カテゴリー「佐野洋子」の投稿

「くにたちコショコショ市」エピソード(2)

ナンダロウ(南陀楼綾繁)さんご来場。偵察、いや失礼しました、陣中見舞いですね。「ミスター一箱古本市」の存在感はひと味もふた味も違います。皆さん和みながらも、会場全体の雰囲気が締まったように思えました。

お会いするのは昨秋以来。
<とみきち屋>とはお決まりの会話(にもなってないか)。
「今日もナンダロウさん好みの本、お持ちでない本はありません(笑)」
「またそういう云い方する(笑) いつものあれはないの?」と訊かれたので、
出品目録をお渡しする。
初めて古本市に参加した時に押しつけてしまってから、お会いできた際にはずっとお渡ししている。何かの役に立つとは思えぬが、受け取ってもらえるだけで嬉しいものです。
同じ事は岡崎武志さんにも。畏れ知らずというのでしょうか。

ナンダロウさんと<わめぞ>の古書現世・向井さんらによる新しいイベント「あいおい古本まつり」が3月に開催されますね。今から楽しみでです。

あいおいブックラボ 公式ブログ → http://aioibooklabo.blog.shinobi.jp/

若い女性のお客様に伊達得夫『詩人たち ユリイカ抄』(日本エディタースクール)を買っていただきました。少しお話したかったなと思いながらもできず悔やんでいたところ、横の方に廻られて小さな150円均一箱の中から佐野洋子の文庫を手にされました。
「一人でも多くの方に読んでもらいたくて、毎回のように出しているんです」と思い切って声をかけてみた。すると、

「昨日友人から借りた文庫本を読み終えたらとってもよくて。癌のことに触れ、車を買ってしまう…」
「ジャガーを買って、車庫入れでボコボコにしてしまう話ですね。朝日文庫の『役に立たない日々』だと思います。佐野さんの本いいですよ。お勧めです」
佐野さんのファンや興味を持っている方に出会うと、もうダメです。嬉しくて、つい押し売りのようになってしまう(笑) 『神も仏もありませぬ』『私はそうは思わない』『覚えていない』3冊まとめて購入いただいてしまった。1冊100円にて。

で、『詩人たち ユリイカ抄』の話をさせていただくのを忘れてしまった。いかんなあ。

実はこの本、春の一箱古本市の際にも出して、古本屋ツアー・イン・ジャパンさんに購入いただいた。ブログに書かれていたのでわかったのだが、その時お客さまの応対をしていた妻のとみきちが、「もう一度会えばわかるよ」と言っていた。

その妻が、「古ツアさんが岡崎さんのところにいらしてるよ」と言うので目をやると、雰囲気からしてそうだろうと思われる方が談笑していた。漏れ聞こえてきた会話から、間違いないと確信。
一瞬目が合ってしまう。鋭い眼差しだった。メモもとらず、あの目に古書店のレイアウトから品揃えまで焼き付けているのだなと納得。

男性のお客様にまず、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(サンリオ文庫)を購入いただく。既に1冊お持ちだが、汚れが目立つのでもう1冊とのことでした。そういう気持ち、よくわかります。それで本がどんどん増えていってしまうのですよね。昨春ちくま文庫版が出ましたが、この方にとってはやはりサンリオ文庫が大切だったのではないかと、勝手に思ったりしています。
その後話が弾み、シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』(河出文庫)、野溝七生子『女獣心理』(講談社文芸文庫)、国枝史郎、色川武大と計5冊もお買い上げいただいてしまった。

不忍の一箱古本市にも行かれていらっしゃるし、仕事で訪れた仙台では、「Book! Book! Sendai」の一箱古本市にも足を運ばれたとのこと。<火星の庭>さんや<マゼラン>さんのこともご存知でした。
楽しいひと時をありがとうございました。

赤ちゃんを抱っこした女性のお客さまに、『神谷美恵子日記』(角川文庫)、矢田津世子『神楽坂 茶粥の記』(講談社文芸文庫)をお買い上げいただく。本好きの方なのだなあと静かに思う。赤ちゃんを連れていらっしゃるのだから地元の方に違いない。
他にもお子さん連れのお客様の姿をけっこう目にした。国立という街ならではの光景にも思える。

30代と思われる女性に、吉本隆明『夏目漱石を読む』(ちくま文庫)、三島由紀夫『源泉の感情』(河出文庫)を購入いただく。
妻のとみきちが午後2時頃会場に到着したので、その後は店をほとんど任せてしまった。そのため、お客様とは会えず。お話しさせていただきたかったなと残念でならない。吉本と三島の組合せなんて私にとってドンピシャのツボですから。

駄々猫さんとのコラボ<しま猫舎>でよく出店されている<しま猫>さんと、今回は本に関していろいろ話ができて嬉しかった。
ちょっと店を離れ戻ってくると<しま猫>さんがロラン・バルト『エクリチュールの零度』(ちくま学芸文庫)を手に持たれていたので、おや?と思う一方で俄然興味が湧いてきました。<しま猫>さんが出品されている本と傾向が違うように思えたからです。
「今日は買いたいのですが」というようなことを遠慮がちにおっしゃるので、
「もちろんです!」と私。

普段読む本と出品する本が同じとは限らないー そんなことが頭から抜け落ちていました。
バルトの次に『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)、さらに青柳いづみこ『音楽と文学の対位法』(中公文庫)を。選ばれる本や会話の中から、言葉、言語というものに敏感で、特別の思いを抱かれている方に思えました。最後には高山なおみさんの本も購入いただいてしまった。
何度もお会いし、挨拶を交わすことはありましたが、こんなに本を買っていただき、話ができたのは初めてのこと。こういうのも本を通じての新しい出逢いと云えるのではないでしょうか。
<しま猫>さん、某資格合格まであと一歩ですね。がんばってください。

相棒の駄々猫さん、遅れてくるとは聞いていたが、午前中からいたことに気付かなかった。なにせ、お客様を魅了するあの明るい声が全くといっていいほど聞こえて来なかったから。
すごい格好をした女性が死にそうな感じで店番しているのを見て驚く。何と駄々猫さん…。
かなり具合が悪いのを無理して駆けつけたみたいだ。終了後しばらくダウンしてしまったとブログで知る。
新しい試み、企画など楽しみだけれど、無理はしないでほしいな。
やはり、元気な駄々ちゃんでないとつまらない。

駄々猫さんには村井弦斎『食道楽』(岩波文庫)を購入いただきました。

過日、ナンダロウさんとの初トークを終えたNEGIさんにお出でいただく。古本イベントの多くに関わられ、よく知られている方。会場でも多くの方々と楽しそうにお話されていた。
当店にとっては、大切なお客さまのお一人。これまでにたくさんの本を購入いただいています。造詣の深いNEGIさんがどんな本を手にされるか、店主という立場を離れ、いつも楽しみしにしています。

私が店を離れている際、まず徳川夢声の対談集を購入いただいたことを妻から聞く。その後、ゆっくりと会場を廻られてから再びご来店。荒川洋治『黙読の山』(みすず書房)、吉田健一『瓦礫の中』(中公文庫)を買ってくださった。荒川洋治を手にしてもらえるのは、佐野洋子、五味康祐(音楽本)などと共に<とみきち屋>お勧めなので、やはり嬉しい。『瓦礫の中』はどうなるだろうかと思っていたのですが、NEGIさんで納得。

<市川糂汰堂>さんに、五味康祐『人間の死にざま』(新潮社)をお買い上げいただく。店にいなかったのが悔やまれる。妻の話によると『西方の音』はお持ちだとのこと。
この本は4冊所有していた。小児科医の友人に、「五味康祐の本何か推薦して」と言われた時に1冊贈り、2冊は手元に残して置きたいので、残りは1冊。今回で出品するのは3回目。

五味康祐の名を知っている人が少なくなった、知ってはいても剣豪小説家のイメージが強いこともあってか、過去2回は見事に振られた。
3分の1が人の死に関わる随筆風の文。残りは五味さんの真骨頂とも云えるクラシック音楽にまつわる話という構成になっている。

檀一雄『火宅の人』への痛烈な批判は壇へのまごうことなき愛情があってのもの。交通事故で二人の命を奪ってしまった(過失致死)五味康祐だからこそ嗅ぎ分けられた、太宰治が抱える闇。いずれの文もずしりと腹にこたえる。

午後3時過ぎに、<どすこいフェスティバル>の女性お二人が来てくださいました。黒岩比佐子さんの話に夢中になってしまいTさんとばかりお話してしまい、すみません。ダメですねえ、周りが見えなくなってしまうのは…。

<どすこいフェスティバル>さんは昨年11月の「みちくさ市」に参加され、黒岩さん手書きのメッセージを飾られていました。

201011211557000

2010年の2月下旬、Tさん、今回は会えなかったKさんたちが東大生協部で黒岩さんの著書『音のない記憶』(角川ソフィア文庫)を平積みしていることを伺い、黒岩さんに伝えました。苦しい抗ガン剤治療中でしたので、励ましにもなる素敵なお知らせに思えたからです。
その後のことは黒岩さんが生前、ブログに書かれました。

〔東大生協書籍売り場でのフェアの様子〕
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/2010-03.html#20100313

Tさんは「自分が売りたい本のPOPを著者ご本人に書いていただいたのははじめてです」と話しています。
こんなこともあったので、<どすこいフェスティバル>さんとお会いすると、どうしても黒岩さんの話になってしまいます。黒岩さんのことをこれからも伝えていきたいという気持ちを共有できるのは嬉しいことです。

今回出店されていた<四谷書房>さん。本の本をずらっと並べられていて圧巻でした。
<とみきち屋>は出店のつど、例え小さなものであっても特集或いはテーマを設けて来たのに、今回控えてしまったことが棘のように突き刺さりました。
自身店構えがすかすかに見えたのは、単に持参した冊数が少なかったというより、そんなところが影響していたように思えます。

<ゆず虎嘯>さんに<とみきち屋>を紹介していただいたモンガさんから、野呂邦暢の単行本を出され、しっかり引き取られていったと伺う。最初にモンガさんの箱を見なくてよかった。欲しくなるに決まっています。それに耐えなければならないのは精神的によくない(笑)

<ドンベーブックス>さんは、国立ということあって山口瞳の本をかなり出していました。初めての試みという300円均一もよく売れていました。当然均一ではなかったけれど尾崎一雄も渋かった。

「くにたちコショコショ市」には350人以上の方にお越しいただいたようです。あの厳寒の中を思えば、すごい数字だなと思います。ほんとうにありがとうございました。

今回<とみきち屋>は102冊揃え、76冊お買い上げいただきました。
平均単価369円。複数冊お買い上げいただきサービスで100円にした本も若干ありますが、低価格の本が少な目だったので、「みちくさ市」に比べ、単価は上がりました。加えて国立という土地柄も後押ししてくれたのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「第9回 鬼子母神通り みちくさ市」 出品本の紹介(1)

お待たせしました。11月21日(日)に催される「第9回 鬼子母神通り みちくさ市」において、私ども<とみきち屋>が出品する本の一部を2回にわたって紹介します。

<とみきち屋>は旧「花結び」となり個人宅ガレージに出店します。

→こちら(地図)http://kmstreet.exblog.jp/page/2/

今回、妻・とみきちは仕事で参加できませんので、店番の助っ人として姪(弟の長女)を連れて行きます。初めてのコンビゆえ、行き届かぬ点もあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします。

特集1【 追悼 佐野洋子 】
まずは何をおいても<とみきち屋>がこれまで毎回お薦め本として出品してきた佐野洋子さん。
ほんとうに残念なことですが、11月5日に逝去されました。
追悼特集を組みます。ほんとうは生前にやりたかったのですが…。

エッセイが中心。同じ著書でも単行本、文庫本両方で揃えたものもあります。品切れ本は11冊ほど。品切れでなくとも、アマゾンでは既に取り寄せまで2~4週間かかりそうな本も出始めています。
一人でも多くの方に読んでもらいたいと思っておりますので、ファンの方、興味を持たれた方は是非お立ち寄りください。

201011151657000

特集2【 作家論、作家の周辺(文壇)ほか 】
月並みな感は否めませんが、この手の本をお探しの方もいらっしゃるのではないかと。

■野口冨士男『感触的昭和文壇史』(文藝春秋)
■野口冨士男編『座談会 昭和文壇史』(講談社)
■入江杏子『檀一雄の光と影』(文藝春秋)
■森田草平『漱石の文學』(現代教養文庫)
■小島政二郎『小説 芥川龍之介』(講談社文芸文庫)
■中村光夫『谷崎潤一郎論』(新潮文庫) ほか

201011151710000

【 単行本 】

■ヘンリー・ミラー『マルーシの巨像』(水声社)
■アイザック・B・シンガー『短い金曜日』(晶文社)
■双書・20世紀の詩人5『パウル・ツェラン詩集』(飯吉光雄編・訳 小沢書店)
■絲屋寿雄『増補改訂 大逆事件』(三一書房) ほか

201011151834000

| | コメント (0) | トラックバック (0)

佐野洋子さん逝去

仕事を終え夜11時過ぎに帰宅し、PCを立ち上げ目を疑った。ブログのアクセス数が異常に多い。何が起こったのかと、検索ワードを調べたら「佐野洋子」「佐野洋子 がん」「佐野洋子 息子」となっている。言葉を失う。予想した通りのことがネットの記事に出ていた。佐野洋子さんが亡くなられた。
遠くないうちにこの日が訪れることは分かっていた。
しかし、実際もう佐野さんの文章を読むことも、絵を見ることもできないのだと思うと、大きな喪失感に襲われる。

歯に衣着せぬ表現で、すかっとさせてくれることが多かった。
ものごとをこんなふうにも見れるのだと、感心もさせられた。
でも、どことなく寂しげで孤独を感じさせるところもあって…。
ほんとうに繊細な人だったと思う。
そうでなければ、あの名作『100万回生きたねこ』は生まれていなかっただろう。

2年半前『役に立たない日々』(朝日新聞出版2008.05)を読んで佐野さんが癌を患っていることを知った。何の前置きもなしに「ガンになったので、髪の毛がメリメリと抜ける」という文章が目に飛び込んできた時の衝撃は今も忘れない。

乳ガンの手術をし、過酷な一年を送った後、骨への転移が見つかる。
あと何年持つかと医者に尋ね、ホスピスを入れて二年と云われ、抗ガン剤治療も延命も拒んだ佐野さん。
治療を続けたらかかると思われる費用1千万で、病院からの帰りにいきなりジャガーを購入し、1週間でボコボコにしてしまい、毎日カラスの糞がボンネットにのっていると淡々と語っていた。
がんのおかげで苦しかったうつ病が消えたと、喜んでいるようにも思えた洋子さん。

その後、『天使のとき』 朝日新聞出版 (2008.12)、『問題があります』 (筑摩書房 2009.7)、『クク氏の結婚、キキ夫人の幸福』 (朝日新聞出版 2009.10)と出版されたが、自身の闘病生活を書かれてはいない。
他の媒体で佐野さんが語っていたとも聞いていない。ほとんど何も伝わってこない。
佐野さんらしいなと思う。

『問題があります』のあとがきの日付が2009年5月31日となっているが、これが最後の文章になったのだろうか。(以下抜粋)

今日箪笥をあけたら着物が一枚もない。誰かにあげたのだが誰だか思い出せない。昔から忘れっぽかったが、多分それは自分とってどうでもいい事だったからで、それにしてもどうでもいい事が多すぎた一生だったと思う。
そして強く思った。まるで生きていてもいなくても同じ一生だった。
しかし、必死こいた一生だったはずである。あんなこともう二度と出来ないというような事を歯を食いしばってやって来たことも沢山あった。
でも今や、そういう事も鮮度が次第に落ちてぼんやりはるかである。
忘れないと人間は生きていけない。
年月を経て生きて来ると記憶も膨大になるが、覚えていたら芥川龍之介のように若死にしなくてはならない。私など三度位死ななくてはならない。幸い私は芥川ではない。神様ありがとうございます。
そういうわけで、私は自分が書いたものもへーいつ書いたんだっけと思うばかりである。
死んで閻魔様に「名前は?」ときかれて「へっ、誰の?私?忘れました」と答えると思う。

まさか閻魔様に会うとは思えないが、何かも忘れてのんびりゴロゴロしている姿が浮かんでくる。

佐野洋子さんのご冥福を心からお祈りいたします。

〔追記1〕葬儀・告別式は近親者のみで行われるみたいですが、喪主の長男・弦さんと発表されているのは、『かってなくま』ほか何冊も佐野さんと一緒に絵を描かれている広瀬弦さんだと思います。

〔追記2〕これまでに佐野洋子さんのエッセイに関して2度触れました。

佐野洋子のエッセイ(1) http://ramble-in-books.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5983.html

佐野洋子のエッセイ(2) http://ramble-in-books.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-8ce3.html

| | コメント (3) | トラックバック (0)

佐野洋子のエッセイ (2) 『神も仏もありませぬ』

昨年11月にようやく文庫化された『神も仏もありませぬ』(ちくま文庫)は、『ふつうがえらい』から12年後のエッセイになる。(間に『あれも嫌いこれも好き』が出版されているが)

いきなり呆けてしまった八十八歳の母親の話から始まる。著者を「奥様」「そちらさま」と呼ぶ母に年齢を聞くと「四歳」と答える。それでも、「この人の中では私はどこかで動かぬ子として存在していると感じる。」
「私は年老いることをずっと確認しながら生きてきた」と、自らの人生を振り返りながら、次のように語る。

今思うと、十代の私は自分の事以外考えていなかったのだ。共に生きている同時代の人達以外に、理解や想像力を本気で働かせようとしていなかった。しかし自分が四十になり五十になると、自分の若さの単純さやおろかさ、浅はかを非常に恥じ入る様になり、その年になって小母さん達の喜びや哀しさに共感し、そして人生四十からかも知れないと年を取るのは喜びでさえあった。(略)そして、六十三歳になった。半端な老人である。呆けた八十八歳はまぎれもなく立派な老人である。立派な老人になった時、もう年齢など超越して、「四歳ぐらいかしら」とのたまうのだ。私はそれが正しいと思う。私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六十三だかに関知していない。
呆けたら本人は楽などと云う人が居るが、嘘だ。呆然としている四歳の八十八歳はよるべない孤児と同じなのだ。年がわからなくても子がわからなくても、季節がわからなくても、わからないからこそ呆然として実存そのものの不安におびえつづけているのだ。

肉親が呆けてしまった者には、「よるべない孤児」という言葉が痛く突き刺さるに違いない。佐野洋子は、母のその姿に不安と恐怖を覚える。やがて自分もそうなるであろうと。それでも、母を立派で正しいと言い切っている。そこに救いがある。

このエッセイで佐野洋子は、象徴的とも言える「死」に触れている。一つが、ガンで一週間少ししかもたないと言われた愛猫フネの「死」。
一番高いかんづめを買って、スプーンで食べさせる場面。

フネは私の目を見ながら舌を出して白身を一回だけなめた。私の声に一生懸命こたえようとしている。お前こんないい子だったのか、知らんかった。気が付くとフネは部屋の隅に行っていた。(略)ガンだガンだと大さわぎしないで、ただじっと静かにしている。畜生とは何と偉いものだろう。時々そっと目を開くと、遠く孤独な目をして、またそっと目を閉じる。静かな諦念がその目にあった。人間とは何とみっともないものなのだろう。じっと動かないフネを見ていると、厳粛な気持ちになり、九キロのタヌキ猫を私は尊敬せずにはいられなかった。

ほとんど食べることもできなくなったが、二週間が過ぎる。フネはもう砂箱まで行けない。それでも健気に、人間用のトイレのところまで必死に行って、便器の前で用を足す。一ヶ月後、クエッという声を上げ、息をひきとるが、著者はもう驚かない。

私はフネのように死にたいと思った。人間は月まで出かける事が出来ても、フネの用には死ねない。月まで出かけるからフネの様には死ねない。フネはフツーに死んだ。太古の昔、人はもしかしたらフネの様に、フネの様な目をして、フツーに死んだのかもしれない。「うちの猫死んだ」とアライさんに報告したら、「そうかね」とアライさんはフツーの声で云った。

アライさんというのは、親しくしてもらっている農家の旦那さんで、自然とともに生きている人である。命あるものがいつか死を迎えるのはあたりまえのことなのだと、「そうかね」のひと言によって、著者に静かに伝えている。決して温かさを欠く人ではない。あたりまえのことをフツーに受け入れられない、受けとめられない脆さを、著者は自身にも感じている。

もうひとつは、二歳年下の幼なじみ、孔ちゃん(六十二歳)の突然の「死」。妹からの電話で知らされた時、受話器を持ったままペタンと座りこんでしまい、「外に見えるものが世界中から消えてしまった様な気」がしてしまう。
鍋ごと豪快にカレーを食べ、演劇に打ち込み、やがて商社に勤め、億単位のお金を動かすようになる孔ちゃんだが、ふらっと著者の仕事場に来ては、仕事しているところを何時間も珍しそうに見ていたり、アメリカに渡ってからも時々用もないのに電話をかけてきたりしていた。孔ちゃんとの思い出が走馬燈の如く頭の中を駆けめぐる。

赤ん坊の時から友達は孔ちゃん唯一人だった。何の根拠もなく私が先に死ぬと思っていた。いやそんな事も考えなかった。どこかに孔ちゃんは居るにきまっていたのだ。「もう一回だけ会いたいよう」。私は声を出して床をたたいた。たたきながら、「一人暮らしってこういう時便利だなあと思っているのだ。そうだ、泣いても平気なんだと思うと、私は大声を出して泣いた。

四十九日の朝、オレンジやピンク、うす紫の雲が幾重にも染まって、浅間山の左の方が透きとおったピンクになり、孔ちゃんが極楽を見せてくれたのだ、と著者は思う。

私たちが老いて、誰にも死が近づいている。これから生き続けるということは、自分の周りの人達がこんな風にはがれ続けることなのだ。老いとはそういうさびしさなのだ。
一ヶ月前床をたたいて泣いたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。生きているってことは残酷だなあ、と思いながら笑い続けている。

日常に還ることが生きていくこと、そして強さ、と取れないこともない。しかし、私には笑顔の底に、大事なものをひとつまたひとつと剥ぎ取られていく悲しみが見えてならない。

もちろん、佐野洋子らしさも随所に見られる。エベレストをあおぎ見たときに、その神聖さに畏敬の念を抱き、登ろうとする人間たちを、感受性を失った馬鹿と吠える。自分は女性として、現役を下りたので「今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない」から幸せで心安らかとも語っている。
農家のアライさん夫妻との心温まる交流、何でもそろっている不思議なドラッグストア「ホソカワ」とその店の奥さんの話。夏になると東京からやって来る古道具屋「ニコニコ堂」の親子との微笑ましいエピソードもある。ご主人はつげ義春『無能の人』のモデルになった人らしい。息子さんは芥川賞を受賞した長嶋有。
だがやはり、この本は「老い」と「死」を見つめる著者の視線が深くまとわりついている分、以前の作品とは趣を異にしている。
この『神も仏もありませぬ』が単行本で出版されてから5年後の2008年。『役に立たない日々』(朝日新聞出版)が世に出る。その本のおよそ3分の1弱あたりに「二〇〇五年冬」という章がある。こう始まる。
「ガンになったので、髪の毛がメリメリと抜ける。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

佐野洋子のエッセイ (1)

『100万回生きたねこ』で遍く知られている佐野洋子のエッセイを読んだのは、『ふつうがえらい』(1995年発行・新潮文庫)が初めてだった。奔放なもの言い、すかっとするような切り口、「だって私は私でしかないんだ」という姿勢を貫いているのに、読後しんみりとしてしまう、不思議な魅力を湛えた本だった。

死んでしまった金魚を埋葬する際の、6歳の姉と5歳の妹の話。姉は猫に食べられないようにと深く土を掘る。妹は穴の中では苦しいし、暗くて寂しいからと、葉っぱを敷きつめ金魚を載せて、上から葉っぱをかける。姉妹の父親は、それぞれの個性を大事にしたいと著者に語りかける。ほのぼのとしたエピソードで終わるのかと思うと、そうはならない。佐野洋子は、前者をくそまじめ、後者を人から見るといいかげんなヤツと捉え、自分は後者だと。この世は、この二つのタイプがいいかげんに分布していて、変にピッタリくっついておぎない合っている。「いいかげんなヤツばっかでも、くそまじめだけでも世界は完璧にならない。神様はえらい。」と結ぶ。こういう視点のずらし方は著者特有のものだ。

40年前にご主人を亡くした、八十三歳のおばあさん。ある時、踏切の向こう側に竜宮城を見たと話しながら、(ご主人のことを)「世界一の男よ、わたくし、本当に幸せです」と言って、著者にボロボロになった写真を見せる。また別の時には、餌をあげたすずめが、「ありがとう」と人間のことばで喋り、お礼として子すずめをくれたと話す。そして、また亡き夫の写真を見せる。著者はその度、うらやましくて、ぽーっとしてしまう。そして次のように語る。
「人は生と死の間をこんなふうにおぼろに渡ってゆくのだろうか。どうしてこのひとだけにこんな美しい嘘と真の世界が用意されているのだろう。たった一人の男を命をかけて、たったひとつの自分のたましいと肉体をかけて愛したからだろうか。」と。私は「美しい嘘と真の世界」という表現に鷲づかみにされ、佐野洋子が好きになった。

「ことばを覚えると覚えるほどことばが通じるようになって、ことばが通じることだけで満足したりして、そしてことばでないものを感じたりわかったりすることを投げすててしまうのだ。」
著者は、内実を伴わないことばのやりとりに疑問を投げかけ、ことばの背後にある「ことばにならないことば」を重んじる。そして絵本における絵にも同じ視線を注いでいる。

ひとりの男性をめぐり三角関係に陥った友人(みよちゃん)の話を引き合いに出して、自らの恋愛のこころざしを語るところ。
敵対する女性が、出刃包丁を持ち出して彼を脅し寝かせない、どこにでもべったりくっついて行って、彼を追い込んでいるのが許せないとこぼす。著者が「あなた、しっとはないの?」と尋ねると、自分の知性、美学が許さない。人(男性)を自分のものだという権利なんかないと語る。それに対して、佐野洋子はこう思う。

私理由はわからない。でもみよちゃん、あなたの負けよ、出刃包丁が正しい、あのひとは私のものだって追いつめるのが正しい、たとえそれで男を失ったとしてもその女が正しい、この正しいというのは正義というのではない。恋愛に「権利」などという言葉を持ち出すみよちゃんの負けだ、と何かが私に教える。恋愛は本来無法地帯なのだ。誰も取り締まれない、全ての人に権利があり全ての人に権利などない。全ての秩序が崩壊する場だからこそ恋愛なのだ。その混沌から美しいものだけをとり出すことはできない。(略)人と人が生きるってもっと抜きさしならないところに追いつめられて追いつめて、追いつめる自分の醜さに耐えて、あたふた楽な方に逃げる相手のずるさを出刃包丁でさし殺すことではないのか。何の為の知性かと反論されれば、私は野生の中にある知性こそが、本当の知性だ、そして、それは人間が生き物であれば、誰でも持っているものだと思う。

恋愛に「正義」なぞを持ち込むことの愚かさは、納得できる。清濁ない交ぜになったところからしか、始まらないものもある。それがわかった時点で終わりを迎えようとも。

難しい言葉はひとつも使われていない。なのに、拡がりをもって読む者に迫ってくる。一見断言していると思えるころでも、「ほんとはひとりひとりが考えればいいことなんだ」「思いはそれぞれのもの」という声が聞こえてくる。彼女は、私たちがふだんうまく言葉にできないこと、言いにくいことを単に代弁しているわけではないのだ。

『ふつうがえらい』はマガジンハウスから発行されたのが1991年なので、今から18年前の文章になる。『がんばりません』(新潮文庫)は、『佐野洋子の単行本』(1985年発行・本の雑誌社)を文庫化したものなので、『ふつうがえらい』より6年前の文章にあたる。2000年にはエッセイ集『あれも嫌いこれも好き』が朝日新聞社から出ている。(現在朝日文庫)

佐野洋子のエッセイの本質を知るなら、『ふつうがえらい』(新潮文庫)、2003年に筑摩書房より出版され、昨年(2008年)11月にようやく文庫になった『神も仏もありませぬ』(ちくま文庫)『役に立たない日々』(2008年5月発行・朝日新聞出版)『シズコさん』(2008年4月発行・新潮社)の4冊を薦める。できれば、この順番に読むのを。最後の『シズコさん』はエッセイとは呼べないかもしれない。母親との愛憎を描いた特異な本だからだ。でも、読んで欲しい。
母親を病院に入れ、亡くし、自身が癌におかされ余命2年と宣告される彼女の人生の流れに添って読めば、ことばの響き方も違ってくるように思えるからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)