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『新書大賞2010』(中央公論新社) 〔2〕

〔1〕(http://ramble-in-books.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/10-a47d.html)を書いてからかなりの日数が経ってしまったが、『新書大賞2010』における8位以下を見ていきたい。

8位(49点)   ⑧『世界は分けてもわからない』 福岡伸一(講談社現代新書)
9位(37点)   ⑨『通勤電車でよむ詩集』 小池昌代編著(生活人新書)
           ⑩『日本の難点』 宮台真司(幻冬舎新書)
11位(34点)  ⑪『書くー言葉・文字・書』 石川九楊(中公新書)
           ⑫『多読術』 松岡正剛(ちくま新書プリマー新書)
           ⑬『ベーシック・インカム入門』 山森亮(光文社新書)
14位(32点)   ⑭『関係する女 所有する男』 斎藤環(講談社現代新書)
           ⑮『コミュニティを問いなおす』 広井良典(ちくま新書)
16位(31点)  ⑯『学問の春』 山口昌男(平凡社新書)
           ⑰『ニッポンの思想』 佐々木敦(講談社現代新書)
           ⑱『落語論』 堀井憲一郎山森亮(講談社現代新書)
19位(30点)  ⑲『2011年 新聞・テレビ消滅』 佐々木俊尚(文春新書)
20位(28点)  ⑳『闘うレヴィ=ストロース』 渡辺公三(平凡社新書)
           (21)『ヤンキー進化論』 難波功士(光文社新書)

8位⑧『世界は分けてもわからない』
2008年『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)で大賞受賞、2009年『できそこないの男たち』(光文社新書)は2位と、著者の新書は必ず上位に入ってくる。科学者としての透徹した目と、事象の奥行きを感じとる深い眼差しを併せ持っているところがなんと言えない。淀みなく流れる文章が未知なる世界へと誘ってくれる一方で、時折、上質のエッセイの佇まいを感じさせてもくれる。
この新書については機会を改めてもう少し詳しく触れてみたいと思っています。

9位⑨『通勤電車でよむ詩集』
書店ではあまり目立たない生活人新書ということもあって、見落としていました。北原白秋、谷川俊太郎とともにパウル・ツェラン、エミリー・ディキンソンなどの詩が収められているというのだから、魅かれる。読んでみたい一冊。

『日本の難点』
宮台真司には奥平康弘との対談『憲法対論』(平凡社新書)があるが、初の書き下ろし新書とのこと。現在の閉塞した状況下で著者がどのような提言をするかに興味が集まったのだろうか。それにしても、売上げでは8位には驚き。決して読みやすい本ではないのに。
例えば、早期教育に関してシュタイナーをとりあげ、次のように述べています。ちょっと長いけれど引用します。

社会システム理論の立場で言えば、<世界>を世界体験に変換する関数として、パーソナルシステム(自我)や社会システム(社会)があるのだと考えられます。関数ですから、別の関数(別様の変換可能性)を考えることができます。シュタイナーは関数を決まりきったお約束から解放しようとしました。
解放と言いましたが、関数自体から逃れられるわけではありません。<世界体験>の法則の記述性も-<世界>の法則性の記述さえ-<世界体験>の一つでしかありません。なぜなら我々には、<世界>を知ることが論理的にはできないからです。
我々が<世界体験>ではなく、<世界>の法則性を記述すると「見做す」のも、せいぜい「特定の手順に従えば万人が同じ観察を再現できる」という基準がクリアされた(と「見做す」)からに過ぎません。むろんこうした基準もまた、社会システム(社会)という関数すなわち変換装置のひとつなのです。
(中略)
本項の冒頭で僕が「目から鱗」こそがキーワードだと述べたことも、それに関係します。ただし、単に知的な「目から鱗」よりも、それを手段とする感情的・感覚的な「目から鱗」こそが大切だと思います。知的な幅とは違い、感情的・感覚的な幅は、成人後は簡単に変えられないからです。
感情や感覚の幅が広い人間であるほど、他人が置かれている状況や、それが彼や彼女に与える影響を理解できます。それが理解できる人は、他人を幸せにできるし、他人を幸せにすることを通じて自分も幸せになることができます。(中略)
他人を幸せにするということは、経済的な機会や政治的な機会をもたらすことに還元できない何事かです。たとえば、ミメーシス(感染的模倣)の機会がそうです。豊かになるとか集団を操縦するとかは別に、「スゴイ奴」に感染する喜びは、感情や感覚の幅を不可欠とし、またそれらの幅を拡げます。

社会システム理論に精通していない私には、ここでいう「関数」とは何のことなのか、もうひとつピンと来ない。「感情的・感覚的な幅は、成人後は簡単に変えられない」には肯けるところもあります。しかし、感情や感覚の幅が広い人間は、他人の置かれている状況を理解でき、人を幸せにできるには躓いてしまう。人間ってそんな単純なものではないでしょうと言いたくなってしまうのです。
「他人を幸せにすることを通じて自分も幸せになることができます」に至っては驚いてしまいました。

11位の中から⑫『多読術』
著者は何といっても「千夜千冊」の松岡正剛。その読書遍歴と、いかなる読書(方法)論を持っているのか気になって購入。
難しいことは書かれていません。
過去に読んだ本について書こうとする際、内容説明・案内・批評に陥りやすいため、平均的なガイドブックになるか、それを避けんがため過度に思想的になりがち。そこで、
<その本について「今日のこの日」に書いているのだから、初読当時の感想を今日のこの時点からあらためて眺める視線が必要です。この時間と空間をまたぐ視線が、意外に読書力に必要な視線でして、それには、その本を「今日の時点で」感じる必要があるわけです。>と述べている。

二度読むことで新たな発見があり、実は読めていなかったことが判るのは、誰にでもあること。要は再読しようという動機を、いかに見つけられるかではないでしょうか。

・速読そのものがよくないのではなくて、速く読もうと拘ることがよくない。同じ系統の本は読む量が増えてくれば、自然に速度もあがる。
・本はいろいろな読み方をするべきで、平均的な読書を求めてもダメ。「感読」「食読」「筋読」「精読」「耽読」「系読」……etc.
・読書は自分で気づかない「好み」の背景も秘めている。
・本はわかったつもりで読まない方がゼッタイにいい。ぼくもほとんどわからないからこそ、その本を読みたいのです。
・「役に立つ読書」について聞かれるのがつまらない。それって、「役に立つ人生って何か」と聞くようなもの。

千夜千冊を続けてきた著者の姿がくっきりと浮かび上がって来ます。
自分の読書に応用できそうなヒントもたくさん散りばめられていますが、頭の中に精巧な地図を描き、さまざまな観点から多様なものを結びつけていく「編集力」を身につけられるか否かは、また別の問題ですね。

14位⑭『関係する女 所有する男』
斎藤環の本の大半は読んでいるのですが、タイトルで敬遠。このところ文学、カルチャーを中心とした評論が多いが、個人的には『生き延びるためのラカン』をさらに深めた「ラカン論」を読んでみたい。

斎藤環といえば、双風舎HP上での茂木健一郎との往復書簡「脳は心を記述できるのか」が面白い。ラカンの鏡像段階の解釈からヴィトゲンシュタインの言語論に至り、偶有性の問題にからめてルーマンを持ってくるあたり、斎藤の論旨の展開は巧みで、一貫している。(提示した脳の写真の解釈、脳の定義は「???」)。一方、茂木はワーグナーの音楽・『指輪』を引き合いに出し、「この世に絶対的な価値などあるわけがない。永続的に存在するものなどありません。」と述べたかと思うと、アインシュタインの相対性理論、コンピュータ理論、量子力学、ダーウィン『種の起源』、認知神経科学、スピノザ『エチカ』などに言及。そのさまは頭の中に浮かんだイメージを次々と追いかけていくようでもある。ある解釈の可能性を受け容れつつも、結論めいたことは口にせず、何が重要な問題なのかをそのつど提示する。おそらく、茂木健一郎は一瞬たりとも留まっていられない人なのだろう。
相手側の問題提起に触発され、互いが持論を展開していく。着地点はなさそうだ。論争にもならない。それでも、私は十分楽しませてもらっています。

16位⑰『ニッポンの思想』
1980年代、浅田彰、中沢新一、柄谷行人らが注目を浴びることに始まったニュー・アカ(デミズム)ブームが、90年代の福田和也、大塚英志、宮台真司を経て東浩紀へと、どのような変遷を辿ってきたかをまとめた、いわばチャートのようなもの。
同い年である宮台真司は、わかりにくさもある程度見当はつくのですが、東浩紀以降ゼロ年代になってくるとお手上げに近い。共有できる言語が極端に少ないからなのか。私の頭が弱いのか、固いのか。或いは、私自身吉本隆明、鶴見俊輔らの思想に普遍的価値を見出しているからなのか。著者は東浩紀ひとり勝ちと言っていますが、論旨は理解できても、「それが?」と思ってしまいます。

20位⑳『闘うレヴィ=ストロース』
「入門としてオススメ」「本物は難解だけれど新書なら平易に読める」という感想が寄せられていますが、どうでしょうか。
1935年にブラジルへと旅立つまで、とりわけ学生活動家としてのレヴィ=ストロースを描いた部分はこれまで知らなかったことも多く、とても興味深く読めましたが、『親族の基本構造』以降、根幹的な思想に関する著述になると、決して平易と言えず苦労しました。なにせ、遠い昔に『野生の思考』と『悲しき熱帯』くらいしか読んでいないので。どう考えても、まったくの初心者が読み通すのは厳しいと思います。
この新書のすごいところは巻末にあります。参照・引用文献が該当ページまで細かく記載されている(8ページ分)ほか、レヴィ=ストロースの著作・論文リストがフランス語のまま(翻訳のあるものは邦題も記載)22ページにわたって掲載されていることです。これには驚きました。

「30人の目利きが激賞!2009年私のイチオシ」という特集が設けられています。
その中で岡崎武志さんが、南陀楼綾繁『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)を挙げ、次のように評しています。

プロアマ問わず、本の売り買いを通じてコミュニケーションが生まれる。じつは出版社も取次も、新刊書店も古本屋も図書館も、出版不況と本離れの閉塞感によるため息のなかで忘れていた、本と人をめぐる根本精神のようなものを、「一箱古本市」が発掘したのだ。
本は読まれたがっている。その発信力の強さを教える一冊だ。

竹内洋、大澤真幸、鷲尾賢也の3名が、鹿島茂『吉本隆明1968』(平凡社新書)を推薦。私も発売後すぐに読みました。

鹿島茂は『リテレール3 わが読書』(メタローグ・1992年12月発行)に掲載された<貧弱きわまりない、平凡な文学青年的ベスト>の中で、『擬性の終焉』、『異端と正系』、『抒情の論理』、『芸術的抵抗と挫折』は、元気を回復するスタミナドリンクであったと吉本への心酔を吐露していた。さらに、こう書いている。
「私は、こうしたファイティング吉本を知らず『言語美』(『言語にとって美とは何か』)とか『共同幻想論』だけを読んでうんぬんする人の言葉は一切信用していない。私はいまでも強固な吉本教徒であり、自分の書いているものを含め、現在出回っている本はすべて、吉本隆明の著作に比べるとゴミだと思っている」
※現在この文章は、<わが読書「体系的」読書>というタイトルで、わが生涯の愛読書100冊のリストとともに『歴史の風 書物の帆』(小学館文庫)に収められています。

書名には疑問。全体の約4分の1は吉本の著書『高村光太郎』の考察で占められており、1968年における吉本隆明に関してはごくわずかしか述べられていないからです。
しかし、初期吉本の著作の丹念な読解には首肯できるところが多いのみならず、吉本思想の根幹を自分なりに整理するのに役立ちました。吉本の著書を今なお読み継いでいる者ならば、目を通しておいても決して無駄ではないでしょう。
著者が吉本に対して「倫理的信頼感」を抱いているところに共感を覚えます。
この「倫理的信頼感」あったから、オウム問題における発言で吉本が大きなバッシングにあったにも関わらず、私自身吉本から離れなかったと言えるからです。

最後に、2009年に発行された新書から私の10冊を挙げておきます。

■福岡伸一『世界は分けてもわからない』 (講談社現代新書)
■南陀楼綾繁『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)
■佐伯一麦『芥川賞を取らなかった名作たち』(朝日新書)
■竹田青嗣『人間の未来』(ちくま新書)
■徳永恂『現代思想の断層』(岩波新書)
■岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)
■宇野功芳・中野雄・福島章恭『新版 クラシックCDの名盤 演奏家篇』(文春新書)
■岡田尊司『境界性パーソナリティ障害』(幻冬舎新書)
■清水康博『京都の空間意匠』(光文社新書)
■仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書)

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『吉本隆明語る 思想を生きる』  聞き手・笠原芳光

京都精華大学40周年記念事業の一環として限定頌布(期間を定めない無償貸与の形・送料200円は負担)されたDVD『吉本隆明語る 思想を生きる』を視聴した。聞き手は京都精華大学名誉教授(宗教思想史)・笠原芳光。2008年12月2日、吉本隆明宅収録となっている。

●DVDの申し込みはこちら→http://www.kyoto-seika.ac.jp/1968+40/yoshimoto/

【 岡本清一との出会い 】

京都精華大学ゆかりの人物ということもあるのだろう、初代学長岡本清一の話で始まる。
60年安保闘争の参加者たちに対して何となく厚意を持ってくれているように感じた人物として吉本は、「西の岡本清一、東の平野謙」と二人の名を挙げる。このあたりのことは、『吉本隆明 思想とは何か 笠原芳光』(春秋社)の「あとがきに代えて」で語られているので引用したい。

孤立無援の感じで六十年安保闘争の全学連主流派に加担していたころから、京都の地から温厚な岡本先生の、無言の支援を感じていた。この感じは第一次戦後派の「近代文学」の同人で、感動的な島崎藤村の「新生」論を書いていた平野謙氏に私が感じた厚意とおなじものだった。面識もなく理由もわからない。そして真偽もわからないが、わたしの直感にひびいてくるものだった。神秘めかす気は毛頭ないが、たぶん岡本先生の書いた岩波新書の一冊(『自由の問題』)を読んだ印象で、この人はじぶんを理解してくれている人だと直感をもったせいだと思う。

岡本清一とは面識もないのに、その著書を読んだだけで支援を感じとるところなど、いかにも吉本隆明らしい。2001年95歳で他界した時に吉本が送った弔電が笠原によって紹介される。

<1960年この方、どんな孤立と孤独のときでも、先生の厚意あふれたぬくもりに支えられて私も友だちも励まされてきました。先生の隠されたまなざしのぬくもりは、生涯に初めての体験だったと思い、かなしみと感謝を新しくしております。>

昔から吉本の悼辞・追悼文には、吉本以外には見えなかった故人の特性を浮かび上がらせる見事なものが多い。単に褒めそやすわけでない。きっちり対峙する姿勢を崩さないのに、言葉の端々には愛情が満ちている。例えば鮎川信夫のように、生前対立した相手であってもそれは変わらない。(吉本の『追悼私記』が現在新刊で入手できないのは残念なことだ)

【 60年安保闘争 】

当時、匿名・署名の手紙が多く舞い込んできて、「おまえの言うとおりにしたため、思想的、精神的に安定せず、就職もなくフラフラしている」といった類の非難を浴びせられ、孤独を感じたらしい。でも内心では「よせやい!」と思っていたと微笑む表情に江戸っ子気質が表れている。

東大正門前の喫茶店2階におけるエピソードが印象に残った。
集まったメンバーは吉本のほか、竹内好、鶴見俊輔、そして共産主義者同盟(ブント)書記長・島成郎。そこで、島が口を開く。
「闘争は自分たち全学連にまかせてほしい。(それを)見守っていてください」と。
援助、応援という言葉が使われなかったゆえに、吉本の心に響くものがあったのだろうか、これがひとつのきっかけとなり、「総評などのデモには参加しない。自分は一兵卒でやろう」という気持ちが固まったと吉本は語っている。
私は島成郎の著書を『ブント私史』(批評社)しか読んでいないが、沖縄での地域精神医療活動に関することも含め、もっと読みたくなった。(新刊では入手不可のため時間がかかるにしても)

国電・品川駅の線路に座りこんだ際、鶴見俊輔、高畠通敏がやめてほしいと説得に来たものの座りこみをやめない。そのうち『赤とんぼ』の唄がどこからともなくわき起こってくる。下手すれば電車に轢かれるかもしれぬ・・こういう状況下では「もの悲しいほうが、筋が通る」と言う吉本。命を損傷されるかもしれない瀬戸際では、イデオロギーよりも人間としての情感。そう捉える吉本には、やはり詩人としての感性が宿っているのだと思える。
吉本の戦争時の言動、結婚にいたるまでの私的な経緯をとりあげ、おまえに共産党を批判する資格など無いと痛罵されるが、「腹をくくった」とも語る。

この後、猫を撫でながら掠れた声で猫に語りかける吉本のうしろ姿が映し出されるのだが、その様子はどこにでもいそうな老人そのもの。思想的発言内容とはあまりにも対照的。そこがこの人に惹かれるところでもあるのだが。

【 ファシズムと戦争 】

まず、日本における右翼には2種類あって、ひとつは農本主義的なナショナリズム。もうひとつは資本主義と結びついた民族主義だと切り出す。そして、ほんとうの意味でファシズムの要素を持っていたのは中野正剛率いる東方会しかなかったと述べる。
ここで花田清輝の名が出てくる。花田との論争を思い出したのであろうか、花田がかつて東方会の雑誌発行に携わっており、彼の論文は吉本や井上光晴も読んでいたがレベルの高いものだったと。ただ、東方会と関わっていたことを隠そうとするところが花田の弱点だったと語る。

続けて、自身の戦争との関わり方を正直に伝える。
アジア解放のための大東亜共栄圏の建設、国内の疲弊した農村の問題はとうてい放ってはおけず、幼稚だけれど自分なりの理念で参加した。日本人のどこがいけなかったかというと、「調子に乗ると威張る」ところだと、まるで小学生が使うような表現を用いるところがかえって生々しい。
私も常々考えていることなので、強く共感を覚えたのが以下の発言である。
「自分にも乱暴なところがあるので、国外で悪いことをしたかもしれない…。」

この後、石川啄木が金田一京助に語った「帝国主義的社会主義」に触れながら満州国の原点、本質へと話は展開していく。「帝国主義的社会主義」など、矛盾としか取れないだろうが、右翼、左翼の区別なくあの人たち(啄木たち)が苦しんだのはよくわかると強く言い放つ。
そして最後に、「戦争には正義も侵略もない。戦争そのものが悪なんだ」ときっぱりと言い切る。

【今を生きる若者たちへ】

人や社会に対して無関心であるようにも見受けられるし、実際自分の関わる文芸の分野では、今後国家はどうなればいいのかというはっきりとした形での声が聞こえてこない。しかし、自分も戦時下、詩を書いたり、あまり現実とは関係ない立原道造、堀辰雄などを読んで自分を解放しているところもあった。今の若者も内面を露わにしていないだけかもしれないと考える。青春というのは同じようなものかもしれないと。
加えて、谷川雁が理想を持って生き、人助けをやってきたのと違って、「自分は堕落する一方だったよ」と自嘲気味に語り、場が和む。

同席していた大学のスタッフが吉本に問いかける。
ずっと孤立感とか孤独感を抱きながら、大勢の人のいるところに寄りかからずに、鮎川(信夫)さんや埴谷(雄高)さんなどの先輩と対立しながらも、自分を保ってきた強さはどこから来たんでしょうか?と。

吉本はスタッフの方に目をやり、力強く語りかける。そこには老いたとはいえ、昔と変わらぬ吉本がいた。

「その人が固有に持っている、誰にもかえられない個性、好み、考え方、親から教わった生き方とか、ある意味宿命的なもの。自分には動かしようがない、でも自分固有の資質・個性。それを見つけて底の底まで誤魔化しもなしに心の中に入れて持っていて、その上で人は人の生き方、社会や国家のことを考えられる。これができたらもう言うこと無いんじゃないか。偽り無く自分の思ったとおりのことをやってまちがったら、それも自分固有のもの。(それで)ひでえ目にあったら、ある意味少し利口になる、いい体験になるということもあるので、まんざら捨てたものじゃないんじゃないか。」
笠原さんの言うように、自分の生き方を通せたらそれが強さといえるのかもしれないけれどと、言葉にはしたものの、吉本は自らを「強い」とはひと言も言わなかった。

DVDの最後は吉本自身の詩が画面に映し出され、静かに終わる。

『苦しくても己れの歌を唱へ』 吉本隆明作より
 
 己れのほかに悲しきものはない
 つれられて視てきた
 もろもろの風景よ
 わが友ら知り人らに
 すべてを返済し
 わが空しさを購はう

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『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社)

特集本は隅々まで読む必要はないし、記事内容によっては、必ずしもタイムリーに読まなければならないこともないと思っている。実際私も、この『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社)は全体の6割強しか読んでいない。高名な精神科医で、魅力ある著書を数多く出している中井久夫との対談、吉本隆明の記事、鶴見と編集グループSUREなどで活動を共にしている、黒川創による鶴見俊輔入門記事、そして自選アンソロジーの中の「退行計画」に惹かれ購入。

中井との対談はやや物足りない。鶴見が主役とはいえ、中井がほとんど聞き手、しかも話を自ら展開するきっかけもないまま、「そうですね」が多く、受けにまわってしまっている。友人の自殺をきっかけに、医局制の問題を衝く医学部批判を書いた28歳の頃に、自分の文体を獲得できたと語っているところがまあまあ長めの発言。(実際はもう少し話していたかもしれないが、流れの中でまとめられてしまった可能性がないとは言えない。しかし)もっと、中井自身の言葉を聞きたかった。
驚いたのは、先日ETV特集「吉本隆明語る」の中で、吉本が桑原武夫の第二芸術論を批判的に取りあげていたが、鶴見も同じことに言及していることだ。

桑原武夫が戦後間もない頃、俳句を否定するような「第二芸術」論を書きました。あれは政治文書としては今も当たっているとは思う。しかし文学論として扱えば、あれはだめ。曖昧さを見ることができていない。「第二芸術」論では和歌・俳句について間違っている。

自分を京大に招き、更に人文科学研究所の助教授にさせた桑原をそのように語るところが、いかにも鶴見俊輔らしい。
ヘレン・ケラーと実際に会って、「私はそのとなりのラドクリフという大学でとてもたくさんのことを学んだ。だが、そのたくさんのことをunlearnしなくてはならなかった」という言葉を聞く。その「unlearn」を「学びほぐす」と訳し、その姿勢を良寛の漢詩や和歌に見る。

中島岳志との対談では、葦津珍彦の影響を受けていることを認め、幕府が倒れたのも「腐っているものが倒れるのは当然」と言う。今の日本政府も腐っているが、潰すだけの力が日本社会の中にないとも語っている。
また、日露戦争時の児玉源太郎や小村寿太郎を、スピノザの『エチカ』からの言葉を用いて、「つくる自然」の人、すなわち、「我々が日本国家をつくるんだという意識をもっていた人たち」と捉え、続いて世界史及びアジア史における明治維新の重要性を説いているところは、とても興味深かった。

吉本隆明は、鶴見の「明治の歌謡-わたしのアンソロジー」(1959年)という文章を読んだ時に、「ナショナリズムの側面をはっきりさせないで、民主、平和といいことばかり言っても意味がないと思いました。それを読んで、この人は本格的な人だなと感じた」と語っている。そして、「戦後リベラルの中でも、あの人は最良ですね。僕なんかが大きな影響を受けた丸山真男でも鶴見さんのような幅のある見識はなかった。ですから、学問があったり知識があったりということと違う何か持っている人ですね」と高く評価している。転向論やべ平連問題では対立点はあっても、認めるべき所は認める。これは両者に共通している。
そして、次のようにも語っている。「戦争自体が悪だと考えるべきですね。その両義性を鶴見さんはよく理解しているのではないでしょうか」。

フランス文学者海老坂武は、鶴見と吉本による対談「どこに思想の根拠をおくか」に触れ、「戦後二十年の日本の思想史が凝縮されている、とすら言える」と述べている。
私は、『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』(筑摩書房・1989年第5刷)で読んでいたが、今回改めて読み直し、相手から投げかけられる疑問、批判的意見から逃げることなく、両者が見事に対峙しているとの感を強めた。

黒川創による、鶴見俊輔の解説はわかりやすくまとめられている。「展望」1968年3月号初出となっている「退行計画」は、鶴見俊輔という人間を知る上で、恰好の材料であろう。
主要著作解題の章も、いくつか読んでみたら、紙幅が限られている割には、充実している。また、巻末の著作案内もコンパクトでありながら、指針として役立つ。

特集本は概して、ある程度その人物の著書を読んでいないと、焦点が散漫になり、人物像をつかみにくくなる嫌いがある。
とはいえ、本書は自選によるアンソロジーが全体の約35%を占めていることも含め、鶴見俊輔に興味があるならば、入門書としてもお薦めできる。

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ETV特集「吉本隆明語る」(2009.1.4放映)を見る

90分という枠で、戦後思想界の巨人、吉本隆明の本質を描くことなど到底不可能とは思っていたが、予想通り断片的にしか伝えられていなかったというのが、正直な感想である。また、3時間に及んだという講演の3分の1も、番組には収められていなかったはずで、初めて吉本の語りを聞いた者にとっては、わかりにくい点が多かったのではないだろうか。
一歩進んでは立ち止まり、半歩後退したかと思うと二歩、三歩と進んで、また立ち止まる。たどたどしい語り口は、昔と変わらない。絶えず自分の中の言葉を紡ぎ出すことに苦闘している。
しかし、30年以上吉本の著書を読み続けてきた私には、「真実」と思える言葉を真摯に探る姿こそ、吉本隆明そのものであり、熱いものが伝わってきた。
以下、番組の内容を簡単にまとめながら、感想を述べてみたい。

いきなり、自らを「主戦主義者」だったと語り出すところなど、正直な人だなと共感を覚えた。終戦時、「生きていることの恥ずかしさでいっぱいだった」とも言っている。〔私は、吉本は右でも左でも、中道でもないと思っている。そんな枠には収まりきらない〕。
精神的には虚無に近い状態の中で、それまで身につけてきた教養が全く役に立たないことを自覚し、「世界をどう把握するか」を自らの課題として、古典経済学を学び始める。アダム・スミスからマルクスまで。スミスの『国富論』の中から、リンゴを枝からもいで取ってくるまでの例を挙げ、労働価値説に触れるが、TVの放映内容だけではわかりにくいように思えた。
吉本思想の大きな要である、マルクスとマルクス主義の違い、反スターリニズムについて触れられていないのも残念であった。もっとも、そのことに時間を割くわけにはいかなかったであろうが。

そしていよいよ「芸術言語論」。他人とのコミュニケーションのために用いられる「指示表出」の言葉は枝葉であって、言語の根幹は、沈黙にある。沈黙に近い、片言、ひとり言ともいえる「自己表出」が芸術の価値を形成していると語り始める。
著書『言語にとって美とはなにか』において、「自己表出」「指示表出」の概念に関しては、あらゆる角度から説かれているが、そう容易に理解できるものではない。ゆえに、話はもう少しわかりやすい具体例を挙げながら進められていく。
日本の俳句など、作者の名前を伏せてしまえば、芭蕉の句とて素人のものと見分けがつかないではないかという、桑原武夫による「第二芸術論」への批判として、小林秀雄も言っているように、芭蕉の句はバルザック、ヴァレリーなどの海外の芸術に、「自己表出」においては決して劣るものではないと語る。
〔※長編小説において、物語の起伏性が芸術的価値に間接的に関与していることを、小林が見落としていると、別のところで吉本は書いているが〕
日本の芸術は「短くすることによって蘇生させようとする」ものだと。
確かにバルザック、ドストエフスキーなどの海外長編文学は、純文学にして大衆文学の要素も兼ね備えていて見事ではあるが、物語に起伏を与えているのは「指示表出」の言葉であって、副次的なものであると語る。
その後、機能主義(ファンクショナリズム)の危うさを説くために、マルクスに触れる。
労働価値を付加していけば、つまりひとつの作品を直せば直すほど、芸術的価値も上がるというマルクスの考え方に異を唱える。「即興的に書いたって、いいものはできる」と。
予定の時間をオーバーし、熱弁を続ける最後のところで語られた内容は、特に印象に残った。

言葉の使い方という点では、現代人の方がはるかにたくさんの言葉を使える。しかしながら、それぞれの分野に専門化していることも否めない。そう話すことで、(はっきりとは言っていないが)吉本は現代の文学における密度の薄さを嘆いているようにも思える。
そして、こう結ぶ。
文明的価値も科学的価値もない時代の(万葉、古今、新古今などの)歌には「全人間力」が込められている。気分、感覚、情操というものが集約されていて強烈である。現代の方がよくなるというものではない。1000年や2000年で人間力の差はでないはずなのに・・・、と。

「半世紀もかけて考えてきたことを、そう簡単にはしゃべれない」という言葉が重く感じられた。
講演の最後近く、聴衆には目も向けず、上を向いたまま語り続ける姿は、まさに吉本自身が「自己表出」の言葉を絞り出しているように、私には思えた。

この番組で語られていたことを、もう少し詳しく知りたいと思うなら、吉本隆明著『日本語のゆくえ』(光文社)が役に立つはずです。 『「言語芸術論」への覚書』(李白社)という本も出ていますが、こちらはTVでとりあげた講演内容とは、ほとんど重なるところはないのでご注意ください。
ただ、最初にとりあげられている「神話伝承と古謡」「歌集『おほうなはら』について」という、やや専門的な文章を除けば、吉本隆明の人間性が明確に出ている、いい本です。

「言語のコミュニケーションとしてはゼロに等しいけれども、自分が自分に内心で問うている。その状態が「自己表出」です。それが芸術的な価値の純粋な意味になると、ぼくは理解しています」
「自分と、それから理想を願望するもうひとりの自分とのあいだがどれだけ豊富であるかということ、これが自己表出の元であり芸術的価値の元である」 
吉本隆明『日本語のゆくえ』(光文社)より

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2008年 本とCD

今年印象に残った本とCDをいくつか。本に関しては、小説はほとんど新刊で読むことがなくなってしまった。ミステリー、エンターテインメントの類も然り。話題になっても、どうしても読みたいという気持ちにならない、読んでおかねばなるまいという気持ちにもならない。歳のせいばかりでなく、魅力ある作家が少ないとうのが正直なところだ。
新刊よりも古本で買うことが今年は多かった気がする。取りあげたのは、あくまで今年発売されたもの。よって、新刊とは限らず、復刊、改訂、文庫化、新書化、再編集された本も含んでいる。★は推薦本。

〔 単行本 〕
★  荒川洋治 『読むので思う』(幻戯書房)
★ 佐野洋子 『シズコさん』(新潮社)
★  ねじめ正一 『荒地の恋』(文藝春秋)
★ 多田富雄 『寡黙なる巨人』(集英社)
★ 吉本隆明 『日本語のゆくえ』(光文社)
● 吉本隆明 『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局)
● 岡崎武志・山本善行『新・文學入門』(工作舎)

〔 新書 〕 
★ 湯浅誠 『反貧困 -すべり台社会からの脱出』
● 岩田靖夫 『いま哲学とはなにか』(岩波新書)
● 大澤真幸 『逆接の民主主義―格闘する思想』(角川oneテーマ21)
● 吉本隆明 『「情況への発言 全集成1~3』(洋泉社MC新書)
● 山際素男 『チベット問題』(光文社新書)

〔 文庫 〕
★ 山村修 『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)
● コールズ 『シモーヌ・ヴェイユ入門』(平凡社ライブラリー)
● サルトル 『存在と無Ⅲ』(ちくま学芸文庫)
● チェーホフ 『カタシンカ・ねむい』(岩波文庫)
●澁澤龍彦『澁澤龍彦 書評集成』(河出文庫)

〔 雑誌 〕
★ 『考える人 海外長篇小説ベスト100 2008年春号』(新潮社)
● 『東京人10月号 アウトロー列伝』(都市出版)
● 『東京人12月増刊 三鷹に生きた太宰治』(都市出版)

〔 CD 〕 発売年月日に関係なく、今年購入したものから。
■ バッハ 『マタイ受難曲』 リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団(1958年録音)
■ マーラー 『交響曲第2番 復活』 メータ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 上記2枚はSHM-CDで再購入。音が格段に良くなり、改めて感動。
■ マーラー 『交響曲第3番』 ハイティンク指揮 シカゴ交響楽団
 バーンスタイン盤以外、何を聴いても満足いかなかった。ようやく2枚目の愛聴盤が現れた。
■ブルックナー 『交響曲第8番』 テンシュテット指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1981年ライブ)
■ベートーヴェン 『弦楽四重奏曲第14番・16番』 ヴェーグ弦楽四重奏団
■ ワーグナー 『ニーベルングの指輪』 カイルベルト指揮 バイロイト祝祭管弦楽団(1955年ライヴ)
購入を迷っているうちに、品切れになってしまっていた。この一年かけて、ディスクユニオンに通い、中古で国内盤を揃える。ショルティ盤を凌駕。これで指輪は、カイルベルト盤とベーム盤が私にとっての両輪。後はブーレーズのDVDがほしいところだが、残念ながら我が家にはDVDプレーヤーがない(笑)

よいお年をお迎えください。

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友と出逢い 本と出会う ー高校から浪人時代にかけての回想ー

彼らと出逢わなければ、自分の読書の歴史や傾向も随分変わっていたかもしれないと、今でもよく思う。

それまで、全くと言っていいほど、本を読まなかった私が、中1の夏に一冊の本をたまたま手にとった。三浦綾子『塩狩峠』(新潮文庫)である。キリスト教に関心があったわけでも、誰かに薦められたわけでもなかった。自己犠牲の精神の尊さに打たれ、本に魅力を感じるようになった。それがきっかけとなり、読書に開眼。

最初は文庫で日本の作家の代表作を手当たり次第に読み漁った。小説以外は、安吾の『堕落論』、小林秀雄を少々。漱石『三四郎』、川端『山の音』、谷崎『春琴抄』、志賀直哉『暗夜行路』、深沢七郎『楢山節考』などが特に好きだった。太宰にはかぶれ、文庫で手に入るものはすべて読んだ。啄木の歌集、光太郎の『智恵子抄』も繰り返し読んだ記憶がある。

中3になって海外文学へ。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、プレヴォー『マノン・レスコー』、リルケ『マルテの手記』、E.ブロンテ『嵐が丘』は2度続けて読み、ポーの短篇、チェーホフの短篇、トルストイの『アンナ・カレーニナ』はお気に入りになった。そして、ドストエフスキー。完璧にのめりこんでしまった。未だに手元には、下手くそな字で書いた、登場人物の相関図が残っている。作中、愛称も使われるので、これには随分と助けられた。

ここまでは取り立てて話すほどもない、どこにでも転がっている話である。

小説一辺倒だった私に一つの転機が訪れたのは高2になってからである。クラスは一緒ではなかったが、一目置いていた男から「これ読んだことあるか。○○(私の名)なら気に入ると思うぜ」と渡されたのが、倉田百三『愛と認識との出発』だった。夢中になり、夜を徹して読んだ。『出家とその弟子』は読んでいたが、この本の存在は知らなかった。

それからしばらくして、渡されたのが吉本隆明『情況』

マルクーゼ、フーコー、アルチュセール、フーリエ、レヴィ=ストロース、ウィーナー、ゲーデル……。いったい誰? プラグマチズム、アナルコ・サンディカリズム、関係の絶対性、共同規範としての言語、構造主義、重層的決定、不完全性定理、サイバネティックス……。何のこと?一ヶ月かけても読み通すことはできず、ほとんど理解できなかったと言える。ただ、その容赦ない語り口、独特の言い回し、鋭い観察眼には強く惹かれた。自分の読書体験の中で出会ったこともない世界だった。

大学紛争における教授陣たちの姿勢に対する批判、太宰の逸話に触れながら何人かの文学者のいんちきさを説いているところには共感を覚えた。前田武彦、野末陳平、青島幸男、大橋巨泉などの芸能人を扱った章は、とりあげる対象が他の章とは異質だが、同じ著者の「ことば」で語っている、つまり、ぶれたりせず、同じレベルでさばいているように感じられ、面白く読めた。

同い年の人間が、こんなものを読んでいることに大きなショックを受け、自分の世界の狭さを恥じた。私の貧弱な読書の畑に、彼が大きな種をまいてくれたと、感謝している。

今では、吉本隆明自身の著書、雑誌『流動』『テーゼ』『ユリイカ』『現代思想』『現代詩手帖』などの吉本特集、多くの吉本隆明論を含めると200冊を超える吉本関連本が手元にある。

もう一人、同じ高校の友人。授業の厳しさ、難しさゆえ、畏怖されていた国語の教師が、ただ一人絶賛したという彼。お互い浪人が決まり、予備校が同じになった。彼は国立コースだったため、校舎も授業時間も別だったが、共に過ごす時間がどんどん多くなっていった。二人とも気に入った英語の人気講師がいた。コースが異なると教材が違うので、互いの教科書をコピーし、もぐりで授業を受けた。顰蹙を買いそうだが、当時は当たり前のように行われており、講師自身が承知していた。小さめの教室の後ろには立ち聴きの列、すごい時は、開いたままのドアの外から覗き込んで聴いている者もいたくらいで、誰が見ても一クラスの人数を遙かに超えている。のどかな時代であった。

彼も私も、自分のカリキュラムの半分はエスケープしていた。こんなつまらない授業を聴いているくらいなら、喫茶店で本を読んでいた方がいいと思うところが、似ていたのだろう。彼のバッグは、いつも異様に膨らんでいた。教科書に辞書を2冊加えてもそんなにはならないというほど。一緒に過ごすようになって間もなく、中を見せてもらった。白い大きな本が入っていた。メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房)。言葉を失った。

吉本隆明の本は少しずつ読む量が増えていたものの、哲学となるとサルトル『嘔吐』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』、デカルト『方法序説』くらいしか読んでいない。当然、その分野では彼の話し相手はつとまらない。時折解説してくれたが、こちらには下地がないのだから、理解できるはずもない。それゆえ、話題は自ずと文学になったが、2時間、3時間話しても飽きなかった。秋の気配が感じられるようになった頃、彼はフーコーの『言葉と物』に挑んでいた。

なんとか浪人生活から抜け出した後、彼の影響もあって、哲学、思想書ばかり読みふけるようになっていた。それは同時に、古本屋通いの始まりでもあった。

最初の彼は、本来なら完璧に文系の頭なのだが、特別な動機があって、小児科医になった。今も1年に一回くらいは会っている。相変わらずの読書量だ。浪人の時の彼とはもう20年以上会っていない。どこで何をしているのか、私の知人で知る者がいない。

今、彼に、一番会いたい。

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「みちくさ市」エピソード(2) 「吉本(隆明)さんの大ファンです!」 彼女のひとことに卒倒

女性の年齢あてる自信全くなし。もっと若かったら、ごめんなさい。今年の流行語大賞ののりで言えばアラサー(around thirty)と思われる女性と、短いながら至福の時間を持てました。

アベック、いやカップルでご来店。彼の方はほとんどしゃべることなく、彼女の独壇場。
吉本隆明著『僕ならこう考える』(青春文庫)200円を彼女が手にとったところからの会話です。

吉本隆明は吉本ばななの父親で、戦後思想界ではとりわけ有名な人と言っても、
ご存じない方には何のことやらですよね(笑)
〈 〉内は、私の独白。

「この文庫と違って、単行本の表紙の方が好きなんだけどなあ」
 
  < 確かに。文庫はセンスない。表紙の違いがわかるなんて >

「単行本、持ってるし」
 
 < じゃあ、なぜ文庫手に持ってるの?まさか、持ち歩き用に?かなり好きそうだ >

「そうですか。吉本さんの本、ここにもありますよ」
 
  ― 『読書の方法』(光文社 知恵の森文庫)を私が指さす。

「ああ、これね。これも単行本持ってるから」

 < はあ? ひょっとして、吉本ファン? >

しばらく、迷った彼女。手にしていた『僕ならこう考える』を、すうっと、こちらに差し出す。

「よろしいんですか?」
「ええ」
「ありがとうございます! 吉本さん、お好きですか?」
「ええ!吉本さんの大ファン!!」  

 ― 私は卒倒しかけた。

「う、うれしいなあ。女性から、その言葉聞くの、初めてです。すご~く嬉しいから、1冊サービスします」
  
  ― 他の本の中に埋もれていた、『心的現象論序説』(角川文庫)をとって渡そうとした。

「ああ、『共同幻想(論)』なら、サービスしてもらわなくても(けっこうですよ)」
 
 < 表紙の絵柄をちらっと見ただけで、『共同幻想』と口にするなぞ、ほんものだ >

「そうですか。高価な本論の方も出版されて間もないから、喜んでいただけると思ったのですが。もうお持ちですよねえ・・・残念です」
 
 ― まじまじと本を見る彼女、目が点状態で、私の話など全く聞いていない。

「うそ?!いいんですか。うそうそ・・・。だってこれ、ネットで○○○○はしますよ~」

 < アマゾンあたりのことだろうな。そういうの、ちょっとは参考にするけど、本の値段の決まり方って、いろいろあるんだって、この頃つとに思うようになったから>  

「いいんですよ。大ファンに出逢えた記念だから」
 
 < ちょっと、かっこつけすぎ?おっさんだなあ >

「そんなあ。ダメですよ。無料(ただ)なんて」 
「だから、ただじゃなくて、気持ちですから」

  ― そこで初めて、300円と書いてあるスリップを見た彼女。

「300円~~~!!! 買います、買います」
「そうですか。それでは、2冊合計で、500円になります」

嬉々として去っていった彼女。嬉しかったのはこっちなのに。

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