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佇む喜び 荒川洋治『読むので思う』(幻戯書房)

昨年11月末、<わめぞ>「みちくさ市」プレ開催参加直前に、荒川洋治『読むので思う』(幻戯書房)を購入。40頁ほど読んで簡単な感想を書いたが、それから2ヶ月少し経った。3回通読、文章によっては4、5回読んだものもある。そのつど深くしみ、飽きることがない。

本を読むと何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。人が書いた作品のことがらやできごとはこちらには知らない色やかたち、空気、波長を持つ。いつもの自分にはない思いをさそう。読まないと、思いはない。思いの種類の少ない人になり、そのままに。そのままはこまるので、ぼくも読むことにした。

本書のタイトルにもなっている「読むので思う」からの言葉。荒川洋治という詩人の素晴らしさがいかんなく発揮されている。ひっそりと、何度でも味わいたい文章だ。
「色やかたち、空気、波長」は知識とは別のもの。本を書いた人の思いを受けとめ、自分(読者)も様々な思いを巡らせることで見えてくる世界。そこからまた、世界は拡がり、深まってゆく。
同時に著者は、詩人北村太郎の『光が射してくる 未刊行詩とエッセイ 1946-1992』(港の人)に触れ、漠然と或いは好きなものだけを読むのはほんとうの意味での「読書」とは言えないことを示唆している。(以下「  」内は北村太郎の言葉)
「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」「ひとつの小説の型、考え方の型、生き方の型、美の型だけにしがみついて、それ以外のもの認めようとしない」人になる危険があると。

こういう文章に出会うたび、立ち止まっていろいろ「思う」。自分の読書嗜好は偏っていないだろうか?あれもこれも気になって多くを読む。でも、ほんとうに読んだといえるのか?読んだということで満足していないか?咀嚼できているか?などと。
また、一冊の書物に感銘を受けた時に自分をしっかり見つめ、何を得たのか自分の言葉で表現できるかどうかも、大切な事だ。
知識としてのみ吸収するだけでは、心が狭くなり、かたくなになってしまいかねない。読書の難しさがそこにある。

荒川洋治はさらに、今の自費出版の問題点を昔のそれと比べて、こう語る。

すぐれた作品を書く人の作品を編集、出版することを通して「表現の世界」全体の展開を楽しむ。そこに読者としてのよろこびと、出版の意義を見た。複数の人間がつながる新しい空気が生まれた。それから時は流れ、他者への興味や関心は希薄になった。いまは、自分のお金で、自分の本をつくるだけ。そこから先は、ない。その先を考えるヴィジョンははじめからもたない。本が出ることで、人と人は出会うもの。いまは逆に分断され、孤立感を深める。本をめぐる意識は貧しいものになってしまった。

厳しい言葉で書かれてはいるが、本とは出会いの場であり、そこから人がつながってほしいという著者の願いが行間から滲み出ている。
著者の本への愛情があふれている文章を紹介したい。『結城信一 評論・随筆集成』(未知谷)に触れた「青年の方角」の中から。

本らしい本を読まない人がふえた。目の前のものだけを見るようになった。文学は、現実の奥底を照らすものだ。見えにくい現実を知らせてしまうものを人々はうっとうしくかんじるようになった。そういう人たちが新しい時代をつくりはじめた。(略)人のいのちと同様に、文学にも寿命があることに気づく人はいなかったのだ。どこに、何があったのか。どこに何がなかったのか。それを確かめるためにも文学を振り返らなくてはならない。見つめなくてはならない。この一冊におさめられた文章の形式、内容、配置、それらすべてが、いまはなき時代のものである。そのことが胸に迫る。本書は、ことばや文章を大事にした人たちの姿をうつしだしている。結城さんのことばは、文学を表すものだ。忘れることはできない。

著者は、単に昔はよかったと嘆いているわけではない。文学の力を信じている。文学を通して深まっていくものをこよなく大切にしている。この変わらぬ姿勢に、いつも胸が熱くなってしまう。
もちろん、本書には詩人特有の目で捉え、詩人らしい言葉で表現している文章も多い。一例をあげる。三好達治の詩「砂の砦」に触れた「手本のうた」から。

「砂の砦」のことばを見つめていると、光を知り、影を知る。反復という機能の美しさ、きびしさがわかる。わかったところで、自分には書けない。手本にできることが、こちらでできたら、手本ではない。こちらも、うれしくない。はるかなもの、この身に果たし得ないものを置く。そばに置く。それが手本をもつ、よろこびだ。

手本の本質を「はるかなもの、この身に果たし得ないもの」などと表現するなぞ、私のような凡人にはとうてい思いもつかない。美しい言葉だと思う。

目を凝らし、ありふれた光景の中に埋もれてまったものを見つけ出す。耳を澄ませ、さりげない日常の言葉、囁きに近いものから心の声を聞く。そして言葉をかみしめる。さまざまに思いを巡らすことで、新たな思いが芽生えてくる。佇む喜び。
荒川洋治のエッセイはそういうきっかけを与えてくれる、かけがえのないものだ。

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ETV特集 「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」 (2月1日 NHK教育TV放映)

芥川賞作家辺見庸は4年前、脳出血で倒れ右半身麻痺、その後癌も発覚し、大きなハンデを抱えながら、今なお現代社会の問題を鋭く抉り続けている。倒れた後に出版された『自分自身への審問』 (毎日新聞社)、 『いまここにあることの恥』 (毎日新聞社)には、鬼気迫るものを感じた。

辺見は現在の危機的状況を「パンデミック(感染爆発)」と名付ける。字義通りならば新型ウイルス感染の恐怖であるが、それだけではなく、経済恐慌、格差、社会と切断されてしまっている個、人間の心の問題まで、重層的に捉え、広義に用いているのだ。社会の個別的な事象、例えば、秋葉原事件、派遣切りなども「パンデミック」のひとつとして言及。さらに、カミュの『ペスト』をとりあげ、そこに現代社会が抱えている問題を重ね合わせる。

秋葉原事件に触れ、世の中から切断されてしまった「個」というものに、人の根源自体の腐敗を見て取っている。犯人が携帯を使って書き込んだ一連の言葉に薄ら寒くなるような痛ましさを感じ、リアルに生きられない姿を見、吐き出されたものが単なる記号としかとれず、これが「言葉」かと、愕然とする。これは、時代が経済という枠にとどまらない「恐慌」を迎えようとしている兆しではないかと。

1929年のニューヨーク株大暴落に端を発する世界恐慌の時期に、著書『ドグラ・マグラ』で有名な夢野久作が「猟奇歌」なるものを雑誌に掲載していたこと、さらにその歌に私自身驚愕した。
「自分より優れた者が皆死ねばいゝにと思ひ鏡を見てゐる」
「殺すくらい何でもないと思ひつゝ人混みの中を闊歩して行く」
「白塗りのトラックが街をヒタ走る何処までも何処までも真赤になるまで」
これらの歌から、単なる符合には思えぬ恐怖を感じないだろうか。
辺見の言葉を記す。

昔日との相違はまさに
悪の核(コア)をそれと指ししめすことの
できないことなのかもしれない
どうやら資本が深くかかわるらしい
〝原発悪〟が
ほうぼうに遠隔転移してすべての人のこころに
まんべんなく散りひろがった状態が
いまという時代の
手におえない病症ではないのか

カミュの『ペスト』(新潮文庫)では、行政側および新聞社がオランの市(まち)で起き始めていることを具体的、詳細には報道はせず、そのことがペストの拡大の危機を湖塗してしまう様子が描かれている。人々も現実に起きていることの真の重大さに気づかず、市が閉鎖された後も、街頭を練り歩き、懊悩はあるものの個人的な感情を第一として生活を送っている。いずれ鎮まる、たいしたことはないだろうという、願望に近いものが目を曇らせてしまう。久々に読み、神の問題も含め、30年以上前に読んだ時には見えなかったものが見えてきた。

辺見庸はこの『ペスト』に書かれている、医師リウーの「絶望に慣れることは絶望そのものよりさらに悪いのである」という言葉を基に、考えを巡らせていく。
ペストにさえ日常として慣れてしまいかねない、人間の危うい本質は現代においても変わらない。資本の潤滑油になっているマス・メディアが流す、コーティングされた情報にさらされている私たちは、まさにパンデミックとも言える危機的状況において、実相が見えなくなっている。道義、人倫、権利、言葉、信頼、約束など、人間の諸価値そのものが根底から覆されようとしている。単に経済の回復を目指すだけでは、対症療法に過ぎない。寄る辺なさ、存在の悲しみに震え、この世界から切断され、矮小化されてしまっている人間の内面こそ打破すべきと訴えるのだ。
辺見の言うように、職を失い、住む場所もなく、公園や路上で寝る人々の姿をふつうの、仕方のない光景と思えるようになってしまったら、異状だと思う。

辺見は、絶望に慣らされないための糸口を「誠実さ(sincierity)」に求める。言葉そのものは抽象的だが、伝えようとしていることは十分届いて来た。
著書『自分自身への審問』(毎日新聞社)にも書いているが、山谷で無宿者のために10年以上、休みのたびに炊き出しに来る人の話を例に出す。(本の中ではごく普通のサラリーマンで家庭人と書かれている。また、誠実さを〝心ばえ〟と表現している)
とってつけたような優しい言葉はかけない。しかし、誰かに注目されるわけでもないのに、社会の片隅で長年持続させる「誠実さ」の凄み。これには、作家である自身が百万言の言葉を費やしてもかなわないと正直に吐露する。『ペスト』の中の医師リウーの言葉、「ペストと戦う唯一の方法は誠実さです」に触れながら。

自覚的な「個」としてどう在るべきか。マスコミから伝達される、ある意味でバイアスのかかった(偏りのある)情報の奧に、何を見なければならないか。多くの問題を考えさせられる良質な番組であった。
辺見庸が共闘を求めているようには、私には思えなかった。それだけにいっそう、彼の口から紡ぎ出される言葉に重みを感じた。揺るぎない視座を持っている人である。

番組内では、リハビリを兼ね、右足を引きずりながら階段を上り下りする姿が何度か映し出される。進歩はしないが、やめると歩けなくなる可能性が生じる、「徒労」のような運動。
最後の言葉が耳から離れない。
「徒労という窓口から世界を考えたり、自分の行為とか生っていうものを考えることは、あながち悪いことじゃねえなとは思う。なにか、成果を期待するのがないっていうことはいいね」
命を賭して戦おうとする作家の思いが、胸を打つ。

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ETV特集「吉本隆明語る」(2009.1.4放映)を見る

90分という枠で、戦後思想界の巨人、吉本隆明の本質を描くことなど到底不可能とは思っていたが、予想通り断片的にしか伝えられていなかったというのが、正直な感想である。また、3時間に及んだという講演の3分の1も、番組には収められていなかったはずで、初めて吉本の語りを聞いた者にとっては、わかりにくい点が多かったのではないだろうか。
一歩進んでは立ち止まり、半歩後退したかと思うと二歩、三歩と進んで、また立ち止まる。たどたどしい語り口は、昔と変わらない。絶えず自分の中の言葉を紡ぎ出すことに苦闘している。
しかし、30年以上吉本の著書を読み続けてきた私には、「真実」と思える言葉を真摯に探る姿こそ、吉本隆明そのものであり、熱いものが伝わってきた。
以下、番組の内容を簡単にまとめながら、感想を述べてみたい。

いきなり、自らを「主戦主義者」だったと語り出すところなど、正直な人だなと共感を覚えた。終戦時、「生きていることの恥ずかしさでいっぱいだった」とも言っている。〔私は、吉本は右でも左でも、中道でもないと思っている。そんな枠には収まりきらない〕。
精神的には虚無に近い状態の中で、それまで身につけてきた教養が全く役に立たないことを自覚し、「世界をどう把握するか」を自らの課題として、古典経済学を学び始める。アダム・スミスからマルクスまで。スミスの『国富論』の中から、リンゴを枝からもいで取ってくるまでの例を挙げ、労働価値説に触れるが、TVの放映内容だけではわかりにくいように思えた。
吉本思想の大きな要である、マルクスとマルクス主義の違い、反スターリニズムについて触れられていないのも残念であった。もっとも、そのことに時間を割くわけにはいかなかったであろうが。

そしていよいよ「芸術言語論」。他人とのコミュニケーションのために用いられる「指示表出」の言葉は枝葉であって、言語の根幹は、沈黙にある。沈黙に近い、片言、ひとり言ともいえる「自己表出」が芸術の価値を形成していると語り始める。
著書『言語にとって美とはなにか』において、「自己表出」「指示表出」の概念に関しては、あらゆる角度から説かれているが、そう容易に理解できるものではない。ゆえに、話はもう少しわかりやすい具体例を挙げながら進められていく。
日本の俳句など、作者の名前を伏せてしまえば、芭蕉の句とて素人のものと見分けがつかないではないかという、桑原武夫による「第二芸術論」への批判として、小林秀雄も言っているように、芭蕉の句はバルザック、ヴァレリーなどの海外の芸術に、「自己表出」においては決して劣るものではないと語る。
〔※長編小説において、物語の起伏性が芸術的価値に間接的に関与していることを、小林が見落としていると、別のところで吉本は書いているが〕
日本の芸術は「短くすることによって蘇生させようとする」ものだと。
確かにバルザック、ドストエフスキーなどの海外長編文学は、純文学にして大衆文学の要素も兼ね備えていて見事ではあるが、物語に起伏を与えているのは「指示表出」の言葉であって、副次的なものであると語る。
その後、機能主義(ファンクショナリズム)の危うさを説くために、マルクスに触れる。
労働価値を付加していけば、つまりひとつの作品を直せば直すほど、芸術的価値も上がるというマルクスの考え方に異を唱える。「即興的に書いたって、いいものはできる」と。
予定の時間をオーバーし、熱弁を続ける最後のところで語られた内容は、特に印象に残った。

言葉の使い方という点では、現代人の方がはるかにたくさんの言葉を使える。しかしながら、それぞれの分野に専門化していることも否めない。そう話すことで、(はっきりとは言っていないが)吉本は現代の文学における密度の薄さを嘆いているようにも思える。
そして、こう結ぶ。
文明的価値も科学的価値もない時代の(万葉、古今、新古今などの)歌には「全人間力」が込められている。気分、感覚、情操というものが集約されていて強烈である。現代の方がよくなるというものではない。1000年や2000年で人間力の差はでないはずなのに・・・、と。

「半世紀もかけて考えてきたことを、そう簡単にはしゃべれない」という言葉が重く感じられた。
講演の最後近く、聴衆には目も向けず、上を向いたまま語り続ける姿は、まさに吉本自身が「自己表出」の言葉を絞り出しているように、私には思えた。

この番組で語られていたことを、もう少し詳しく知りたいと思うなら、吉本隆明著『日本語のゆくえ』(光文社)が役に立つはずです。 『「言語芸術論」への覚書』(李白社)という本も出ていますが、こちらはTVでとりあげた講演内容とは、ほとんど重なるところはないのでご注意ください。
ただ、最初にとりあげられている「神話伝承と古謡」「歌集『おほうなはら』について」という、やや専門的な文章を除けば、吉本隆明の人間性が明確に出ている、いい本です。

「言語のコミュニケーションとしてはゼロに等しいけれども、自分が自分に内心で問うている。その状態が「自己表出」です。それが芸術的な価値の純粋な意味になると、ぼくは理解しています」
「自分と、それから理想を願望するもうひとりの自分とのあいだがどれだけ豊富であるかということ、これが自己表出の元であり芸術的価値の元である」 
吉本隆明『日本語のゆくえ』(光文社)より

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言葉にならないことば 言葉と沈黙 

言葉は難しい。そのひと言で救われることもあれば、何気なく向けられたひと言に深く傷つくこともある。どれだけ言葉を費やしても伝わらない想いもあれば、言葉などなくても、寄り添っているだけで、想いが伝わることもある。長年連れ添った相手、心から信頼できる友であっても、言葉にしなければ伝わらないことがある。
一方、沈黙はどうだろう。峻拒の表明。あるいは、敢えて言葉にしないのが愛情ということもあり得る。
言葉と沈黙。本質的な部分では、補い合い、支え合っている。言葉は、時に沈黙を背景として際立ち、沈黙は無ではなく、多くの言葉が語られる中で、大きな意味を持つ。

スイスの哲学者マックス・ピカートに『沈黙の世界』(みすず書房)という著書がある。沈黙を失ったがゆえに、人間の本質が変わってしまったと、警鐘を鳴らしている。60年も前に書かれた本だが、現代のように言葉や音が、あたかも記号の如く消費されることを予見しているのだ。ピカートは、自然、文明、病と死、など多くの場面における沈黙の本質、意義を説いている。

「沈黙は言葉にとって自然であり、休息(いこい)であり、未開の原野である。沈黙によって言葉は、言葉自身によって生じた暴虐から身を清める。沈黙の中で言葉は息をひそめ、そしてふたたび根源的な力でもって自己を充たすのである」。
「沈黙は言葉がなくても存在し得る。けれど、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もし言葉に沈黙の背景がなければ言葉は深みを失ってしまうであろう」。
「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙は単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである」。

私は、ピカートが、沈黙に至上の価値を見いだしているとは思えない。沈黙が内包する豊かさを感知できれば、この世界が、より奥行きをもって現前することを伝えている。

また、ピカートは、根源的な愛の在り方を次のような言葉で語っている。

「愛の中にはことばよりも多くの沈黙がある。恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人は、その言葉よりも沈黙に聴き入っている」。
黙って!あなたの声が聞こえるように」。

歌手長渕剛が、以前次のように語っていた。

互いが理解し合う時、その共通言語なんてほとんどないと思っています。口に出せば出すほど、自分の想いはますます空回りします。そして、わかってもらえたかなあと半端に期待して、そのあげく想い通りの答えが返ってこないことを恐れるのです。そして、ますます、また孤独になります。だから、「そんな事わかってるだろう?」というところから常に出発するのです。その人間の内側から発せられる手段が言葉だとすれば、さらにその言葉の裏側というか、内側の想いを理解しようと努めます。「なにを言いたいんだろうか?」と考えるのです。だから、瞳と背中しか信じません。それだけで、充分ですから---。

長渕は言葉を否定してはいない。良くも悪しくも人に影響を及ぼす言葉の力、危うさというものを受けとめている。そうでなければ、言葉に想いを託して歌うことなどできないはずだ。内奥から発せられる「ことば」に耳を傾けようとしている。それが、「瞳と背中しか信じません。それだけで充分ですから」という言葉になったのではないだろうか。

私は「沈黙」の重要さを感じている。と同時に、「言葉」も大切にしたい。言葉は両刃の剣でもあるから、よりいっそう大事にしたいと思う。相手に自分の「ことば」が届くように。容易なことではないが。

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〔雑記〕 ベット・ミドラー『ローズ』から始まった脈絡のない連鎖

なかなか寝付けずにいると、昨日、車の中で聴いたベット・ミドラーの『ローズ』が甦ってきた。真夜中なので、ミニコンポで、音を絞り、20回ほど連続で聴く。ジャニス・ジョッブリンの短い生涯を描いた映画の最後に流れる、このあまりにも有名な曲の説明は不要だろう。

Just remember in the winter
Far beneath the bitter snows
Lies the seed that with the sun's love
In the spring becomes the rose

この曲から、「希望」という言葉が浮かんでくる。

ある青年にナイフを突きつけられ、「希望を語れますか」と問われた時に、
「語るべき希望などない」と答えると、「あなたが今希望を語ったなら、あなたを刺していた」
蜷川幸雄『千のナイフ、千の目』の中に、そんなくだりがあったことを思い出す。

同じ「希望」でも、質が違いすぎる。

「希望」・・・突然、岸洋子の歌『希望』が耳に。流行ったのは小学生の頃だ。深い意味などわかるはずもなかったが、訴えかけてくるものがあった。続いて、弘田美枝子『人形の家』、奥村チヨ『終着駅』。もの悲しい歌ばかり甦ってくる。これも小学生の時に聴いていたはずだ。

突然、エディット・ピアフ『愛の賛歌』が聴きたくなる。10回ほど繰り返し聴く。
初めて耳にした時、その声に、震えた。歌詞の意味などわからない。
なのに、自らの命を削っているように感じられた。
その後、飛行機事故で亡くなった恋人へ捧げた歌だと知る。

希望と諦念? 希望と絶望? そんな単純なものではないはず。

説明しようのない、音楽と言葉の脈絡のない連鎖。

窓の外が明るくなってきた。

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