではない。」「本書はひとつのメルヒェン(大人の童話)として書かれている。主人公たちは実名で登場するが、議論の俎上に載せられているのは彼ら自身ではなく、彼らが代表する価値観であり、世界観である」「記述の大部分はごく個人的な感慨に占められている」。こういった留保が多すぎて、象徴としてのカラヤンの音楽を、自省無く受容してきた罪は、著者も含め、聴く側とカラヤンの双方にあると述べてはいるものの、残念ながら、(疑問を抱き、何かが違うと思っていた)著者自身は罪を軽減されているかのように聞こえてしまう。(私は「罪」という表現に納得はしていないが)
『カラヤンがクラシックを殺した』というタイトルそのものも、商業主義にからめとられ、安易ではなかろうか。筆者の真意から乖離しているように思えてならない。
また、「単純な誹謗中傷は何も産み出さない」と言うのであれば、カラヤンによる演奏の本質を説くのに、人工的美、欺瞞、嫌味な臭さ、気持ちの悪さ、救いのなさ等々、あまりにもステレオタイプな表現が多い。筆者はいったい、誰に向かって説いているのか、その対象がぼやけて見えてこない。

人が数値化、匿名化され、その個性が平板なものへと馴化される20世紀の危機的状況下、その対抗的意味合いで、素晴らしい芸術が産み出されてきた。ささくれだった感受性によって、いわば心の叫びとして、或いは憎悪をとして、或いは怨嗟として真正の芸術が世に産み出されてきたという筆者の主張に真っ向から異を唱えるつもりはない。賛同できる部分もある。しかし、「心の叫び」「憎悪」「怨嗟」あるいは筆者が何度も持ち出す「世界苦」が感じられない音楽を、真正な芸術と見なさないとしたら、却ってクラシック音楽を浅く狭い芸術に貶めることにならないだろうか。指揮者ケーゲル、クレンペラーらの音楽に触れるところでも、「世界苦」「絶望の深さ」「矛盾」「自己破壊的デーモン」などの言葉で、真正な芸術の何たるかを強調し過ぎている印象を受ける。

クラシックの受容のあり方、というごく狭い観点から私は近現代社会の病理を掠め見ようとしてきた。(略)カラヤンの罪はクラシック音楽受容の陳腐化にとどまることなく、あらゆる社会現象の弱体化に寄与するほどの影響力を発揮したのだ。改めて書く。カラヤンは断罪されなければならない。さもなければ私たちの住む社会はいよいよ痴呆化し、危機的な状況は更に深刻になり、文化崩壊のスピードは更に速度を増してゆくだろう。
私たちは覚醒しなければならない。立ち上がらなければならない。象徴としてのカラヤンに代表される非-文化的文化の巧妙な罠を注意深く避けながら、真正な芸術とは何か、人間の幸せとは何かを問い続けなければならない。クレンペラーやケーゲルの音楽はそのように気づいた私たちを必ずや勇気づけてくれるに違いない。
小市民たちよ、目覚めよ。
さもなくば、私たちはこれまで同様、悪魔に魘(うな)されることになるだろう。

悲しいかな、「小市民たちよ、目覚めよ。」といった、安っぽい言い回しを用いることに意義を感じない。逆に(筆者が)伝えたいことを、自ら歪めてしまっているように思える。

音楽全般が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」はもはや悪い冗談としか言いようがない。(略)社会的勝者であり、強者である「文明社会」に生きる音楽的聴衆の、日和見的で、そして快楽主義的な音楽鑑賞のあり方は、社会的弱者(彼らにも多くの問題があり、間違いがあり、狡知があることは言うまでもない)の不条理や不合理な死を冷淡に放置し、格差社会の根本原因を追及しようとせず、無自覚的に自己のひたすらに個人的な不安や不満やルサンチマンにのみ「不幸」を見出す、まことにおめでたい「文明人」の世界把握と完全に同期している。

音楽に「美」や「慰め」や「癒し」を求めるのが悪い冗談?長い歴史の中で愛され、生き残ってきた作品の多くが、カラヤンという特異な指揮者に再現され、演奏されることで、その本質が損なわれるなどとは思えない。全世界で500万枚売れたらしい「アダージョカラヤン」購入者の多くを、日和見的、快楽主義的と決められるものであろうか。このアルバムが「悲しくも切実な上昇志向と自己神話化による負け犬的な羨望の醸成」、すなわちカラヤン的本質の現れと言うのは、牽強付会ではないか?

どんな信念のもとに書かれていようと、いや信念があるのならば、音楽に関わる人々の心に届き、響く表現方法をもう少し考え、工夫してもよかったのではなかろうか。決して心地よい言葉である必要はないにせよ。
かく言う私も、カラヤンのモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー演奏などには感動した記憶がない。カラヤンの演奏に比し、より作品の本質に迫っていると感じられるものの方が圧倒的に多いのも事実だ。音楽において、たとえカラヤンといえども、一人の指揮者を象徴的に扱い、敷衍させ、時代の病理にまで言及するには無理があると、私は思う。むしろ、危険ではないかとさえ思える。

筆者が音楽を愛し、いいと思える音楽を一人でも多くの者に聴いてもらいたいのであれば、理想とする指揮者、音楽を徹底して描く方がよかったのではないだろうか。あくまで現代社会の病理を訴えたいというのであれば、別の手法もあるはず。「必要のない、無意味な」抵抗感を生じさせず伝えることも、筆者ならば可能ではないかと思う。『20世紀絵画』(光文社新書)に多大な示唆を受けただけに、残念に思う。

私はこの著書に賛否両論あるだろうことを前提として言っている。よく言ったと溜飲を下げている読者も、著者の真意を誤ることなく受け取った読者も多いと思う。だが一方で、不快感を抱いた読者も、少なからずいるはず。両者とも「音楽への愛」ゆえにだと思う。ならば、どうして相反する感情が芽生えてしまうのか。どんな本(作品)も賛否両論あって当然という月並みな解釈には収まらない問題を、この本は孕んでいる。

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