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本が舞い込んできた  長澤延子・五味康祐ほか

本が舞い込んできたとしか思えない。そんな一箱古本市後の2週間だった。

先週の日曜、仕事を終え18時頃帰宅。夕食後処分本2箱持って、地元馴染みの古書店へ。
もう25年の付き合いになる。店主といろいろ話しながら過ごす時間は、心が和む。
処分したのは、みちくさ市、一箱古本市で引き取り手のみつからなかった本の一部と、一般的、一箱向きではない読了本をほぼ半分ずつ。かなり前から単行本は動きがよくないと聞いているので、1箱分は文庫にする。講談社文芸、講談社学術、ちくま、中公、岩波など喜ばれそうなものを多めにした。 いつものごとく値付けをしてもらっている最中に、欲しい本を取り、カウンターの端に積んでいく。

■横光利一『夜の靴 微笑』 『愛の挨拶 馬車 純粋小説論』(講談社文芸文庫)

どちらも2冊目。蛇足ながら、吉本隆明『悲劇の解読』に収められている横光利一論は秀逸。

■ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』(ちくま文庫)

■足立巻一『やちまた 上・下』(朝日文庫)

今春の一箱古本市で1セット出品したため、蔵書しか手元にない。それで、入手。いずれまた出品しよう。

■五味康祐『天の聲 -西方の音-』(新潮社)
■五味康祐『五味康祐 音楽巡礼』(新潮文庫)

『天の聲 -西方の音-』は、ようやく2冊目を入手。これで五味康祐の音楽本は全て2冊以上揃った。
この本の中の「ベートヴェン <弦楽四重奏曲 作品一三一>」、「マタイ受難曲」は、わずか7~8頁の文章だが、いずれも100回は読んでいる。(『五味康祐 音楽巡礼』(新潮文庫)にも収められている)
そして、文庫には載っていない「三島由紀夫の死」。三島への哀悼の念に満ち、悲しい光を放っている。死ぬべきは自分ではなかったかという煩悶。「自動車で二人の生命を轢いた」著者の、贖罪の涙も塗り込められている。
この自動車事故の際、五味の執行猶予を乞う嘆願書が10名の連署で裁判所に提出された。
志賀直哉、川端康成、小林秀雄、井伏鱒二、井上靖、三島由紀夫、柴田練三郎、水上勉、亀井勝一郎、保田與重郎。

■串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社)

一時間も居座ってしまい、そろそろお暇しようとした時、カウンター横に積み上げられた本が目に入ってきた。『ユイスマンス伝』の背表紙を見て、これは…とアンテナが反応する。店主に尋ねると、年に何回か処分される方が持ち込んだとのこと。上から下まで顔を横にして目で追っていくと、一番下に『渡辺一夫 敗戦日記』が。
既に買い取りは終わっていても、値付け前。ものによっては、ネット販売に回す。こういった事情は心得ている。しかし、たまにわがまま言わせてもらう。長年の付き合いの中で培った信頼関係がなければとても言えない。
「すみません。それ、いただけませんか?」と指さす。
この本に関しては定価を知らなかった。しかし、いつものように提示された値段で、そのまま頂いた。美本・2,000円。

『考える人 2008年夏号』の特集「自伝、評伝、日記を読もう」において、堀江敏幸が挙げていた本なので探していた。堀江敏幸は他に、『木下杢太郎日記』(岩波書店)、串田孫一『日記』(実業之日本社)、『アミエルの日記』(岩波文庫 一九七二年改版以後の版による)を挙げている。
『アミエルの日記』は30代前半に魅入られるように読んだ記憶が残っている。全4巻、旧字体・旧仮名づかいのため、一気にというわけにはいかなかったが。辻邦生も著書『微光の道』(新潮社)の中で、「旧制高校時代から時に触れて読む」と書いている。現在品切れ。

<某私鉄沿線の古書店にて>

■『海 友よ私が死んだからとて 長沢延子遺稿集』(都市出版社)1,500円

遺稿集はけっこう読んできたつもりなのに、長澤延子はすっぽりと抜け落ちていた。今春、福島泰樹『悲しみのエナジー』(三一書房)を読んで彼女の存在を知った。37年前に発行された本とは思えぬくらい状態がいい。
『二十歳のエチュード』を遺した原口統三は、彼女にとってどんな存在だったのだろうか。
彼女の「別離」という詩の冒頭には、原口のあの有名な言葉 「別離の時とはまことにある…… 朝が来たら 友よ 君等は僕の名を忘れて立去るだろう」が記されている。
そして、

友よ
私が死んだからとて墓参りになんか来ないでくれ
花を供えたり涙を流したりして
私の深い眠りを動揺させないでくれ

で始まり、

友よ
別離の時とはまことにある
朝が来たらー
君等は私の名を忘れて立ち去るだろう

で終わっている。

彼女を苛んだものとは。幼い頃から抱えてきた孤独とは。なぜ17歳で服毒自殺してしまったのか。
すぐにでも読んでしまいたいと思ったのだが、この本のことを妻に話したら、
今はやめたほうがいいのではないかと言われる。

当分この本は寝かせておくことにした。
あまりにも重い。まともに向き合えず、精神のバランスを崩しかねない。
ポツポツ拾い読みして、私自身がそう感じた。

■村上一郎『評論集 イアリンの歌』(国文社)700円
■クロード・シモン『フランドルへの道』(白水社)500円

<ブックオフの単行本500円セールで>

■佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社)500円

黒岩比佐子さんが、ブログ<古書の森日記 by Hisako>で大杉栄墓参のことを書かれた際、この本に触れていたので読みたかった。こんなにすんなり、廉価で手に入れられるとは。

■半藤一利・保坂正康・井上亮『「東京裁判」を読む』(日本経済新聞社)500円
■渡邊順生『チェンバロ・フォルテピアノ』(東京書籍)500円

<ブックオフ4店舗くらいで>

■黒岩比佐子『伝書鳩 もうひとつのIT』(文春新書)350円

読みたいと思った時には、残念なことに新刊書店で入手できなくなっていた。嬉しい。

■『世界ノンフィクション全集19 アウシュヴィッツの五本の煙突 白バラは散らず ダヴィッドの日記 戦没学生の手記』(筑摩書房)100円
■大西巨人『縮図・インコ道理教』(太田出版)100円
■吉岡逸夫『漂白のルワンダ』(牧野出版)100円
■大岡昇平『戦争』(岩波現代文庫)100円
■吉田健一『旅の時間』(講談社文芸文庫)100円
■今村仁司『現代思想の展開』(講談社学術文庫)100円
■三好達治『諷詠十二月』(講談社学術文庫)100円
■木田元『木田元の最終講義』(角川文庫)100円

■松岡正剛『多読術』(ちくまプリマー新書)100円
■小谷野敦『私小説のすすめ』(平凡社新書)100円
■平岡正明『昭和マンが家伝説』(平凡社新書)100円
最近のブックオフはよくわからない。どうしてこれらの新書がもう100円なのか。折り跡、汚れ、水濡れなど一切ない美本なのに。
こういうことがあるから、新書はどうしてもすぐに読みたいと思えるもの以外、新刊では買わなくなってしまった。

次にCD。ゲームソフト、CD、DVD、コミックの販売を主体にしているチェーン店。ここに良い本はない。昨年くらいまで、結構クラシックCDを廉価で入手できたのだが、今年はごくたまに覗いても、さっぱり。ダメもとで寄ったら、3枚以上購入すれば表示価格の半額セール。いやあ、ありがたい。カンチェーリのみ輸入盤。

●カンチェーリ『Light Sorrow /Mourned by the Wind』 <TELARC> 200円
●ハイドン『《天地創造ミサ》《ハルモニー・ミサ》』ガーディナー イングリッシュ・バロック・ソロイスツ 400円
●バッハ『マタイ受難曲(抜粋)』ガーディナー イングリッシュ・バロック・ソロイスツ 50円
●ヴェルディ 歌劇『仮面舞踏会』 カラヤン ウィーン・フィル 600円

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「第9回 秋も一箱古本市」エピソード(4)最終回

ようやくここまで辿り着いたという感じです。それでは最終回、知人・友人の方篇とご報告。

この前の助っ人集会で初めてお話した<トンブリン>さんにお越しいただく。一部のファンが鶴首して復刊を待っていたスタージョン『一角獣 多角獣』。復刊直後になんと3刷。これを引き取っていただく。赤い装丁も、もしかしたら気に入っていただけたかな。

<書肆紅屋>さんと共に、ナンダロウさんの『一箱古本市のあるき方』(光文社新書・11月17日発行予定)の資料作成を手伝われた退屈男さんがお見えになる。お客様が何人かいらっしゃったため、お話しできず残念。

古本市では何度も購入いただいているNEGIさんが午後になってご来店。一箱、みちくさ両方の古本市で頼もしいサポートをされている姿をよくお見かけする。ちなみにNEGIさんは「一箱古本市」において過去に「谷根千賞」、「古書ほうろう賞」を受賞されている方。
今回、当店の数少ない目玉というか強引セット、木山捷平『酔いざめ日記』『耳学問・尋三の春他 』をお求めいただく。

NEGIさん滞在時、「古書ほうろう」の宮地さんがお見えになる。ほうろうさんは憧れの古書店。
村上春樹強引セットをご覧になり、「とみきち屋さん、今日はこれが出るか出ないかだよねえ(笑)」と宮地さん。何というプレッシャー(汗)。もうその時点でこれはあかんと薄々感じていたから余計に。予想通り、持ち帰りとなりました(笑)。ミカコさんとお話できなかったのは残念です。

詩の朗読、歌、ブログ、ポエトリーカフェ(今月末から)など様々な形で詩の素晴らしさを伝えているPippoさんと、リコシェの豆子さんをよみせ通りで見かける。「怪しいお二人ですね(笑)」と声をかけたら驚かれた。そのままエスコートならぬ客引きという風情でお二人をゲントにお連れする。お互い「相手の話なんか聞いちゃいないと」と言っているけれど、ほんとに仲がいいんだなあとほっこり。豆子さん、Pippoさんのマネージャーとして仙台まで行くんだから。
Pippoさんには大森荘蔵『流れとよどみ』(産業図書)を購入いただく。大森荘蔵は『時は流れず』(青土社)が一番好きな本と聞き、新しい一面を見せてもらったように思える。

u-senさんがお仕事前にスーツ姿でご来店。一瞬「?」。しかし、違和感がない。当たり前か。
宇佐美承『池袋モンパルナス』(集英社文庫)を購入いただく。u-senさんがゲントから去った途端、一人の女性に声をかけられる。
「もしかして、今の方があの有名なu-senさんですか?」
ブログと実際のイメージが異なっているように感じられ「あの」と言われたのかなと思いつつ、「そうですよ」とお答えする。他の会場ではどうだったのだろう。多くの方がu-senさんをご存じのはず。ゆっくり本を見るのは無理だったのではないかな。

<オムライス堂>のNさんがお見えになったので、
「調子はどうです。大丈夫ですか?」といきなり声をかけてしまう。
「どうしてですかねえ。他でもそう声をかけられるんですよ」
「そりゃそうでしょう。ブログを読めば」
そこにくちびるごうさんが突然現れ、
「大丈夫なの?」
「ほら、みんなそう思っているでしょう!」と私。

それからしばしNさんとお話。ハレとケの落差、モノローグとダイアローグの違いなどをベースに(何のことやら)勝手に私が喋りまくり、「どこか似ているところありますよね」と訊くと、Nさん苦笑。
「そうだよなあ、ありがたくもないよなあ」と反省(笑)

佐伯一麦『芥川賞を取らなかった名作たち』(朝日新書)を購入いただく。新刊で買われるつもりだったとのこと。喜んでもらえよかった。最近ようやく2冊目を入手できたので、出品。意外に思われるかもしれませんが、佐伯一麦は『木を接ぐ』で海燕新人文学賞受賞の頃から注目しており、けっこう好きで読んできているのです。『ア・ルース・ボーイ』は残っていても、『一輪』『木の一族』(いずれも新潮文庫)が品切れなんて…。

仙台文学館での連続講座がもとになっている朝日新書はお薦めです。参加者の声に答える著者の真摯な姿勢、作品に対する愛情が伝わってきます。
エピソード(3)で触れた、洲之内徹『『棗の木の下』。実は佐伯一麦が取り上げた12作品の中のひとつなので飛びついてしまいました。これで後は、『おじいさんの綴方 河骨 立冬』(講談社文芸文庫)が入手できれば、全作品手元に揃うのだが、なかなか出会えない。
他には太宰、北條民雄、木山捷平、小山清、小沼丹、山川方夫、吉村昭、萩原葉子、森内俊雄、島田雅彦、干刈あがたの作品に触れています。人によっては、(私自身も)名作と呼べるかとなると「?」がつくものもあると思いますが、著者の解説には目を引くものがあります。

さて、先ほどちらっと登場したくちびるごうさん。「みちくさ市」では渋い、良質の本を廉価で出されています。「本が好き!!」が半端ではなく、オーラが出ている方。今回<とみきち屋>の強力な助っ人さんになっていただきました。

まず、ご本人に野呂邦暢・長谷川修『往復書簡集』をご購入いただく。
その後私の不在時に再度お越しいただき、ご来店されたお知り合いの方に、野呂邦暢『愛についてのデッサン』(角川書店)を強力にプッシュしていただく。
この作品いいんだよ。しかも安い。この版で読みたかったなあという感じで。(みすず書房版でお持ちのご様子)。さらに<古書、雰囲気。>さんもお見えになり、みすず版でもこの値段では手に入れくいとバックアップしていただく。その甲斐あって、お知り合いの女性に引き取っていただくことになりました。
その間、店主・とみきちは何も言えず黙したまま。そして最後に、目の合ったお客様に「強烈な営業でしたねえ」。まるで他人事のように(笑)。

<古書、雰囲気。>さんには、小山清『落ち穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)を。くちびるごうさんには太田治子『斜陽日記』ほか2冊を追加で購入いただく。ありがとうございました!!

店主・とみきちの友人ぶーやんさん。その博識ぶり、行動力はまさに驚異。たとえば伊藤若冲。とみきちは東京での展示を観に行くのが精一杯。ぶーやんさんは、遠く四国(香川)金刀比羅宮まで飛び「書院の美」展へ。「動植綵絵」33幅が揃うと聞くと京都・相国寺へ。室生犀星が気になれば、金沢へ赴いてしまうのです。
昨年小布施に行かれたので、お隣の<まちとしょテラソ>さんとも話が弾んでいたご様子。さらにさらに。ナンダロウ(南陀楼綾繁)さん著『山からお宝 本を積まずにはいられない人のために』(けものみち文庫)に寄稿されているのです。それでナンダロウさんに紹介。面識はなかったのに編集の都合で写真を掲載できなかったことを憶えているナンダロウさん、やはりすごい。

徳富蘇峰の孫にピアノを習ったことがあるとのこと。それもあってか、徳富蘇峰『読書法』(講談社学術文庫)など3冊購入いただく。

店主・とみきちの仕事上の師匠Nさん。ロシア文学科出身ということもあって、ナボコフの本などは全て所有されているご様子。ドストエフスキーにもめっぽうお詳しい。亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』が話題になった時には、原卓也訳との違いなども聞かせていただいた。店主・とみきちは亀山郁夫訳を読了したが、私はとりあえずどんなものかと「プロとコントラ」のみ読んで、ダメだあと挫折。原卓也訳、池田健太郎訳、米川正夫訳と読んできたが、亀山訳はどうもドストエフスキーを読んでいるという気がしない。頭が古いのか、かたいのか(笑) 亀山の評論はけっこう面白く読んでいるのだけれど。
Nさんには、「文章読本」というタイトルのついた本に目がないということで、向井敏『文章読本』(文春文庫)を購入いただく。

昨秋、今春とお目にかかれた岡崎武志さんとお会いできなかったのは残念です。

古本市で黒岩比佐子さんの姿を拝見できないと、ジクソーパズルの大事なピースを欠くような感じで淋しい。体調を崩されたご様子。お大事になさってください。

9月のみちくさ市でお隣に出店された<モノンクル・ブックス>さん。10月9日が「BLIND BOOKS」さんの開店日だったので、翌日一箱訪問は厳しいですよね。お会いできず残念でした。お店の方には、とみきちと二人で遊びに行かせていただきますね。
「BLIND BOOKS」店主さんの日記はこちら→  http://blog.livedoor.jp/chobin3/

多くの方々のお力添えをいただき、今回も楽しい一日を過ごさせていただきました。
心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

〔 とみきち屋の結果 〕 下線付きが今回の結果です。

第9回 秋も一箱古本市  冊数82冊 平均単価474円

第8回 一箱古本市(春)   冊数85冊 平均単価410円
第7回 秋も一箱古本市  冊数85冊 平均単価548円

店のスタイルを変えないので、あまり大きな変動はありません。
今回冊数の割に平均単価が上がったのは、高めの本を多く引き取っていただけたからだと思います。また、リピーターの方、知り合いの方にお買い上げいただいていることが支えになっていると強く感じております。

次回<とみきち屋>の古本市への出店は、ひょっとしたら来春以降になるかもしれません。
年内出店できるか否かに関しては、1週間以内にご報告させていただけるのではないかと思っております。

店主・とみきち http://yomuyomu.tea-nifty.com/dokushononiwa/ 
番頭・風太郎

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「第9回 秋も一箱古本市」エピソード(3)

この一年、本と古本市を介して、多く方々と出会えた。一年に一回しか会えなくても、数分しか話せる時間がなくても、どこかしら通じるものがあって、会えるのが楽しみと思えるのは、やはり「本が好き」という気持ちが根底にあるからだろう。こういう関係は大切にしていきたいと思う。
それでは、出店者篇。

時間的な余裕がなく、今回は一番近い【コシヅカハム】にしか行けなかった。
引っ越し直後でありながら、遠く福島から出店された<もす文庫>のmasubonさんとご主人に会えてよかった。昨秋お隣同士の出店だったことをきっかけに親しくさせていただいている。一足先にうかがっていたとみきちが、素敵な缶バッジを頂いていたので私は本を頂く。masubonさんには当店にて小川洋子の新書をご購入いただく。いつもありがとうございます。来春またお会いできたら嬉しい。

<あり小屋>さん、今回は春よりもやや強気の値付けをされたとのこと。そうは言っても、木山捷平の品切れ講談社文芸文庫など、どう考えても良心的で安価。伺ったのが3時を過ぎていたので、箱の中に見つけショック。不況の影響もあって、お客様の財布の紐も年々かたくなってきているのだろうか…。
でも、やはり個人的には<あり小屋>さんの姿勢が好きだ。勝手な思い込みと言われようが、<あり小屋>さんが『白兎・苦いお茶・無門庵』を100円、200円とかで出されていたら、寂しい。
田中小実昌ほか文庫本を3冊いただく。あり小屋さんには宇野功芳『名指揮者ワルターの名盤駄盤』(講談社+α文庫)を当店から購入いただいた。ちょっと意外でした。

<ドンベーブックス>さん。相変わらずいい本を出されているなあとため息。
ついに見つけました。井上究一郎『ガリマールの家』の単行本!文庫本は持っているが、単行本は目にするのも初めて。申し訳ないと思える値段でいただく。他には田中光二『オリンポスの黄昏』(集英社文庫)。以前人に差し上げたので、1冊しか手元に残っておらず嬉しい。田中光二はあの『オリンポスの果実』の作者で、太宰を追いかけるように自死した田中英光の息子。唯一父のことを書いた小説。

<やまがら姉弟文庫>のYさん。春に私たちが映画保存協会で出店した際にお世話になり、先日の助っ人集会後の飲み会では楽しい話をたくさんさせていただいた。
『en-taxi』 2005年10月号をいただく。何より嬉しいのが、洲之内徹の復刻『棗の木の下/砂』が特別付録としてついていたこと。
『en-taxi』がかつて今よりも小さい判型で、かつ付録つきで売られていたことなど知らなかった。<とみきち屋>がいかに偏っているか暴露しているようなものですね(笑)

私の好きなお店<つん堂>さん。ご主人は外見からは人気ロックシンガーではないかと見まごう感じの方。ところが黒いケースにきちんと並べられている本の渋いこと。多くが品切れ、絶版本。今回は野坂昭如『一九四五・夏・神戸』(中公文庫)をいただく。

初めてお目にかかった<静温堂>さん。屋号にぴったりの雰囲気、品揃え。ここも私好みの本が多く困ってしまった。福永武彦の文庫2冊いただく。個人的な実感として、福永の本は品切れでも思うように引き取ってはもらえない。だから、持ってはいても欲しくなる。

店主・とみきちがバッジを購入した<だいこん洞>さん。「古書ほうろう賞」受賞おめでとうございます。戻らなければならない時間になっていたため、ゆっくり見れず残念。

昨秋以来懇意にさせていただき、貴重な情報をたくさんいただいている<四谷書房>さん出店の【ライオンズガーデン谷中三崎坂】には行けなかった。なのに、こちらにお越しいただき、中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』(ちくま学芸文庫)を購入いただく。ありがとうございました。

古本市終了後に書かれるレポートが楽しい<古本 寝床や>さんにも会えず。
同じくライオンズガーデンに出店されていた<本棚やどかり>さん。「オヨヨ書林賞」受賞おめでとうございます。私の不在時に何人かでご来店いただき、牧村健一郎『獅子文六の二つの昭和』(新潮選書)、武田百合子『ことばの食卓』(ちくま文庫)をお買い上げいただきました。ありがとうございます。何かの機会にご挨拶に伺いたいと思っています。

【C.A.G.+Negla】にも行けず。<あいうの本棚>さんに会えないは寂しい限り。今回も写真で拝見すると引き出しが目を惹く素敵なレイアウト。大雑把なうちの構えとは全く対照的なので憧れます。
ブログへのコメントありがとうございました。いつも心が温かくなります。

素敵なご夫妻で出店されている<たけうま書房>さん。私の不在時にお見えになられたみたいでお話しできず残念。店主日記の中で、一番印象に残った一箱として<phtogramme>さんを挙げていらっしゃいます。同じゲントに出店していたので、そうだろうなあと思えます。

集会でお話しさせていただいた<霧のタンス本>のKさんの箱も拝見したかったのに…。同じく<野ぎく堂>さんにも会えなかった。開催当日伺いますねと言いながら叶わず、恐縮の至り。一箱古本市がどんな様子かを、好き勝手に話してしまっただけに。またお目にかかりたいと思っています。

当然の如く、一番遠くの【宗善寺】には行けず。なのに、<駄々猫舎>どんぐりと駄々猫>の屋号で出店されていた駄々猫さんにはわざわざお越しいただく。しかも息を切らせて。その姿に感激。お父様が哲学の先生でいらしゃると聞き、9月の「みちくさ市」の際、なぜシオランなのか秘密が判りました。鶴見俊輔の本ということで『鶴見俊輔書評集成3』(みすず書房)を購入いただく。加えて坪内祐三『考える人』(新潮文庫)も。実は、鶴見俊輔のこの本、最後まで残っていたらナンダロウさんに引き取ってもらえたであろう本。不思議な感じがする。「みちくさ市」ではご主人と二人合わせて10冊も購入いただいたこともあり、足を向けて寝られません(笑)

駄々猫さんがブログで今回の「一箱古本市」の詳細なレポートを書かれています。一箱初参加とは思えない充実ぶり。3回目の参加になる私も参考にさせてもらいました。またどこかでお会いできますよね。楽しみにしています。ご主人にも!

東京に限らず、全国の一箱古本市にこの人あり!と言っても過言ではない<モンガ堂>さん。ご挨拶に伺えず、すみません。また、リンク集の作成ありがとうございます。このリンク集のおかげで、当日の様々な様子を知ることができます。
リンク集はこちら→ http://d.hatena.ne.jp/mongabook/20091011

<嫌気箱>の塩山さんにもご挨拶できず。仲正昌樹の(アーレントについて書いた)新書をめぐってある方と交わされた言葉が素敵です。(塩山さんご自身のブログに書かれていたものではありませんのでご了承ください)

<カリプソ文庫>さんの箱はぜひぜひ覗いてみたかったのに…。残念でならない。先日いろいろお話しさせていただき、(私自身共感を覚える)こだわりをお持ちの方と思えたのでいっそう。
エロスをテーマに品揃えされ「青秋部賞」を受賞された<junglebooks>さんを見逃したのも残念。様々なブログやコメントを拝見し、素敵なお二人を想像する。きっと「みちくさ市」ほか、これからもどこかで出店されるだろうから、その折りにはお話しさせていただきたい。

エピソード(4)知人・友人篇。現在執筆中です。

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「第9回 秋も一箱古本市」エピソード(2)

古本市が終わる度、長々書き綴っているものだと自分でも思います。一箱3回、みちくさ4回、これで7回目。飽きもせず、懲りもせず。
少しでも強く記憶に留めておきたいから-今のところそれ以外の理由が思いつきません。
言葉によるアルバム。写真は頭の中といったところでしょうか。

それでは、一般のお客様とのエピソードの続きから。

■利倉隆『天使の美術の物語』(美術出版社) 500円

開店時箱に入りきらず後から補充した本。気がつくと、ひとりの女性が手にされていました。ゆっくりとページを括る表情の何と穏やかなこと。ずっと見ていたい気持ちを抑え、視線をそらしてお待ちする。「これ、ください」「ありがとうございます」。交わした言葉はこれだけ。お声をかけたら、かえって何か大切なものを壊してしまいそうな気がして。

印象に残る店にしたい。一人でも多くの方に喜んでいただきたい。そんな思いで一日限りの<とみきち屋>を出しています。名前を憶えていただけるのはこのうえなく嬉しいことではありますが、憶えていただけなくてもいいかなと思えることもあります。このお客様が何かの折り、これは谷中の古本市で手に入れた本と思い出していただけたら、それも印象に残ったことに変わりはないのですから。

■佐川光晴『牛を屠る』(解放出版社) 300円
■洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮文庫) 700円

年輩の男性の方がご購入。残念ながら私の不在時だったため、お話しすることはかないませんでした。
洲之内徹が旅立っていくのは予想がつきました。文庫版の人気は安定しているので。気になっていたのは『牛を屠る』(解放出版社)の方。

屠畜或いは人が他の動物(生物)を食することに関しては、1998年鎌田慧『ドキュメント屠場』(岩波新書)、2004年森達也『いのちの食べ方』 (理論社)、2007年 内澤旬子の労作『世界屠畜紀行』(解放出版社)、2008年妻夫木聡主演による映画『ブタがいた教室』、2009年(春)ドキュメンタリー映画『いのちの食べ方』(※森達也の本とは全く別物)など、話題となったものが多い。
日本における屠畜は差別の問題を避けて通れない面もあり、焦点のあて方が難しい。そんな中、内澤旬子、佐川光晴の著作は屠畜・屠殺そのもの現場を克明に描くことによって、ひとつの職業としての尊厳さを唱えている。遠ざけられ、隠されているがゆえに、差別意識を生じさせるのではないかという考え方が(微妙な違いこそあれ)両者の根底にあるように思える。

動物は、エサをやるだけじゃなく、かわいがって話しかけて飼えば、犬だけじゃなく、豚だって牛だって、飼い主の呼びかけに喜んだりするんじゃないだろうか。つまり、家畜として(情けをかけ過ぎずに)飼えば家畜となって、使役したり食べたり、皮を取ったりするのに適した存在となり、ペットとして愛情をかければ、どんな動物でも感情のある相棒となる。

これからも動物をときにかわいそうと思いつつ、でも自分で擬人化したイメージに流されず、責任をもって丁寧に食べていきたい。

『世界屠畜紀行』の中でこう述べていた内澤氏は、その後、自ら豚を飼育し、食している。その様子がブログに書かれています。(→こちら)

一方、佐川氏は1990年から2001年まで屠場で働いていた経験をもとにあくまで「屠殺」という言い方に拘る。

「死」には「冷たい」というイメージがつきまとう。しかし、牛も豚もどこまでも熱い生き物である。ことに屠殺されてゆく牛と豚は、生きているときの温かさとは桁違いの「熱さ」を放出する。(略)差別・偏見を助長しかねない「殺」の文字を重ねなければ、われわれが触れている「熱さ」に拮抗できないと考えていたのではないだろうか。(略)牛や豚を殺しているのではないと言い張りながら、「殺」を容認するのは矛盾だが、われわれは「屠殺」という二文字の中に作業場でのなにもかもを投げ込んでいた。

「命をいただく」ことを考える上で、多くのヒントを与えてくれる2冊です。

ご存じの方も多いと思いますが、不忍ブックストリートMAPのイラストは内澤さんが描いていらっしゃいます。

■仲正昌樹『デリダの遺言』(双風舎)
■中上健次・村上龍『ジャズと爆弾』(角川文庫) ■ランボオ『ランボオの手紙』(角川文庫)

カップルでご来店いただき、30代と思われる男性にご購入いただく。ああ~~。先方が嫌でなければ、いろいろお話ししたいという選書。この時も不在。わずか30分弱店を離れていた時間帯に、応対できなかったお客様の多かったこと(泣)

■内田樹『ためらいの倫理学』(角川文庫)
若い女性のお客様。みちくさ市でもそうだったのですが、内田本は女性の方の購入が多い。
「内田樹の本は読まなくてもいいんだけどなあ」
「ブログとか講演をベースにした著作が多いですものね」と店主・とみきち。
「そうそう。ブログと同じような感じ」
でも、本を元には返されないお客様。そこで、とみきち。

「『ため倫』!」
「うん、『ため倫』!安いからもらっておこうかな」とお買い上げいただく。

この流れ、私番頭・風太郎には全くわかりません(笑)。でもご購入ありがとうございます!!
デビュー作ということもあって、文章がややかたく読み辛いかもしれませんが、内田樹のエッセンスは詰まっているので、読んで損はないと思います。と、弁解。

■佐野洋子『シズ子さん』(新潮社)

ご夫妻でご来店。野呂邦暢ほか渋めの本を手にとられては、お二人で会話を交わされる。その内容からしてかなり本に詳しく、当店が出している本のめぼしいものは既にお読みか、お持ちのご様子。このまま他に移られるのかなと思った時、二段重ねにしてあった下段左端から手に取られたのが『シズ子さん』。
「なんか、この値段では申し訳ない感じよね」と奥様。
「はい、確かに。ただ、佐野洋子の本は、当店の一押しなので、繰り返し同じ本であっても出品させていただいております。一人でも多くの方に読んでもらいたいという気持ちからこの値段にしております」とお話しする。

実はこの本、その直前、遠く宗善寺から素敵な和服姿でわざわざお越しいただいた<どすこいフェスティバル>さんのTさんがお気づきにならなかったもの。「佐野洋子さんの本があったのね」という言葉に恐縮。2段にびっしり重ね過ぎたため、和服をおめしになられていたTさんには見つけにくかったのだと思います。ごめんなさい。次回からはもっと本を探しやすいよう工夫いたします。
<どすこいフェスティバル>さんからは、Kさん、ご友人のYさんもご来店。Kさんにはカナファーニー『ハイファに戻って 太陽の男』もご購入いただき、ありがとうございます。
「一箱」「みちくさ市」何度もお越しいただき、親しくさせていただいているのに、こちらからは伺えずすみませんでした。
売上げ点数111点、ぶっちぎりのトップ。凄い!のひと言です。いい本を、お客様がお求めやすい値段で数多く提供されたのでしょうね。伺っていたら10冊くらい頂いてしまったかもしれません(笑)。

中平卓馬の本、写真集ほか3冊とも引き取っていただきました。手に取る方が多く、人気のあることを実感。追悼の意を込めて1冊のみ出した庄野潤三。『文学交友録』(新潮文庫)500円も思った通り行き先が決まりました。マルグリット・デュラス『ヒロシマ私の恋人』(ちくま文庫)600円は30代と思われる女性の元へ。アラン・レネ監督による映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』はご覧になられたものの、原作本は未読。文庫の古書なので、値段的に「少し高いかな」と迷われたようですが、品切れ本であることをご説明すると、次回どこで出会えるかわらないからと、引き取っていただけました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

出店場所アートスペースゲントさんを担当していただいたナンダロウ(南陀楼綾繁)さんには、初めて当店からお買い上げいただく。当店がウェイトを重くして揃えている、文学、思想本もナンダロウさんにとっては月並みであろうし、かといってそそるような珍しいもの、面白いものもなし。諦めていただけに嬉しいです。購入いただいたのは雑誌『東京人』でしたが、実は『鶴見俊輔 書評集成3』を、残っていたら購入いただけたことを伺いました。この本、(次回書かせていただく)駄々猫さんに引き取っていただき、箱から消えておりました。
ナンダロウさんからは、『本が好き!vol.41』(光文社)を頂戴する。ナンダロウさんの記事「本町通り(ブックストリート)を歩こう」<最終回>が掲載されています。

右隣には、<ゆず虎嘯>さんが出店されていました。お名前は存じ上げていたものの、お話させていただくのは初めて。昔よく通った、今でもたまに訪れる素敵な街、国立(くにたち)にお店を出されています。旭通り沿い。あの有名な「谷川書店」さんのすぐ近くとのこと。

左隣には、信州小布施から参加された<まちとしょテラソ>さん。小布施町立図書館長・花井さんとは楽しくいろいろお話しさせていただきました。9月に催された「まちとしょテラソ市 <一箱古本市>」、来春4月17日・18日と実施されるみたいですね。

同じくアートスペースゲントさんには<古書 北方人>さんもご出店。みちくさ市などでは、毎回のようにいい本を安くいただいております。私などが全く知らない、しかし見る人が見ればすごい本が並んでいるのは、お客様の嬉しそうな顔、驚きの声を聞けばわかります。
今回初めて素敵なお嬢様にもお会いできて、嬉しかったです。
<photogramme>さん、<books195>さん、<orz文庫>さんとはほとんどお話しできず、残念でした。またどこかでご一緒させていただくこともあろうかと思います。その折りにはよろしくお願いいたします。

……………エピソード(3)に続く。

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「第9回 秋も一箱古本市」 エピソード(1)

にわか雨による一時間近い中断にもかかわらず、大勢の方々に一箱の会場、そして<とみきち屋>に足をお運びいただき、ありがとうございました。
また、不忍ブックストリート青秋部のお二人、実行委員ほかスタッフの方々、助っ人の方々。場所を提供くださった大家さん。後援いただいた古書ほうろうさん往来堂書店さんオヨヨ書林さんにも、心から御礼申し上げます。

スリップを見ながら、この本はどなたに引き取っていただいたか、その時どんなご様子だったかを思い起こしています。
今回はスペースの関係もあり、店主・とみきちと二人一緒にお客様とお話しさせたいただくことが思うようにできませんでした。従ってお客様のやや後ろから見守ることも多く、私が不在だった30分弱の時間帯も含め店主・とみきちからのヒアリングの時間も増えています。

それでは、恒例のエピソード集始めます。いつもどおり、一般のお客さまとのお話から。

出店場所「アートスペースゲント」さんでは、ナンダロウ(南陀楼綾繁)さん、助っ人のIさん(早番)、青秋部石井さんの教え子でいらっしゃる大学生のお二人(遅番)にお世話になりました。箱の後ろ側にはすでに移動済みの植木が並んでおり、一人が坐るとその後ろは人が通れず。お隣との間が40㎝ほどなので、店主・とみきちとの連携作業が困難と判断。番頭の私がお客様の後ろからフォローする方針を固める。

11時開店前に早くもお客様の姿が。開店の合図と共に一人の男性がお見えになる。いつも早い時間に来られ、何度かお顔は拝見している方。何度古本市に参加しても、最初のお客様にご来店いただく際には緊張します。その日がどんな流れになりそうか、そこである程度決まっていまいそうに思えるからです。
ひととおり箱をご覧になられ、何冊か手にとられた後一冊お求めいただき、ほっとしました。

■内堀弘『ボン書店の幻』(ちくま文庫)350円

自分の蔵書から手放せる本ではありません。たまたま古書店で見かけ2冊目を入手できたので出品。「この値段なら」と満足いただけたご様子。ありがとうございます。
一箱古本市翌日、店主・とみきちのブログ「とみきち読書日記」に一人のお客様からコメントを頂戴しました。

「毎度楽しみにさせていただいております。お気に入りの店主さんを先に回ろうと一番に伺いました。欲しい本が5冊はあったのですが1冊で我慢してしまいました。ごめんなさい。その後すぐ雨で、大変でしたね。午後は青空でよかったです。次回も楽しみにしております。」

私ども<とみきち屋>にとって、かようなコメントをお客様からいただけることは、ほんとうに嬉しいことです。しかも、雨のことまでお気遣いいただけたなんて。
雨粒が落ちてきたのは開催後20分も経過していなかったので、コメントの内容と私たちの記憶、スリップへの記載を考え合わせると、コメントをお寄せくださったのは、まずまちがいなくこの最初のお客様だった思います。(万が一間違っていたら、すみません)。来春も参加させていただくつもりでおりますので、ぜひお立ち寄りください。今度はゆっくりお話しさせていただければと思っております。

二人目のお客様に、■尾形仂『芭蕉・蕪村』(岩波現代文庫)■国枝史郎『神州纐纈城』(河出文庫)をご購入いただいた直後雨が降り始め、中断に入る。

一瞬今日は終わったか…と思ったが、東京は地域によってにわか雨という予報を朝方耳にしていたので、気を取り直す。ナンダロウさんがいてくれたのも心強かった。

そのナンダロウさんに、普段私たちが参考にしている「東京アメッシュ」を携帯で見てもらう。PCで見れる時ほどクリアではないが、雨は文京区から台東区にかけての一部、しかも局地的にしか降っていない。「回復する!」という期待が膨らむ。空を見渡せる場所に移動し見やると、遠くは雲がさけ、青空もちらっと見える。

本を屋内に入れさせていただき、一旦解散。再開時には各人の携帯に連絡をいただく、携帯を持っていない、バッテリー切れの方は助っ人Iさんに連絡を入れるということにして。
とみきちと二人、早めの昼食をとりに「谷中銀座」へ。85歳のおじいちゃまがやっているおそば屋さんへ。当日の人力車による結婚披露のこと、谷中のことなどいろいろ教えていただき、谷中情緒を思わぬ形で味わえた。食後「よみせ通り」をぶらぶら歩いていたら携帯が鳴り、再開のお知らせ。12時をまわっていたが、続けられることが嬉しくてならない。残り4時間弱楽しもうと、ゲントさんに戻る。

雨による中断でお客様にどれほど来ていただけるか、一抹の不安はあったものの、再開後途切れることなく大勢のお客様がお見えになる。「一箱」の認知度の高さ、谷根千という街の魅力、底力を実感する。もちろん、多くの顔見知りの方々にも午後から続々とご来店いただき、励まされる。心強くもあり、楽しい。

■深沢七郎『人類滅亡的人生案内』(河出書房新社)
■古井由吉『円陣を組む女たち』(中公文庫) 『櫛の火』(新潮文庫)
■柄谷行人・中上健次『小林秀雄をこえて』(河出書房新社)
■長谷川宏『ヘーゲル『精神現象学』入門』(講談社選書メチエ) 計5冊

若い男性の方に、こういう選書で引き取っていただけるのは嬉しいです。「幅広くお読みになられるのですね」と声をかけさせていただくと、「そうでもないです」と微笑まれる。それから少しお話しさせていただく。深沢七郎はお好きな作家で、古井由吉『円陣を組む女たち』は探されていたとのこと。また、お会いしたい。

■ナボコフ『ナボコフ全短篇集〈1〉』(作品社) 
■バフチン『小説の言葉』(平凡社ライブラリー)
■鶴見俊輔『夢野久作と埴谷雄高』(深夜叢書社)
■内堀弘『石神井書林日録』(晶文社)
■林芙美子『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』(岩波文庫) ほかに文庫3冊
計8冊 5,000円

雨天中断後間もなく、リュックを背負われた男性がご来店。今回、当店で冊数、金額ともに一番のお買い上げいただきました。「安いよねえ。もっともっとほしいんだけれど」と言っていただく。そんなに安くはしていないのに…。ありがたいことです。
「ナボコフは〈2〉も出品できればよかったのですが」とお声をかけると、「いやあ、〈1〉だけでも、この値段なら十分」と。またのお越しをお待ちしております。

先に紹介させていただいた若い男性の方もそうですが、当店に初めてお越しいただいたにもかかわらず、まとめて購入くださる方が毎回のようにいらっしゃるのが驚きであり、嬉しいことでもあります。

■五味康祐『いい音いい音楽』(読売新聞社) 800円

一人のお客様が箱の前にしゃがんで本を選んでいらっしゃる。そのため、他のお客様が箱の前までは近寄れなません。前2回とは違い、ほぼ一日中このような状態だったので、申し訳ないなと思う。もちろん、先に見ていただいているお客様が迷惑などと言うことでは決してありません。二人のお客様が同時にご覧になれるスペースがなかったのです。

私の左後方から人影が。当店の箱をやや離れたところからご覧になり、いきなり「えっ?おっ、あったよ!」。お客様の目線が何をとらえたのか何とはなしに感じられ、思わず期待を抱いてしまいました。「今手にしておかなければ」という感じで、他のお客様の邪魔にならないよう、1冊の本に手を伸ばされました。
ビンゴ!! いてもたってもいられず、箱の前にいらっしゃるお客様に「横をちょっと失礼します」と声をおかけして、私は店主・とみきちと場所を交替。

箱の前が空いたタイミングを逃さず、「五味さん、お探しでしたか?」とお声をかける。「そう、探していたんだよ」と満面の笑み。その表情から、どんな本かご存じなのはわかりました。こうなると、中身をくどくど説明するのはかえって野暮というもの。

お買い上げいただく際、「巻末にある、娘さんの父への追悼文(「父と音楽」)が素晴らしいです」とひと言だけ。「そうですか。楽しみです」とお客様。

脱線しますが、一部だけ紹介させてください。自らピアノを弾き、これこそ理想と思える音に関して意見が一致すると、うれしそうな父と握手して喜ぶ娘の言葉です。(文中タンノイオートグラフとあるのは、今や伝説と化した有名な英国製スピーカーのこと)

母は音楽を聴いているときの父が一番好きだという。父がひとり静かにタンノイオートグラフの前に坐り、音楽を聴いているときの表情はとても厳しい。まだ二十年余りしか生きていない私に、父の音楽への姿勢を語りうるとは思っていないが、瞭(あき)らかに、父は、流れる音楽のなかに神を観ていた。バッハ、モーツァルトをとおして神の聲(こえ)をきいていた。それは父にとって、もっとも敬虔な時間であったと思う。だから、私は、音楽と対峙している父の真摯な横顔をみるたびに、どうしても声をかけられなかった。(略)父亡き今、最高の鎮魂は音楽を鳴らすこと、それはわかっている。しかし、あまりに悲惨でなかなかかけられなかった。(略)できることならば、毎晩のように、父の愛した音楽を聴かせてあげたい。しかし、私の手ではタンノイは鳴ってくれない。あの素晴らしい澄明な、ふっくらした気品にみちた音をきかせてはくれない。父の死とともに、殉死したのだ。

■森山大道『犬の記憶』『犬の記憶終章』(河出文庫)
■川村湊ほか『戦争文学を読む』(朝日文庫)
■熊野純彦 編『現代哲学の名著』(中公新書)

以前「みちくさ市」で閉店間際ということもあり、けっこう値引きさせていただき、加藤典洋『村上春樹のイエローページ1・2』ほか3冊をご購入いただいたおじいちゃまにご来店いただく!昔から本はよく読まれるとおっしゃっていました。その時古本市っていいねえという感想もいただいたのですが、一箱に来ていただけるとは感激。しかし、私の不在時(泣)。とみきちが「以前もお買い上げいただきましたので」と、100円分だけ気持ちサービス。それでも喜んでいただけたご様子。きっと店主さんとのやりとりをと楽しまれていらしゃるのでしょう。

■荒川洋治『文学が好き』(旬報社)
■鮎川信夫・大岡信編『戦後代表詩選』(詩の森文庫)ほか3冊

<とみきち屋>常連のお客様のお一人。お名前も伺えたので今回からYさんと呼ばせていただきます。9月の「みちくさ市」で荒川洋治『夜のある町で』(みすず書房)を引き取っていただいたのですが、今回はまず荒川洋治の本を手にされました。昨秋以来何冊も当店から本を購入していただいてますが、図書館で読める本はお借りになって、読後購入するかどうかをじっくり考えられる方。自らの足でこれはと思える本を探される方なのです。
出品していた辻邦生・水村美苗『手紙、栞を添えて』(単行本)をご覧になり、「最近ようやく文庫本のほうを手に入れたんですよ、格安で」とYさん。本に対する姿勢と愛情の深さを感じます。そのような方に対して番頭・風太郎(私です)はあろうことか、押し売りに入る(笑)。

「きっとYさんをお待ちしていたんですよ~、この本。持って帰ってもらいたいって(笑)」
「そうですか?まいったなあ。う~~ん」といつもの素敵な笑顔で迷われるYさん。
「巻末の一覧表が荒川ファンにはたまらないのです」と背中を押すどころか、背中に負ぶさる。
「じゃあ、もらおうかな」とYさん。ありがとうございます!!

これまで荒川さんの本を何冊も出品してきたので、今後出品できるのは残すところ1冊となってしまいました。もちろん『文学が好き』は、自分の蔵書1冊のみで、どこかで入手しない限り出せません。ほんとうによかったと思っているんです。Yさんの手元に渡って。いつも本を介しての楽しい時間をありがとうございます。

『手紙、栞を添えて』を読まれ、水村美苗のイメージが変わったとのこと。きっと書簡を交わした相手がよかったのではないかと思います。

■保田與重郎『後鳥羽院』(保田與重郎文庫・新学社)
■ローデンバック『死都ブリュージュ』(岩波文庫) ほか4冊

もう、古本市ではおなじみのHさん。もちろん、当店にとっても大のお得意さまです。

いきなり伊藤勝彦『天地有情の哲学』(ちくま学芸文庫)を手にとられる。

「伊藤勝彦よく読んだよ」とHさん。それからしばし伊藤勝彦の話。吉本隆明との対談があることを教えていただく。(おそらく「思想の発生する基盤」のことではないだろうか) その後、スタージョン『一角獣・多角獣』(ハヤカワ書房)ほか何冊かの本についてお話させていただく。

もうすでに一袋分お買いになられていて、この先他店を廻られるのはきついでしょうという状態だったので、Hさんの本をお預かりする。するとまあ、長い旅に出られる。お戻りになられた時には合わせて3袋か4袋になっていたような。お買いになったものの中から「こんなの買ったよ」と一冊みせていただく。その作家の本を以前当店から買っていただいたことがあったので、その点は何とも思わなかったのですが、雑誌としては珍しくはないのです。「誰もが飛びついて買う普通の雑誌(本)はかえってHさんのアンテナに引っかからないのかも」と思うと不思議に納得がいく。「それ、面白いですよ」とお答えすると、「そう。楽しみだな」とHさん。そのお顔がなんともキュート。私の想像など及ばないくらい本に造詣がおありだろうし、本を選ばれる速さ、ご覧になるときの鋭い眼光。本来ならこんな感じで接するのは失礼なのかなと思いつつ、一向に変わらない<とみきち屋>でございます。

お隣で出店されていた「まちとしょテラソ」の小布施町立図書館長・花井さんにHさんの事をお話ししたら、とても驚かれていました。どれだけの本を買われたか、実際ご覧になられたわけですし。(小布施のことはまた改めて)

古本市に参加する回数が増える度に、新しいお客様、店主さん、スタッフの方との出会いがあります。また、親しくさせていただくようになった方にわざわざお越しいただいたり、メールで励ましていただいたりと、嬉しいことがどんどん増えていきます。そのため、終了後のブログも少しずつ長くなっていくような。今回は、1週間がかり(これは変わらず)、4回くらいになるでしょうか…(笑)。
初めてお読みいただいた方も既にお気づきかと思いますが、「一箱古本市」全体のレポートではありません。私ども<とみきち屋>の目に映った、いわば風景を描いたものです。その点、ご了承ください。

今回の「秋も一箱」、春の「一箱」、そして素敵な谷根千の街の様子が写真でアップされています。まだ訪れたことのない方にも、その雰囲気がきっと伝わると思います。ぜひ、ご覧になってください。スライドショーも楽しめます。

こちら→ http://f.hatena.ne.jp/shinobazukun/

また、モンガ堂さんがリンク集を作成してくれています。こちらもぜひ。

こちら→ http://d.hatena.ne.jp/mongabook/20091011/p1

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2009「秋も一箱古本市」出品本の紹介(2)

ようやく出品本の選定を終える。満足度は70%といったところ。一日の古本市で100%など所詮無理。では何故70か。出られるかどうかもわからない来春の一箱用に、50冊近い本を別の箱にしまい込んだからです。こうなるともう、病気ですね(笑)。

今回は前回の春(120冊)よりもさらに増やし、随時補充するつもり。増やした分は、200~300円の価格帯で出品します。また、一度出品したことのある本の多くは値を下げて。よってこの価格帯は春の約3倍の数になるでしょうか。そのかわり、びっしり2段に積み重ねますので、ちょっと見づらくなりますがご了承ください。

それでは、出品本の紹介続編です。

■野呂邦暢『愛についてのデッサン』(角川書店・初版)
■野呂邦暢・長谷川修『往復書簡集』(葦書房)
■ガッサン・カナファーニー『ハイファに戻って 太陽の男』(河出書房新社)

3冊ともこの一年間で、自分の蔵書用として2冊目を入手できたので、出品します。カナファーニーは荒川洋治推薦の書。二十一世紀に読み継ぎたい十冊の本の一冊として挙げていました。

カナファーニーは「戦争」と戦い、三十六歳で暗殺されたパレスチナの作家。夢のように悲しく美しいものを残した。文学のもっているもの、そして期待のすべてがこの作品のなかにある。 『文学が好き』(旬報社)

さて、その荒川洋治。今回もまた出品します。

■荒川洋治『文学が好き』(旬報社)

巻末近くに掲載されている「一年一作百年百篇-一九九〇~一九九九」が曲者。これを読んだがために、いったい何冊の本を買うはめになったことか(笑)。いまだに入手できない作品も多い。

■荒川洋治『読んだような気持ち』(ベネッセ・コーポレーション)

レアな部類に入ると思います。廉価での出品はできませんので、手にとってご覧いただくだけでも。荒川ファン<とみきち屋>の、今回の看板。滋味ですね(笑)。

■アンヌ・フィリップ『ためいきの時 若き夫ジェラール・フィリップの死』(ちくま文庫)

36歳の若さで亡くなったジェラール・フィリップ。その未亡人による(夫への)鎮魂の書。解説でも触れられているが、「この"わたくしたち"は、あなたプラスわたしではないもの、生まれつつあるもの、わたくしたちを超え、わたくしたちを包含すべきものだった」というアンヌの言葉が二人の在り方を象徴している。

■伊藤勝彦『天地有情の哲学 大森荘蔵と森有正』(ちくま学芸文庫)

人類の知的遺産シリーズでパスカルを執筆した著者。この本初版のみで部数が少なく、購入者も手放なさないのか(わからないのだけれど)、ネットも含めあまり見かけない。読後9年も経過している古本ですが、定価ぐらいで出してみます。

ブログで紹介させていただいた以外にもいろいろ出品します。蜷川幸雄、佐伯一麦、古井由吉、蓮実重彦、室生犀星などなど。

開催当日は晴れそうですが、まもなく上陸しそうな巨大台風の被害が心配されます。みなさま、お気をつけください。

私ども<とみきち屋>は、アートスペースゲントさんに出店します。

『秋も一箱古本市』 10月10日(土)開催予定 11:00~16:30
 (http://d.hatena.ne.jp/seishubu/

チラシ http://d.hatena.ne.jp/seishubu/20090924#p1
出店者一覧 http://sbs.yanesen.org/projects/sbs/wiki#店主一覧

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2009「秋も一箱古本市」出品本の紹介(1)

9月のみちくさ市参加前、既に7割方「一箱」用の本は別に選んでストックしておいたものの、その後遅々として作業は捗らず。結局、もう4日しか準備期間が残されていない。まあ、毎度のことですが(笑)

前にも書きましたが、いいなと思った本のうち、品切れになりそう、或いは品切れになってしまったら同じ本を、それこそ条件反射のように買っていました。古本市に参加する遙か前から。
書き込み用、持ち歩き用、保存用、時に贈呈用と4、5冊所有しているものがかなりありました。そこから、一箱2回、みちくさ(プレ開催含め)4回、計6回の中でけっこうな数を出品。しかも、できる限りかぶらないように。

しかし、素人ゆえの限界もあり、いいと思っても、簡単に入手できるものではありません。加えて、自身の性格もあります。古本市に参加するようになってから、買う本の幅が多少拡がったものの、やはり自分の好きなジャンルに偏るのは変えられません。

前置きが長くなりました。今回から<とみきち屋>は、直前のみちくさ市に出品した本、昨秋、今春のいずれかの一箱に出品したのと同じ本も出します。おそらく10冊~20冊。
何度も当店にお越しいただいている方には、「なんだ、同じ本が出ているじゃないか」という印象を与えてしまうと思います。しかし、いいと思える本は、「誰かに読んでもらえたら嬉しい」という気持ちがありますので、敢えて申し上げました。

だからといって、当店に一度はお越しいただいた方、ブログをご覧になった方など、<とみきち屋>の傾向をご存知の上で、足をお運びいただく方々を落胆させてしまうような箱は出さないつもりでおります。ぜひ、お越しください。

それでは、出品本のごく一部をご紹介させていただきます。2~3回の予定。

ミニ特集 【 西行と定家 】 写真参照

なぜ西行と定家なのかと訊かれても、答えに窮してしまいます。自分の好きな歌人だから、それに尽きます。そして、もうひとつ加えるならば、全品複数所有しているので手元に1冊残っていればいいという、単純な理由です。
西行の『山家集』(岩波文庫)、定家の『定家八代抄』(岩波文庫)が新刊で入手できないということ自体、不思議でならない。岩波なら、いつか重版されるとわかってはいても。
上記以外にも、4冊品切れ本を揃えました。

【 中平卓馬 】 写真参照

 『原点復帰ー横浜』(オシリス)、『なぜ、植物図鑑か』(ちくま学芸文庫) 『中平卓馬 来るべき写真家』(河出書房新社)。
中平卓馬ほか森山大道、東松照明論などが入っている大竹昭子『眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡』(ちくま文庫)も出します。(5年半前に出た文庫なのに、もう品切れのようです)
『決闘写真論』など、品切れ、絶版本は含まれませんので、出品数含め中平卓馬特集と呼べる品揃えにはなっておりません。一冊しか持っていない蔵書から出すのは困難なため、特集が組めればと自分なりに探してはみたのですが、入手できませんでした。一度入手困難な写真集を見つけましたが恐ろしいほどの高額で。

【 木山捷平2冊セット 】 写真参照

■『酔いざめ日記』(講談社) ■『耳学問・尋三の春他』(旺文社文庫)

いわゆる<とみきち屋>の強引セットです(笑)

【 村上春樹 付録付き 】

■『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社・初版

これだけでは、珍しくも何ともないですよね(笑)。そこで、付録を用意します。
1980年『文學界』9月号に掲載され、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の元になったと言われる作品の切り抜き です。雑誌本体は残っておりませんが、全文読めます。ただし、経年変化による黄ばみがあること、ホッチキスでとめてあることをご了承ください。
この作品、単行本、文庫本含め、著者本人の意向により未掲載です。

私ども<とみきち屋>は、アートスペースゲントさんに出店します。

『秋も一箱古本市』 10月10日(土)開催予定
 (http://d.hatena.ne.jp/seishubu/

チラシ → http://d.hatena.ne.jp/seishubu/20090924#p1
出店者一覧→ http://sbs.yanesen.org/projects/sbs/wiki

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「第3回鬼子母神通り みちくさ市」エピソード〔1〕

顔見知りの方、初めてお会いする方、今回も多くの方々との交流をはかることができ、ほんとうに楽しい一日でした。たとえ100円の本を1冊でも、ご購入いただいた方の満足気なお顔を拝見できるのが嬉しい。たとえ言葉を交わすことはなくとも、本を手渡せる喜びを心にとどめておきたい。そんな想いで私ども<とみきち屋>は古本市に参加させていただいております。店頭・会場では店主とみきちと共に騒がしくしておりますが。
毎回のように足をお運びいただくお客様、再度お越しいただいたお客様のことは参加前に思い浮かべ、何かないかなと1冊は用意するよう心がけております。手にとっていただけるか否かは別です。既にお持ちの場合もありますし、他の方が持ち帰ってしまうこともありますので。
それでは、エピソード〔1〕。一般のお客様のことから。

■『尾崎放哉句集』(岩波文庫)■村上護『放哉評伝』(俳句文庫)

今回設けた特集「放哉と山頭火」をお目当てに、開店直後お買い上げいただく。
「春の一箱の時、『徳川夢声日記』(全7巻・中公文庫・1700円)出してたでしょ。あれ、1週間前にけっこう高い値段で買ってしまったんだよね」とお客様のほうから話しかけていただく。最初のお客様が<とみきち屋>目指して来ていただけたので、にっこり。

■岡井隆『前衛短歌運動の渦中で』(ながらみ書房)
■小澤勝美『透谷と漱石 自由と民権の文学』(双文社)
■荒岱介『大逆のゲリラ』(大田出版)
■ブランショ『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫)ほか13冊

私どもが初めて古本市に参加した昨秋の「秋も一箱古本市」以来、毎回のようにお越しいただき、まとめてご購入いただいている大のお得意さまHさん。古本業界で知らぬ人はいないというくらい高名な方と知ってからも、変わらずお話しさせていただいております。
これまでも「トラック一台用意しておいて」「今日はこれくらいで(買うの)勘弁して」というような感じで、それはもう楽しく。

番頭「実はこの3冊、ある方のことを考えて昨夜2冊、今朝1冊追加した分なんですよ」
Hさん「だんだん気が合ってきちゃいましたね~(笑)」
番頭「お困りですか?(笑)」
一通り本を選ばれてから、荒岱介『大逆のゲリラ』を手にされる。
Hさん「荒岱介、このところけっこう本を出しているよね」
番頭「昨秋出た『監獄ロック…』では、監獄でいっしょだった野村秋介とのエピソードを書いてますね」
Hさん「ほう。(略)じゃあ、もらっておこうか」

多くのお店から多くの本を購入されるHさんにとって<とみきち屋>など、たいした店ではないことも重々承知しています。今回も値段を確認された上で購入されたのは13冊中3冊ほどでした。当店の倍の数の本を一日で購入頂いたお店もあります。
それでも、<とみきち屋>は<とみきち屋>。引き取っていただける本がなくとも、Hさ~んと、親しみをもってこれからもお声をかけさせていただきます。

■シオラン『オマージュの試み』(法政大学出版局)
■平岡正明『ボディ&ソウル』(秀英書房)
■山上たつひこ『光る風 上・下』(ちくま文庫)
■松本健一『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』(現代評論社)ほか7冊

「みちくさ市」では第1回から3回連続ご来店いただく。「何かの研究をされているのですか?」とお尋ねしたら、「そうではないんです」というお答え。いつも、1冊1冊本を手にとられ、ご自身のポイントとなるところを読まれてから購入される、落ち着いた雰囲気の若い男性。シオランを引き取っていただけたのは嬉しい。(今回シオランの本が一部で人気だったことはまた改めて)
一度他店を廻られてから再度ご来店。「小説は多いのだけど、(この方の)好みにあった思想系の本があまりなくて…。」それから、「最近松本健一を読んでいるんですよ」と『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』もご購入いただく。

■荒川洋治『夜のある町で』(みすず書房)
■小谷野敦『「こころ」は本当に名作か』(新潮新書)

「ブログ初めて読みましたよ!」と声をかけていただく。「一箱古本市」を含め、何度もご来店いただいているのですが、前回お会いした時ブログというものはほとんど見ないとおっしゃっていたので、驚きました。
「荒川洋治の本がほしくて……あった!まだ残っていたんだ」と満面の笑み。「これ(『夜のある町で』)、みすずから出たエッセイの中では最初のですよね。新刊書店では見つからなくて…いやあ、よかった」。こちらまで嬉しくなってしまいました。
当ブログで出品本の一部を紹介した際「いい本なのに品切れです」と、取りあげたのをご覧いただいたのです。
以前、工藤庸子『プルーストからコレッットへ』(中公新書・品切れ)をご購入いただいたこともあってだと思うのですが、「古本市で新書を売るのは難しいのかもしれないけれど、新書も(ほしいと思った時には)いつのまにか店頭から消えてしまうので、これからも出し続けてくださいね」と言っていただく。
確かに、自らちょっと無謀かなと言いながら、「新書祭」と特集を組んで前回のみちくさ市では40冊出品。引き取っていただけたのは18冊。決して動きがいいとは言えない。それでも、私自身新書にはお世話になっているし、好きでもあるので、少な目とはいえ今回も14冊出しました。(9冊購入いただく)
古本市に参加する際には、出し続けます!(笑)
またお会いできるのを楽しみしておりますね。
※荒川洋治はもう1冊出しており、ほかの方でしたが『読書の階段』(毎日新聞社)も購入いただけたので、荒川ファンの<とみきち屋>としてはほっとしております。

■久生十蘭『魔都』(朝日文芸文庫)1000円→800円
■内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)■鷲田清一・内田樹『大人のいない国』(プレジデント社)

若い女性のお客様。内田樹の本がお好みのようでまず2冊。そして、『魔都』を何回か手にされたものの、迷われた後箱に戻される。「この本、ほかではもっと高いんだけれど…」と。
お求めの本であることが伝わってくる。当店も値段は3ケタ(1000円)。1冊しか所有していなかったので、持ち帰ってもいいかなという気持ちが働いていた。でも、ここはと思い、「すでに2冊ご購入いただきましたので、『魔都』は2割引にさせていただきます。それでよろしかったら、いかがですか?」と、声をかけさせていただく。
自分は読んでいるのだし、またどこかで探せばいい。出品した以上、できれば誰かの手に渡ってももらいたい。読んでもらいたい。
こういうやりとりができるのも、古本市の楽しみのひとつです。

■H.ジェームズ『金色の盃 上・下』(講談社文芸文庫)
■水村美苗『続明暗』(ちくま文庫)
■里見弴『多情仏心』(新潮文庫)ほか7冊

20代の男性がご来店早々『金色の盃』を確保される。大事に読んだから状態は新品に近いとはいえ、1000円はちと高かったかなと思っていたのだが、迷わず手にとられたので、いきなり引きつけられてしまう。次々と色々な本を手にとってもらえるのが嬉しい。既に袋いっぱいに買われていたので、荷物をお預かりする。15分近く滞在していただいただろうか。途中『多情仏心』500円でやや迷われていたのが印象に残る。
「ほんとうに本がお好きなんですね。しかも幅広く」と声をかける。
「ええ」と少し照れた感じで。それがまた素敵な笑顔。
「6冊も買っていただいたので、値段がひっかかって戻された本がおありでしたらサービスさせていただきますが、どうですか?」
「いいんですか」とおっしゃってから間もなく「じゃあこれを。あまり見ないんで」と差し出されたのが『多情仏心』。
「200円でいかがでしょうか?」とお尋ねしたら、喜んで引き取っていただけました

■中上健次『破壊せよ、とアイラーは言った』(集英社)
■土方巽『病める舞姫』(白水Uブックス)
■ジェフ・コリンズ『デリダ』(ちくま文芸文庫)
■辰野隆『ふらんす人』(講談社文芸文庫)
■山口昌男『本の神話学』(中公文庫)ほか9冊

一般のお客様の範疇に入るかとなると微妙なのですが、敢えて書かせていただきます。私の読書の趣味と傾向が似ていて、出品する本の多くが家の本棚にもいっぱいあるんですよと、このお客様の奥様からはうかがっていました。それにしても、似ているというか、近いというか、もううまく言葉になりません。中上健次など文庫本でお持ちなのに、単行本は持っていないし装丁がいいからと購入いただく。私は今回文庫本を残し、単行本を出品しましたが、古本市に参加するようになっていなかったら、手元に残していたと思います。
不思議なご縁も感じます。雨で順延だったら翌日はお仕事で来れないことも聞いていたからです。一度奥様がお一人で来られ、「アイラーまだ残っているかなって言ってます(笑)」と。
「お気遣いありがとうございます。開店からとうに1時間を過ぎているので、ご遠慮なくと」とお答えする。そしてしばらくしてからご来店いただきました。
今回出店されていた、駄々猫さんのご主人です。ご主人は蔵書を手放すことはないそうで、今回も駄々猫舎さんのサポートのような形で来られたようです。
駄々猫さんにも内田百閒『ノラや』(中公文庫)をご購入いただいたので、ご夫妻あわせて10冊も!嬉しくてならないのですが、申し訳ないなあという気持ちも。「次からは一緒に来ませんよ~」などと言われたら寂しい。お買い上げいただくてもかまわないので、もっと本の話をさせていただきたいです。駄々猫さんも明るく素敵な方で、いっぺんでお二人のファンになってしまいました。こちらからも伺いますので、またお越し下さい。
駄々猫さんもシオランをお求めで、今回は『オマージュの試み』が売れてしまい、残っていた『悪しき造物主』はお持ちだったとのこと。まだ6冊ほど蔵書にあるのですが、それは手放せないので、「一箱」までに見つけたら、出しますね。

■今村仁司『現代思想の系譜』(ちくま文庫)
■高田里恵子『学歴・階級・軍隊』(中公新書)

20代後半と思われるとても感じのいい男性。「写真撮ってもいいですか?」と聞かれ、きょとんとしてしまう。関係者以外の方から言われるのは初めてだったので。目玉商品はだいぶ引き取られ、箱も崩れていた状態だったので、少し恥ずかしかったものの快く了承。
後日、葉っぱさんのお知り合いの方だったと知り、さらに驚きました。

■青木正美『古本屋五十年』(ちくま文庫)
■フーコー『外の思考』(朝日新聞社)
■鶴見俊輔『神話的時間』(熊本子どもの本の研究会)
■小熊英二『日本という国』(理論社)

『古本屋五十年』は、以前佐野洋子の本をご購入いただいた方で、一箱古本市の助っ人さん。いつもお世話になっております!
フーコーは30代と思われる女性。昔読んだ時に、折り跡をつけてしまったし、かなり古くなっているので「こんな状態でもかまいませんか?」と申し上げたのですが、読めればいいのですという感じで肯かれる。できれば、お話しさせていただきたかったな。
鶴見俊輔、小熊英二は両方とも中年の女性にお買い上げいただく、前者は、表紙に描かれていた佐野洋子の猫の画が目に止まったご様子。佐野洋子が谷川俊太郎の元奥さんだったことをお話しすると、驚かれていた。後者は、お子さま連れの方。お話しはできなかったのですが、何度も何度も手にとられてからご購入いただく。中身もところどころお読みになっていたので、気に入っていただけたのかな。小熊にしてはわかりやすく書かれているし。小熊英二は高校の後輩。といっても3つ下の代なので、同じ空気を吸っていたわけではなく。ちなみに同級生には芥川賞作家・多和田葉子がいますが、一度も話したことはないので関係ないに等しいか(笑)。

女性のお客様が少ないのは今回も同じ。それでも、こんな本を引き取っていただきました。チェスタトン『木曜日だった男』、三好達治『諷詠十二月』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』、『はつ恋 ツルゲーネフ /文:小川洋子 絵:中村 幸子』、深沢七郎『盆栽老人とその周辺』、佐野洋子『役に立たない日々』など。最後の3冊は顔見知り、参加者の方なので次回以降に触れたいと思います。

■シオラン『悪の造物主』(法政大学出版)

ご夫妻でご来店いただき、ご主人さまが購入。聞こえなかったのですが、お二人で何やらお話しされてから。
シオラン、春の「一箱」で『崩壊概論』(国文社)を出品したものの、ジュネの『黒んぼたち』(新潮文庫)を購入いただいた女性ほか数人にしか手にとってもらえず、終了後地元馴染みの古本屋さんに処分してまったのです。(1冊は残してあるので)
それが今回2冊とも売れ、しかも1冊はかぶり。わからないものですねえ。「一箱」でもダメかと、諦めてしまったのが失敗。自分が好きな著者の本は、暖めておこうと痛感。引き取ってもらえた時の喜びもひとしおなのだから。

■安岡章太郎『小説家による小説家論』(福武文庫)

プレ開催での出会いが私にとってはあまりに衝撃的だったので、「はにかみ高校生」と勝手に名づけて、その後もご来店いただくたびにブログでとりあげさせていただいています。前回などは会場全体が加熱してしまい、じっくり本を見ていられなかったかもしれません。今回は、前回のようなことはなかったのではないかと私は思っています。
お名前を存じあげないので、今後は高校生ということでkさんと、また勝手ながら呼ばせていただきます。
私ども<とみきち屋>は一度もKさんへの接し方を変えたつもりはありませんし、これからも来ていただける限りそのつもりです。大切なお客様のお一人として。
今回も購入いただき、ありがとうございます。店主・とみきちが「よごれていますけど、いいですか?」とお尋ねしたところ、いつものように静かに肯かれるのを斜め後ろから拝見しており、嬉しく思いました。
もし、このブログをご覧になり、触れられるのは心外と思われるようでしたら、お知らせください。これは、すべてのお客様についても同じ気持ちでおります。
<とみきち屋>はお客さまとの交流を喜びとし、みちくさ市に限らず古本市参加後、ブログで書かせていただいておりますので。
Kさんの場合、何の根拠もありませんが、当店のお客様として触れさせていただいていることを(もし読んでいただいていたなら)ご迷惑と思っていらっしゃらないと思っております。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
いろいろな場所で、多くのいい本と出会えますよう、祈りつつ。

次回は、関係者、出店者、顔見知りの方について書きます。

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〔宣伝〕 楽市楽座東京公演「金魚姫と蛇ダンディー」・稲葉なおとの本

突然ですが、高校同級生の宣伝です。(同級生なので敬称略)
楽市楽座座長・長山現が井の頭恩賜公園にて本日より3日間「金魚姫と蛇ダンディー」の公演をしています。
高校の仲間たちも集まる予定でいたのですが、残念ながら私は都合がつかず行けません。
興味のある方は是非足をお運び下さい。

「金魚姫と蛇ダンディー」
http://www.bekkoame.ne.jp/ha/ag0214/kinhebi2009shousai.htm

行けば10年振りくらいに会えて、話ができたかもしれないもう一人の同級生・稲葉なおとについても。
世界中のホテルを廻り、自ら写真に収め、素敵な本を多数出版しています。現在は品切れとなってしまいましたが、新潮文庫版『まだ見ぬホテル』では、彼のいとこでもある「B'z」のヴォーカル・稲葉浩志が巻末解説を書いています。この文章がまたいいのです。古書店なら手に入ると思います。 もちろん新刊のほうも是非!

Web版「まだ見ぬホテルへ」http://www.yomiuri.co.jp/stream/hotels/

二人とも固定ファンが多く、私などがとりあげるまでもないのですが、高校の同級生ということもあって紹介させていただきました。

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「第16回 往来座 外市」・維摩経・八木重吉

5日(土)秋晴れの中、恒例の外市へ。今回初めて開催後間もない時間帯に足を運ぶ。すべての棚や箱が盛りだくさんで目移りしてしまった。古書現世・向井さんの話では、毎回一番に駆けつける常連のお客様も大勢いらっしゃるとか。そうだろうなと納得。

「sai」をまだ手に入れていないので、往来座・瀬戸さんに声をかける。案の定品切れで、追加で取り寄せるとのこと。それでも1冊どこかに残ってはいないかと、忙しいのにいろいろ探していただき、恐縮。瀬戸さんの温かい人柄を肌で感じる。

武藤良子さん 「維摩経」

武藤さんと久しぶりに話せて嬉しかった。以前お会いした時に比べ、心持ち表情も穏やかな感じがした。このところイラストを依頼されることが増えてきているようだし、よかった。
武藤さんの画がカバーに使われている、釈徹宗『とらわれない 苦しみと迷いから救われる「維摩経」』(PHPエディターズ・グループ)を買ったことを伝えると喜んでもらえた。淡いグレーを基調としたシックな装幀の中で武藤さんの画が映えている。本文中にも武藤さんのイラストがたくさん載っていている。

釈徹宗は内田樹との対談『いきなりはじめる浄土真宗』『はじめたばかりの浄土真宗』(本願寺出版社)を読んで以来、こんな住職もいるのだと興味を抱き著書の多くを読んできた。
その釈徹宗が「維摩経」をどう料理するのか楽しみしていた。
20年ほど前、長尾雅人訳注『改版 維摩経』(中公文庫)を読んだ際にはおそらく3割も理解できてはいなかったと思う。
釈は仏教全般を視野に入れつつ、重要な仏教用語にも簡易にして明確な解説を加えている。その上で、我々の日常をとりまく身近な例を挙げながら「維摩経」の独自性を説いている。二項対立、脱構築(デリダ)、永劫回帰(ニーチェ)、キリスト教にも触れているのだが、専門的にはならず、不思議なスパイスになっている。
『碧巌録』の中で「維摩不二」という公案になっている有名な「維摩の一黙、雷の如し」。それについて書かれている「不二の門へと入る章」を読んだら、「維摩経」のエッセンスがすとーんと腑に落ちた。ユニークな本だ。

話を武藤さんに戻そう。「往来座通信」で紹介されていた嫌記箱・塩山芳明さんからの手紙(FAX)の中で、武藤さんに触れられているところを話題にする。「塩じいに嫌われてもいいからお金持ちになりた~い!!」と武藤さん。その笑顔がとても素敵だった。

●Pippoさん  八木重吉

ブログ「ぴっぽのしっぽ」でPippoさんが詩人・八木重吉をとりあげていた。それに関連し、Myspace にアップされた「八木重吉:短詩八篇(SE オルゴール楽曲)」を試聴。
Pippoさん自身による朗読。しんみりとやわらかく心に染みてきた。思わずほろっとくる。

詩集『秋の瞳』『貧しき信徒』などから八篇を選んで構成しているのだが、まるでひとつの物語のようになっている。八木重吉のことを知らない方でも、これを聴いたら好きになると思う。
Pippoさんとは八木重吉についていろいろ語る時間を持つことができた。

病弱、29歳という若さで愛する妻と娘を残しこの世を去った詩人。心の奥底に宿る「かなしみ」はどこまでも深いのに、暗くじめじめとした感じとは無縁で、透明感すら湛えている。難しい言葉は使われていない。思想を表明しているわけでもない。
敬虔なキリスト教信者であった詩人ゆえ、神を通じての表現があることは確かだ。しかし、読み手に信仰はなくとも、人や自然への「祈り」があたたかく響き、まっすぐに伝わってくる。

Pippoさんにはより多くの詩人や詩を、ひとりでも多くの方に、Pippoさんの感ずるまま伝えていってほしいと伝える。10月末から始まる「ポエトリー・カフェ※」にも、いつか参加できる機会があればいいなと思う。
※Pippoさんによる詩人紹介・朗読(肉声のみ)。そののち、参加者みなで茶話会。

試聴は1週間限定と聞いていましたが、好評につき期間延長とのこと。八木重吉の朗読、まだ試聴できます!未聴の方は是非聴いみてください。
こちら→(http://www.myspace.com/pipoguitar

今回の外市、久しぶりに参加された晩鮭亭さんの箱が、好みの本でいっぱい詰まっていた。お値段も手頃というより、かなり安い設定で。4冊ほど購入。

〔購入本〕

■ 西脇順三郎『野原をゆく』(講談社文芸文庫)

■ 戸板康二『折口信夫坐談』(中公文庫)

■ 森敦『意味の変容』(ちくま文庫)
昔単行本で読んだが処分してしまったので、買い戻し。

■ 古井由吉『白髪の唄』(新潮文庫) 3冊目かな。

■ 渡辺慧『認識とパタン』(岩波新書)
これも買い戻し。さすが、古書往来座。この手のバックナンバーがあたりまえのように揃っている。

■ 伊達得夫『詩人たち-ユリイカ抄-』(日本エディタースクール出版部)

● 松田有泉『コラム等(ひとし)』(有古堂)

上記含め計15冊購入。

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〔雑記〕 福箱、サッカー 日本vsオランダ 

【 福箱 】

9月5日(土)。福袋ならぬ福箱が葉っぱさんから届く。箱を開けると、読みたいと思える本(冊子)、欲しかった本が次々と出てくる。嬉しい。それにしても、葉っぱさんのレパートリーの広さには驚くばかり。

■木山捷平『白兎 苦いお茶 無門庵』(講談社文芸文庫)
品切れで入手困難。有りがたし。

『百年の愚行 ONE HUNDREO YEARS OF IDIOCY』(普及版・Think The Earthプロジェクト)
環境破壊、密猟、戦争・紛争、テクノロジー偏重、差別など、人間の愚行がもたらしたものを写し取った100枚の写真。ほとんどが正視に耐えない。しかし、「注視せよ!」と迫ってくる。己も人間である以上、無縁とは言い切れない- そこから思考を巡らさない限り、奈落に突き落とされて終わるだけの恐ろしい写真集だ。

『佐藤泰志追想集 きみの鳥はうたえる』(佐藤泰志追想集を発行する会)
2年前、『佐藤泰志作品集』(クレイン)が発売された際、すぐに購入した。しかし、この1999年に作られた追想集のことは知らなかった(既に売れ切れらしい)。貴重な資料をいただいた。

■ 季刊 本とコンピュータ『終刊特集 はじまりの本、おわりの本。』(トランスアート)
清水徹、巖谷國士、作田啓一、杉浦康平などの執筆陣に混じってナンダロウさんが名(本名)を連ねている。季刊 本とコンピュータの創刊スタッフで、第二期前半には編集長を務めたのだから当然と言えば当然なのだが、私がナンダロウサンと出会ったのは昨秋の「一箱古本市」だったので、不思議な気がする。

上記他計16冊も送っていただいた。「この秋に開催される古本市に出品してもいいよ~」ということなので、所有本と重なった5冊の中から3冊ほど出してみようかな。もちろん上記4点は対象外。

【 サッカー 日本vsオランダ 】

久しぶりにサッカー日本代表の試合をリアルタイムで観た。
現在の日本の実力と世界との差を冷静に考えればW杯の目標ベスト4がいかに無謀なことか、火を見るより明らかだ。日韓共催というホームでの試合を除き、(国外開催)アウェーでは未だ1勝もしていないことを忘れたわけではあるまい。前回ドイツ開催ではブラジルに遊ばれたではないか。日本よりはるか実力で勝る国でさえ、時に予選敗退の憂き目を見るのがW杯の難しさ、厳しさ。より上のベスト4を目指さすことで予選突破(ベスト16)が果たせるなどという、単純なものではない。
指揮官が明確でしっかりした戦略を持ってチームを育成しない限り先はない。
私はサッカーというスポーツをこよなく愛している。何度裏切られようと、(世界の一流のサッカーとは)別の次元で日本のサッカーも愛している。だから不安でならないのだ。今のままではちょっと組合せが厳しかったら、またも1勝すらできないという結果が待っているようで。

案の定、今日のオランダ戦は番狂わせの気配すら感じられず、完敗。オランダはこの前のイングランドとの親善試合の前半に比すると、特に前半は全く別チームというくらい調子が悪かった。ほんとにFIFAランク3位か?と思えるほど。
ところが後半、日本がプレスをほとんどかけられなくなり、中盤が間延びし、スペースを与え始めた途端、攻撃練習しているかの如く軽々と突破されオランダに得点されてしまった。それにしてもこのところ日本は後半20分過ぎるとガクッと運動量が落ちるなあ。それに対して監督は無策だし。これではオランダの胸を借りている意味がないじゃないか。トラップやパスの精度など、細かいプレーには触れる気も起こらない。

それと北京であれだけ大口叩いておきながら何もできなかった本田圭佑。今期オランダでは開幕5試合で5得点と絶好調らしい。実力もアップしたのだろう。それは否定しない。しかし、日本代表チームで世界と戦う際にはもっともっと大きなものを求められるということがまだわかっていないようだ。精神面での成長が足りないように見える。岡田監督だから使ってもらえるかもしれないが、下手するとチームを乱すだけで終わる可能性もある。以前の中田ヒデや現在の俊輔のような実績も苦労もなく、まだレギュラーにもなっていないのだから、自覚してほしいものだ。
ああ、こんなこと書きなぐっていると虚しくなる。
もう1年ないのだ、本番まで。早く攻撃と守備の形をきっちりつくってほしい。
始まったら寝ないで応援するに決まっているのだから。

午前中「外市」に行った。そのことはまた改めて。

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「第2回みちくさ市」エピソード3

古本市に参加するようになり、多くの人と出会うようになった。積極的に外出はせず、自宅で本を読んだり音楽を聴いて過ごすことが多く、どちらかといえば人付き合いの苦手な私にとっては大きな変化だ。例え二言三言であっても、言葉を交わせることが大きな意味合いを持ち、刺激にもなる。ブログでのみ知っていた人を直に感じられることで、違ったものが見えてくる。会うのが楽しみと思える人が増えていく。

<わめぞ>のリーダー、古書現世・向井さん。午前中からテント張り、パラソル立て、自分たちの棚の準備、思わぬアクシデントへの対処などで会った時には「大丈夫だろうか…」と思えるほどの体調。既に熱中症一歩手前。それでも出店者を気遣い、飲み物の差し入れ、声がけと動き回る。喫茶店で水を補給しながら休んでいる後ろ姿を目にした時には胸が痛んだ。「無理しないでくださいね」と言葉をかけるしかなかったのだが。
「参加してくださる皆様あってのイベントなんです」といつも口にしている向井さんの姿勢、行動には打たれる。

豆子さんともご挨拶。その強い眼差しは変わらない。病み上がりなので「大丈夫ですか?」と訊くと、「みんなからはそうは見えないって言われるんですよ(笑)」と冗談交じりの答え。本部にはテントが張られていたが、照り返しも強いし、背中からは陽射しも差し込んでいたので気になったが、淡々と役割をこなされていた。勝手な推測だが、茨の道を歩んだことのある人の強さのようなものを感じる。

BIG BOXでの古書市では強烈な洗礼を受けた立石書店・岡島さん。笑顔を見ると何故かほっとする。

これまでは、一人で参加している出店者の代わりに店番をしている姿を多く見かけた退屈男さん。今回は商店街を頻繁に行き来していた。アイスクリームの差し入れもしていただく。当店に来た際文庫本セットを手にとられたので、巻末の出版案内の何ヶ所かに印がついていることを説明しかけると、「読めればいいので」と言って快く購入いただく。

自転車の似合う往来座・瀬戸さんは小麦色に焼けた肌が眩しい。瀬戸さん手作りの照る照る坊主ならぬ「ハーリー」、今回は威力を発揮し過ぎ(笑)。古楽房のうすださんのさり気ない気配りにはいつも感心。

「旅猫雑貨店」金子さんがみちくさ市の撮影で廻られて来たのに、折り悪く他の方と話している最中だったためにお待たせしてしまい、恐縮。みちくさ市の全容が伝わる素敵なスナップを毎回撮ってくれる金子さん。今回はあの暑さの中、いっそうたいへんだったと思う。いつものように当日のフォトアルバムをアップしてくれています。是非ご覧下さい。(→こちら)

終了間際、武藤(良子)さんにお会いできたものの、既にブルーシートにくるまり、お休みになられるところでお話しできず残念。このところ話す機会がなく、寂しい限り。

Pippoさんが初めてお客さんとして来てくれ嬉しい。私のブログの書き方が拙いばかりに、ビュトールの本を今回出品するような印象を与えてしまい恐縮。それでも、近藤富枝『田端文士村』を購入いただく。
ゲーテの話ほか、店主とみきちも交え大盛り上がり。時にお腹をかかえて笑ってしまう。<わめぞ>仲間の普段は聞けないエピソードを披露してもらう。Pippoさんの人の受けとめ方に妙に納得しながら、独特な感性を持っている繊細な人だなあと改めて思った。

外市の際初めてお話しさせていただいた「嫌記箱」の塩山さんのところへ伺うもご不在。残念。

仕事帰りの「ふぉっくす舎」NEGIさんがスーツ姿でご来店。NEGIさんがスタッフとして参加できないと<わめぞ>にとって痛手ではないかと思える。「一箱古本市」を含め4回連続で本を購入いただく。目の肥えた方だけに嬉しい。そのNEGIさんが、ブログで自身の紹介をされている。すごい経歴だ。

プレ開催の時同じ場所で出店した「晩鮭亭」さんと久しぶりにお会いできた。ブッツァーティ『神を見た犬』(光文社古典新訳文庫)を手にとられたので、「荒川(洋治)さんが推薦していますよね」と言うと、「堀江(敏幸)さんの『河岸忘日抄』にブッツァーティが出てきますよね」と、晩鮭亭さん。確かに、ブッツァーティの『K』(邦題は『コロンブレ』)という作品が重要な役割を担っている。Kとは世界中の船乗りが恐れる巨大な鮫のことで、そのKの存在が作品(『河岸忘日抄』)を通して影を投げかけ、主人公はその影を追うかのように思考を巡らせている。
ちなみに、荒川洋治はブッツァーティ『神を見た犬』を以下のように評している。

イタリア幻想文学の作家の短編集。表現は簡潔。余韻はふかい。たくさんのことばをつかって、自分を楽しむ作家は多いが、この人はそうではない。人生に期待してはならない。希望ももってはならない。内容的にはそんなことを書いているのだが、文学としてたしかなので、読んだ人は星空をあおぐ気分になり、人生の希望をもつ。 -『論座』2008年1月号所収記事より-

「北方人」さんと「寝床や」さんが同じ場所に出店していたので何回かお邪魔する。5月にお孫さんが誕生された北方人さんはお元気そうでなにより。柄谷行人『言葉と悲劇』(講談社学術文庫)、岡村秋彦『南ヴェトナム戦争従軍記〔全〕』(ちくま文庫)ほか4冊、持って帰るのも重いからと、すべて1冊100円で譲っていただき、当店からは残っていた谷内六郎新潮文庫6冊セットを購入していただく。逆にお持ち帰りの本が増えてしまったみたいで、すみません。
寝床やさんは今回強力な助っ人登場でお店の趣がいつもより華やかな感じ(笑)。超がつくほど腰が低く、丁寧な言葉遣いに温かい人柄が滲み出ている。ブログでは苦戦を強いられた様子を書かれているが、苦戦は当店も同じ。これからも励まし合って頑張っていきましょう(笑)。五味康祐『ベートーヴェンと蓄音機』を安価で譲っていただく。春の一箱で1冊出品してしまったのだが、これでまた手元に3冊となり、嬉しい。

古本市の顔と言っても過言ではない書肆紅屋さん。そのブログから発信される情報の多様さと奥の深さにはいつも圧倒されてしまう。本だけではなく出版、流通のことにも詳しいので何かと参考にさせていただいている。
当店にもお越しいただき、半藤一利『それからの海舟』を購入いただく。今回私どもは新書をまとめて40冊出品。売れ行きの話になり、半分もいきそうにない実情を伝えると、「あれだけのラインナップでも厳しいのだから、新書は難しいですね」と紅屋さん。結構考えて品揃えしたつもりだったので、そのことをきちんと見てもらえたのは救いであり、嬉しいことだった。紅屋さんからは、最後のタイムセールということで、山田風太郎『風眼抄』(中公文庫)ほか3冊を1冊100円で買わせてもらった。
今回は皆さんけっこう苦戦されていたように思える中、紅屋さんはきっちり100冊超売ってしまうのだからさすが!と言うほかない。

当店の向かいで出店されていた「ゆず書房」さんからは、閉店間際7冊も買わせていただく。こちらもタイムセールで、すべて1冊100円。巖谷大四『懐かしき文士たち 昭和篇』(文春文庫)、色川武大『狂人日記』(福武文庫)、石井宏『素顔のモーツァルト』(中公文庫)など。「ほんとうに100円でよろしいのですか?」と思わず尋ねてしまうくらい、申し訳ない気持ちになる。同時に、最後までこの手の本が、100円という信じられない値段なのに残っていることが寂しく感じられてならなかった。

いつも素敵な「たけうま書房」さんご夫妻がご来店。今回はご主人に織田作之助の単行本を購入いただく。

春の一箱の際同じ会場で参加されていた「どすこいフェスティバル」のKさんにお越しいただく。私どものブログを読んでいただいているみたいで、「いいですねえ」と言っていただき赤面。この方の読書量は半端ではない。それだけに、箱をご覧いただく時は緊張。お見えになったのが遅めだったので<もう少し早く来ていただけたら、何とか恰好のつく品揃えだったのになあ>などと思いながら。
山本善行『古本泣き笑い日記』、塚本邦雄『けさひらく言葉』、長田弘『私の二十世紀書店』と、3冊もご購入いただいた。お連れの方にも1冊。
店主とみきちはお茶でもご一緒できるのではないかと楽しみにしていたのだが、慌ただしくなる時間帯に突入していたために泣く泣く断念。
これからもとみきち屋をよろしくお願いします。

第1回みちくさ市で言葉を交わすようになった「古本、雰囲気。」さんとも楽しくお話させていただいた。「数年前に比べ、本を揃え、目の肥えた方に買っていただくのはは難しくなった気がする」とのこと。お客様の財布の紐も固くなっているだろうから、余計にそうなんだろうなと納得。立川昭二『江戸人の生と死』、村田喜代子『名文を書かない文章講座』の2冊を購入いただく。いつもありがとうございます!

春の「一箱古本市」で新潮社『yom yom賞』を受賞された「あり小屋」さんがご家族でお見えになるも、不在中で会えず。残念でならない。お嬢さん、また大きくなられただろうなあ。上林暁2冊セットを「こんなに安くは手に入れられませんよね」とご購入いただいたみたいだ。
昨秋の一箱古本市以来の顔見知りであるだけでなく、みちくさ市プレ開催時はお隣同士。いまひとつ人気のない海外小説を(お互い)めげずに出品し続けていることもあり、戦友という感じがしてしならない。

養老孟司・内田樹『逆立ち日本論』ほか3冊購入いただき、店主とみきちのブログにコメントを頂戴した駄々猫さん。驚異的なペースで本を読まれ、古本市参加を目指していらっしゃるとのこと。どこかでご一緒させていただくのを楽しみにしています。

今回ご紹介させていただくことのできなかった方々を含め、当店よりお買い上げいただいたすべてのお客さま、ほんとうにありがとうございました。またのお越しを心よりお待ちしております。

この1週間あまり調子を崩してしまい、エピソード3を予告しながらこんなに遅くなってしまいました。今さらという感は拭えませんが、書き留めて置くことで謝意を表わすことができるのではないかと思い、アップしました。

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「第2回みちくさ市」エピソード2 おじいちゃままで魅了する村上春樹?

今回は一般のお客様の話を中心に。

■ 斉藤政喜・内澤旬子『東方見便録』(文春文庫)

最初にお買い上げいただいた本。イラストを描いているのは、『世界屠畜紀行』(解放出版社)で一躍脚光を浴びた、内澤旬子さん。内澤さんは、一箱古本市の創始者でもある南陀楼綾繁(ナンダロウアヤシゲ)さんの奥様。この本、前回単行本で出品した際には残ってしまったのに、今回は開店と同時に売れた。やはり文庫本の威力か?

■ 星野徹『詩とは何か-試論の歴史』(思潮社)
■ 鈴木晶『フロイト以後』(講談社現代新書)
■ 高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書)ほか計5冊

古本市ではとみに有名で、当店最強のお馴染みさんとなっていただいたHさんが汗びっしょりでご来店。すでにビニール袋いっぱいの本を手にしていらっしゃる。ご挨拶後はいつものように集中して本を選んでいただく。お気に召したものがあるだろうかと緊張。こちらの緊張をよそに、は、はやい!複数の箱からぱっぱっと抜き取られ、重ねていかれる。均一料金でない箱の本は値段も確認されずに。<とみきち屋>なら「みちくさ市」で、この本はこれくらい(の値段)と見当をつけていらっしゃるのだろうか…。であるなら、嬉しい限り。あっと言う間に5冊購入いただく。
会計時、「5万円札でお釣りありますか?」と千円札を2枚出されたので、「お釣りはチップとして頂戴してよろしいですか?」とお答えする(笑)。素敵な方だ。
「何でしたら、廻って来られる間お荷物お預かりしておきますが」と声をかけるものの、「いやあ…今日は戻って来れないかもしれないので…。すみません」とHさん。「すみません」とお客様に言わせてしまう<とみきち屋>とはどんな店? 検問所か(笑)
見え透いた作戦失敗。2回目にご来店いただいた時にはいつも追加で買ってくださるのだが、見破られたか(笑)。「暑いのでお気をつけて」とお見送りする。

■ ガルシア・マルケス『悪い時 他9篇』(新潮社)700円
■ 楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(ウェッジ文庫)350円
■ 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)150円

前回のみちくさ市で『レヴィナス・コレクション』(ちくま学芸文庫)、吉田健一『シェイクスピア』(新潮文庫)、ルソーの本他4冊ご購入いただいた若い男性にお越しいただく。 この方とは読書傾向が似ていると思えるので、どんな本に興味を示されるのか気になって仕方がない。まずガルシア・マルケスを手にとられる。
<う~~ん、ツボだ>
迷っているようにも見えたのでハラハラ。
<あなたのための本ですよ>などと、おかしな事をひとりごちる。
「安いですね。この値段ではなかなか手に入れられませんよね」と言っていただき、安堵。
結局3冊購入いただく。お会いできるのが楽しみなお客様がまた一人増えて、嬉しい。

■ 鶴見俊輔『テレビのある風景』(マドラ出版)600円

知的な雰囲気の年輩男性。その手には20ページ以上あると思われる探求本リストが。1ページに50タイトルは載っている。書籍JANコードを読み込むソフトを利用され、バーコードのない古い本は手入力で作成されていると伺う。この方のすごいのは、今回持って来られたリストは「マスコミ分野」のみというところ。私が普段持ち歩いているリストなどA4ペラ1枚。しかも複数巻セットのどの巻が欠けているかを確認する際に目を通す程度。

■ 山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社文庫)『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)
■ 紅野謙介『書物の近代』(ちくま学芸文庫)

体格のいい早稲田大学仏文科の学生さんが購入。フランス文学という専門性に囚われず、この手の本を読もうとしている青年に出会えるのは嬉しい。来店時手にしていたビニール袋が既にパンパンに膨らんでいて、本の角が折れているように見えたので、大きめの紙袋を提供。許可を得て、本が縦にならず、角が折れないように入れ替えさせてもらう。その際購入済みの本のタイトルがちらっと見えたのだが、ジャンルも広範囲にわたっていた。本好きなんだなあと感心。とても丁寧な言葉遣いにも好感が持てました。

■ 高橋和巳『邪宗門 上・下』(朝日文庫)1,200円

中年男性の方がすっとやって来られて、ぱっと手にとり、そのまま差し出された。「これもらうよ」と言わんばかりの狙い打ち。会話はなし。でも、すかっとした。
現在品切れで入手しにくい(特に下巻)とはいえ、今時高橋和巳の作品を手にとってもらえるか、正直自信はなかったが一度試してみたかった。それが許されるのも古本市のいいところ。誰に制約されるわけでもないから、気になる本を出品しお客様の反応をじかに確かめられる。思い入れが強すぎると残った時のダメージも大きいが(笑)。

■ 高橋たか子『没落風景』(新潮文庫)ほか3冊

私ども<とみきち屋>は「一箱古本市」に2回、「みちくさ市」にはプレ開催含め今回で3回、計5回目の古本市参加となるが、そのうち4回お越しいだくたくことになったお客様がご購入。その都度買っていただいているので、ありがたいことです。
山川方夫『愛のごとく』『海岸公園』(新潮文庫)を目に留めると、いつもの笑顔でじっと見ていらっしゃる。「3週間ほど前に1冊手に入れたんですよね~」。う~ん、困った。この2冊<とみきち屋>強引セットとしてブログでお知らせした商品。時間からしてバラ売りするには早すぎる。かといって当店にとって、すでに大事な常連さんとも言える。どうしたものかと悩んでいたら、「ああ、気にしないで。これは2冊セットの方がいいですよ。誰か欲しい方がいるだろうから」と言っていただく。
その後いったん他の店を廻られ戻って来られたのだが、不思議なことに丁度別の方にこの2冊セットお買い上げいただく時だった。少し離れたたところから「売れましたね~」とにっこり微笑んでくださる。その上、北原武夫の本を追加購入していただく。何だが胸が熱くなった。またお会いしたい。

■ 加藤典洋『村上春樹イエローページ1・2』(幻冬舎文庫)400円→200円
■ 『鼠の心 村上春樹の研究読本』(北栄社) 300円→100円

閉店間際、地元の方かなあと思われるおじいちゃまがご来店。「なかなか村上春樹の本見つけられないんだよな~。これ2冊で200円?」と、村上春樹イエローページ1・2』を手にされて訊かれる。(1冊200円で出品していた)
<この「みちくさ市」でもどこかで売っていたと思うけれど、こんな時間だからもう無かったのかな。これは村上春樹自身の本ではないんだけどな。どうしようか…>と一瞬考え、
「1冊200円ですが2冊200円でけっこうです。でも、この本は村上春樹について書かれた本ですがかまいませんか?」とお尋ねすると、
「200円でいいのかい。助かるなあ。言ってみるもんだね」
せっかくだからと思って『鼠の心 村上春樹の研究読本』もご紹介。ぱらぱらと中身をご覧になり、お気に召したご様子。
「100円でいかがですか?」
「じゃあ、もらおうかな」と満面の笑み。
「いつもやっているの?」
「約2ヶ月に1回の割合で開催予定です」
「そうなんだ。いいねえ、こういうの」

おじいちゃままで魅了するなんて、今や村上春樹は国民的作家?

と言いながら私は未読。馴染みの古書店なら半年も経てば店頭に出て来るのだから慌てる必要は全くない。(既に1セット買い取り、店に出したら3時間で売れたらしい) すぐに読みたいと思える作家ではないし、とりあえず読んだら売ってしまうのは目に見えている。我が家には『ノルウェイの森』を最後に村上春樹の単行本は一冊もない。ブックオフあたりで105円になった頃文庫で買い直すことはあっても結局再読せずにそのまま埃をかぶってしまっている。作品によっては文庫になってから初めて読むこともある。ストーリーテラーとして圧倒的な力量を持つ世界的な作家であることと、作品が、その言葉が自分の心の奥深くまで届いてくるかどうかは別。村上春樹ファンには怒られそうだ(笑)。いけない。村上春樹の話をする場ではないのに脱線してしまった。

相変わらず当店は女性のお客様が少ない(泣)。今回も購入いただけたのはわずか10人。そのうち顔見知りの方が4人。少なすぎると、愕然。でも、それだけに、お買い上げいただいた方々には感謝、感謝です。
参考にはならないかと思いますが、著者名で言うと、武田百合子、米原万里、村田喜代子、寺山修司、内田樹、立川談志、鹿島茂、高橋竹山など。私自身意外だったのは、お隣に出店された「スプーン文庫」さんのお知り合いの方(?)に購入いただいた、永野潤『図解雑学 サルトル』(ナツメ社)。哲学関連の本を女性のお客様に買っていただくことなどめったにないので印象に残っています。

今回<とみきち屋>の売上げ冊数は76冊。
<古本 寝床や>さんの表現を使わせていただくと、打率4割2分。厳しい~(汗)。持ち込んだ本も多過ぎたようだ。新書は40冊用意して売れたのは18冊。やはり新書は難しい。

ちなみに5月の「一箱古本市」は85冊の売上げで、冊数では9冊しか違わないのに、打率は7割8分。1冊単価では180円も高かった。
今回のラインアップは魅力を欠いたのか…。もっと考えなければ。

次回(最終回)は、<わめぞ>の方々や出店者、顔見知りの方々とのエピソード。

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「第2回みちくさ市」エピソード1 黒岩比佐子さん、岡崎武志さん、はにかみ高校生

当日は予報に反し、陽射しが強く照りつける快晴。長く外にいると熱中症にはならないまでも、ぼうっとなってしまいそうな暑さの中、足をお運びくださった多くのお客さま、ありがとうございました。また炎天下運営面で動き回り、いろいろ心を砕いていただいた<わめぞ>のスタッフの方々、そして参加された店主の方々、お疲れさまでした。

「とみきち屋」恒例となった、古本市参加後のエピソード集、始めます。

黒岩比佐子さん
5月の「一箱古本市」で運に恵まれ「黒岩比佐子賞」を頂戴したのだが、そのプレゼンター・黒岩さんご本人にお越しいただく。みちくさ市に向けて書いた私どものブログをお読みになっていたとのことで、店主とみきちと私の間のバトル(笑)をご心配いただき恐縮。いろいろと和やかにお話しさせていただき、楽しいひと時でした。
増殖していく本を保管していくことの苦労(黒岩さんの仕事柄、私などの比ではないはず)を聞かせていただく。
貴重、稀少、素敵な本をどれだけお持ちなのか知る由もないが、「蔵書の6割も読み通してはいない」という言葉から、おぼろ気ではあれ蔵書の凄さが想像される。読み通さないまでも、実際取り組んでいらっしゃる、或いは今後考えていらっしゃるテーマに関する物はさっと目を通し、付箋を貼って後に使えるようにされている本も多いとのこと。
「現在の蔵書の中から読みたい物をこれから読み続けていっても、一生の間に読み終えることは無理」という話題では、物書きではない素人の私にも通ずるところがあって、盛り上がった。

最近、黒岩さんはブログ『古書の森日記 by HISAKO』(http://blog.livedoor.jp/hisako9618/)の中で、フリーランスの厳しさや在り方について真摯に語っていらっしゃる。

 私は常々、ライターという仕事は職人だと思っている。コツコツと手仕事でものをつくり、自分が魂を注いで創ったものに誇りが持てれば、それが安かろうと高かろうと、金銭に結びつくかどうかは二の次なのだ。これしか払えない、と言われて安い料金で仕事を頼まれたからといって、手を抜いて粗雑な仕事はできない。自分でもちょっと変だとは思いつつ、同じ10枚の原稿を400字1枚当たり3000円で頼まれた場合と、1枚1万円で頼まれた場合で、かかる時間と労力は変わらないのだ。3週間かけて原稿を書き上げて、受け取るのは3万円だったり10万円だったりする。やはり不思議だ(笑)。
でも、フリーのライターは、そうやって必死で生きている人ばかり。とりあえず、筆一本でこうして生きていられるだけでも、幸運なのだろう。フリーランスの物書きになって、今年で24年目になる。 〔7月23日付「ちょっと脱線して」より〕

黒岩さんのライターとしての誠実さ、矜持がひしと伝わってくる。柔らかな物腰、穏やかな話しぶりの奧に、強く、揺るがぬ「芯」を持っていらっしゃるのを実感。
黒岩さんには、角川財団学芸賞受賞『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)、最新作『明治のお嬢様』(角川選書)、5月に文庫化された『音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治』(角川ソフィア文庫)、サントリー学芸賞受賞『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店)ほか、緻密で丹念な取材のもと練り上げられた上質な作品が多い。作品を書き上げる際、妥協しない、ある意味(もちろんいい意味で)頑固な人であることも伺われる。

個人的には、自分の興味の対象と重なっているということもあるが『編集者 国木田独歩の時代』、『日露戦争 勝利の後の誤算』(文春新書)、むのたけじ・黒岩比佐子聞き手『戦争絶滅へ、人間復活へ―九三歳・ジャーナリストの発言』(岩波新書)がとりわけ好きだ。
岩波新書では、広範な知識に驚くばかりか、むのたけじ氏から深い言葉を引き出す聞き手としての卓越した才能にも目を惹かれる。
黒岩さんには、竹内洋『日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論社)をご購入いただく。というより、無理矢理押しつけてしまった感じ(笑)。

岡崎武志さん、はにかみ高校生
昨年11月「みちくさ市」プレ開催の際、その出会いがあまりにも衝撃的で、その様子をブログでとりあげ、思わず「はにかみ高校生」などとご本人の許可も得ずに私が命名してしまった。その彼がこんなに有名になるとは思ってもいなかった。何といっても、高名な岡崎武志さんがブログ『okatakeの日記』(http://d.hatena.ne.jp/okatake/)で、前回(第1回)に続いて今回も彼に触れたことが大きい。あの岡崎さんを魅了し、岡崎さんご本人に「はにかみ高校生」登場のお触れを出させるくらいだから、恐るべき高校生。今回は出店者の多くが熱い視線を送っていた。出店者およびその関係者の多くが彼のことを話題にしていた。

岡崎さんから「ハニカミくんが来たよ。今線路を渡ってそちらに向かっている」と聞いた時から胸が高鳴る。前回は店を離れている時に来たので会えなかったからいっそう。「うちに寄ってくれるだろうか。本を手にとってくれるだろうか」と気が気でない。その優雅なたたずまいは変わることなく、鬼子母神商店街がプリンス・ロードと化していた。
古本好きの男性が本を探すとき、足を開いてしゃがみこみ、食い入るように目を走らせ本を手にする(私のような)おっさん風か、ちょっと離れてじっと目を凝らし品定めするというのが多い。しかし、彼は全く違う。しゃがむ時も足を前後にし、一冊一冊を慈しむように手にとって、静かに頁をめくり、戻す時は丁寧に同じ場所に戻す。他のお客さんが軒先を占めていると、じっと横で待っていて割り込んでは来ない。本好きでなくとも、彼の立ち居振る舞いに接したら、決して忘れられないであろう。

当店では、杉森久英『苦悩の旗手太宰治』(河出文庫)を購入。太宰にも興味を持っていると知ることができ嬉しくなる。それにしても、26年も前に発行され、経年変化で黄ばんだ文庫を狙ったように手にして、2分ほど読んでから差し出すのだから参ってしまう。彼が読んでいる間、例によってこちらの心臓ばくばく。2分が1時間近くにも感じられた(笑)。
これで3回続けて購入してもらったが、どこまで続くだろうか。記録を伸ばしたいものだ。
「こんにちは。いつもありがとうございます」と最初に挨拶した以外、敢えて声をかけなかったので、話はできず。それでも大満足。「はにかみ高校生」命名者として、そして一人のファンとして、これからも温かく見守っていきたいものだ。
岡崎さんのブログで、彼の好きな作家が安岡章太郎と知り、直前になって講談社文芸文庫の2冊を引っ込めてしまったことが悔やまれる。でもまあ、彼なら既に持っている可能性大だな。

5月の「不忍ブックストリート 一箱古本市」で、足立巻一『虹滅記』(朝日文芸文庫)をお買い上げいただいたお客様が来られたので、御礼を述べる。
「今日は少ないですねえ」と言われてしまう。「一箱古本市」に比べ、「みちくさ市」は展示スペースが広いので出品本の数ははるかに多い。つまり、いい本が少ないですねという意味。
手を抜いたわけではないのだが、『虹滅記』などを買われるお客様からしたら、物足りないと感じられるのは無理はないかも。

古本市に参加する回数が増えてくると、自分の読みたい本最優先に加え、普段古本好きな方が足を運ぶ古書店をそれほど回ってはいない私には、厳しいものがある。確かに今回、秋の一箱を意識して出品しなかった本も多かった。「みちくさ市」に比べると「一箱古本市」の方が、まだ今のところコアなお客様が多いように感じられるからだ。それだけではなく、前回とできるだけ違ったラインアップをと意識すると無理が生じるのかもしれぬ。感触としてつかんでいたつもりなのに、今回また他店とかぶってしまう本が多かったような気もする。

まだまだ勉強不足、難しいなあと痛感。しかし、それだけ奥深く、楽しみも多い。問題は自分の知識、情報量、それに蔵書の数と質、時間的な余裕が追いついていけるかだ。精進、精進(汗)。

で、厳しい感想をいただいたお客様には、下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)を購入いただく。先般(6月に)書いた記事「中公新書の魅力《中公新書の森 2000点のヴィリジアン》」の中で、私個人の中公新書ベスト10の中には入れなかったが、ベスト20なら入れていた本なので、何故かほっとする。
帰り際、「秋はさらに頑張ります!」と伝えたら、「楽しみにしていますよ!」と言っていただく。うわあ、プレッシャーだ~(笑)。また、この方の素敵な笑顔が見たい。

【追記】お客様から早速ご丁寧なコメントをいただきました。本文中、購入いただいた本のタイトルを誤って記してしまい、ご指摘いただいたので訂正いたしました。恐縮です。本の質には特にご不満はなかったご様子を伺え、ほっといたしました。

いつもの如く、ゆっくり続きを書いていきます。1週間かかるか、何回にわたるかは本人にもわかりません(笑)。

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明日は「鬼子母神通り みちくさ市」!!

「鬼子母神通り みちくさ市」が開催される明日25日(土)は曇りの予報。雨さえ降らなければ照りつける熱い日差しもなく、古本探しにはいい日和になりそうです。
今回は本を送らず持参することにしたので、いまだにうんうん唸りながら準備に追われています。いつもながら往生際の悪いこと(笑)。

困るのは妄想。古本市に参加するようになってから年中頭の中をいろいろなテーマが浮かんでは消え。これはいけそうだとほぼ固まっているものもあるのだが、どのタイミングで出そうかとなると悩んでしまう。
例えばこんなもの。「笠井潔・竹田青嗣・小浜逸郎トリオ」。これに小阪修平を加えたクインテット。原口統三・樺美智子・岸上大作・奧浩平・大宅歩などを中心とした「遺稿集」。「戦争」或いは「戦記」、「右も左も」、「アウトロー」、「ザ・三島」、「放哉と山頭火」、「近代詩集」、「仏教」。バタイユ・ジュネ・セリーヌ・ビュトールあたりにダレルやミラーをからませて何かテーマをつくれないか。精神病(現・統合失調症)やうつ病などを扱った「心の病」。できれば「哲学」も。こうなると妄想に近い。「みちくさ市」「一箱古本市」など、今秋のことを考えたとて、参加できると決まっているわけはではない。人生何が起こるかわからないのだし。
なのに、これはあのテーマに残して置こうとか、これは「一箱」の方がよさそうだと考えては、出したり引っ込めたりしている。

さて、出品本の一部ご紹介「その2」です。
とみきち屋恒例となりつつある強引セット。今回もこりずに出します(笑)。

■ 深沢七郎<滅亡>3冊セット
・『人間滅亡的人生案内』(河出書房新社)
・『人類滅亡の唄』(新潮文庫)
・『深沢七郎の滅亡対談』(ちくま文庫)
■ 上林暁セット
・『随筆集 幸徳秋水の甥』(新潮社)
・『聖ヨハネ病院にて』(新潮文庫 復刊版)
■ 山川方夫 絶版 新潮文庫2冊セット
・『愛のごとく』 ・『海岸公園』

その他
・ 大岡信 『抒情の批判』(晶文社 昭和36年発行・初版) ※函イタミ有り
・ 石原吉郎 『望郷と海』(筑摩書房)

・ 加藤典洋 『アメリカの影-戦後再見』(講談社学術文庫)
・ 室生犀星 『かげろうの日記遺文』(講談社文芸文庫) ほか100冊以上出品

300円均一、200円均一箱設けます。また、17時以降順次(一部の本を除き)タイムセールを実施いたします。
人の顔を憶えるのが得意ではないので、気付かないことの方が多いと思いますので、当店<とみきち屋>で購入されたことのある方は、是非声をおかけください。お客様といろいろお話しできるのを何よりの楽しみにしております。もちろん、初めての方もどうか遠慮無く話しかけてください。
皆様のお越しを心からお待ちしております。

<とみきち屋>はキク薬局さんのガレージ内に出店いたします。
http://kmstreet.exblog.jp/i5/

"商店街が、一日だけの古本街!"
第2回 鬼子母神通り みちくさ市
昨年11月30日にプレ開催としてスタートした商店街での古本フリマ「みちくさ市」の第2回を7月25日に開催します。
2008年6月、東京に新地下鉄・副都心線が開通し、雑司が谷駅が誕生しました。ちょうどその駅の真上には、ひとつの商店街があります。鬼子母神通り商店睦会。安産・子育の祈願で知られる鬼子母神堂付近から"ちんちん電車"都電荒川線の「鬼子母神前」停留所を抜け目白通りに至る商店街です。  
この地の利をいかした、地元に根付くイベントを開催できないかと、「鬼子母神通り商店睦会」と、早稲田・目白・雑司ヶ谷にて本に関する仕事をしている人間のグループ「わめぞ」が組んで、一般参加型の古本をメインとしたフリーマーケットを開催することになりました。商店街の店先で一般参加者が古本や雑貨などを販売し、わめぞによるミニ古本市も商店街内数か所で開催します。鬼子母神通りが一日限定の古本街になります。
▼開催日
2009年7月25日(土) 13:00頃~18:00(今回は午後からの開催となります)
雨天の場合、翌日26日に順延(この日が雨の場合は中止)
※当日19:00から、鬼子母神堂境内にて盆踊りが開催されます。こちらも併せてお楽しみください。
▼会場
雑司が谷・鬼子母神通り
東京都豊島区雑司が谷2丁目・鬼子母神通り周辺
Google地図 >> htt http://tinyurl.com/6xmc4y
主催/鬼子母神通り商店睦会  協賛/わめぞ  http://d.hatena.ne.jp/wamezo
-----------------------------------------------------
● 当日午前中の11:00に天候による開催の有無を決定します。
------------------------------------------------------
以下の方法で開催の有無を確認できます。  
・みちくさ市ブログ http://kmstreet.exblog.jp
・みちくさ市携帯サイト http://mblog.excite.co.jp/user/kmstreet
・わめぞブログ http://d.hatena.ne.jp/wamezo/
・みちくさ市本部携帯電話 090-1766-2008(当日のみ)
【メールでの問い合わせ(開催前のご質問などもどうぞ)】
wamezo.event●gmail.com(●をアットマークに変えて送信してください)

以上、わめぞブログからの転載です。

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戦争の傷跡 「鎮魂歌」「火垂るの墓」「ふたつの悲しみ」

5月末に「往来座 外市」で購入した『荒地詩集1956』(荒地出版社)を少しずつ読み進めている。田村隆一、鮎川信夫、黒田三郎、三好豊一郎、中桐雅夫ほか現代詩文庫で読んだことのある詩がある一方で、初めての詩もある。木原孝一の詩にはこれまで触れることはなかった。吉本隆明『戦後詩史論』の中にちらっと出てきた記憶がわずかに残っているぐらいで。今回「鎮魂歌」に出会い、心を揺さぶられた。棘が刺さったような感覚が消えない。

民間人(非戦闘員)であった弟を昭和20年5月の大空襲で喪う。その弟への、そして戦争で命を落としたすべての人々への鎮魂であり、生き残った者たちへのメッセージでもある。

「鎮魂歌」  木原孝一

  弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
  こちらからは 何も見えない

昭和三年 春
弟よ おまえの
二回目の誕生日に
キャッチボオルの硬球がそれて
おまえのやわらかい大脳にあたった
それはどこか未来のある一瞬からはね返ったのだ
泣き叫ぶおまえには
そのとき 何が起こったのかわからなかった

  一九二八年
  世界の中心からそれたボオルが
  ひとりの支那の将軍を暗殺した そのとき
  われわれには
  何が起こったのかわからなかった

昭和八年 春
弟よ おまえは
小学校の鉄の門を 一年遅れてくぐった
林檎がひとつと 梨がふたつで いくつ?
みいっつ
小山羊が七匹います 狼が三匹喰べました 何匹残る?
わからない わからない
おまえの傷ついた大脳には
ちいさな百舌が棲んでいたのだ

  一九三三年
  孤立せる東洋の最強国 国際連盟を脱退
  四十二対一 その算術ができなかった
  狂いはじめたのはわれわれではなかったか?

昭和十四年 春
弟よ おまえは
ちいさな模型飛行機をつくりあげた
晴れた空を 捲きゴムのコンドルンドルはよく飛んだ
おまえは その行方を追って
見知らぬ町から町へ 大脳のなかの百舌とともにさまよった
おまえは夜になって帰ってきたが
そのとき
おまえはおまえの帰るべき場所が
世界の何処にもないことを知ったのだ

  一九三九年
  無差別爆撃がはじまった
  宣言や条約とともに 家も人間も焼きつくされる
  われわれの帰るべき場所がどこにあったか?

昭和二十年
五月二十四日の夜が明けると
弟よ おまえは黒焦げの燃えがらだった
薪を積んで 残った骨をのせて 石油をかけて
弟よ わたしはおまえを焼いた
おまえの盲いた大脳には
味方も 敵も アメリカも アジアもなかったろう
立ちのぼるひとすじの煙りのなかの
おまえの もの問いたげなふたつの眼に
わたしは何を答えればいいのか?
おお
おまえは おまえの好きな場所へ帰るのだ
算術のいらない国へ帰るのだ

  一九五五年
  戦争が終わって 十年経った
  弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
  わたしには いま
  何処で 何が起こっているのか よくわからない

声高に戦争の悲惨さを唱えてはいないだけに、いっそう心に響いてくる。
「おまえの盲いた大脳には 味方も 敵も アメリカも アジアもなかったろう」。
不条理な死というものが確かにある、ということを突きつけられる。
「わたしには いま 何処で 何が起こっているのか よくわからない」。
わたしたちは、この地点から大きく前進できたのだろうか。戦争の本質というものをほんとうにわかっていると言い切れるのだろうか。そんな自問がふつふつとわき起こってくる。

肉親の死を通じて戦争の傷跡を描いた作品に、あまりにも有名な野坂昭如の『火垂るの墓』がある。アニメによる映画も幾度と無く放映されているので、知らない人の方がむしろ少ないのではないか。この作品の中でも、肉親を焼かねばならぬ状況が描かれている。栄養失調により衰弱死した妹を行季に入れ、兄が木炭で焼くという。

衰弱した妹・節子が、ままごとのように土くれの石ころを並べ、兄・清太にご飯、お茶、おからなどを振る舞う場面、(原作にはないがアニメで)節子が石ころをドロップだと思って舐める場面など、胸を抉られるような描写もある。とりわけ私の脳裏から離れないのは、原作の中で清太が次のように思うところだ。

横になって人形を抱き、うとうと寝入る節子をながめ、指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさせたろか、

中学生の清太にこんなことまで思わせ、そして「もはや飢はなく、渇きもない」という状態で死に追いやる戦争とは何なのだろうかと考えざるを得ない。

杉山龍丸『ふたつの悲しみ』も忘れられない。筆者が日本兵の復員の事務についていた際、ひとりの少女が父親の安否を確認しに来た時の話である。

「あたち、小学校二年生なの。おとうちゃんは、フイリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの」
 顔中に汗をしたたらせて、一いきにこれだけいうと、大きく肩で息をした。(略)
私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島のルソンのバギオで、戦死になっていた。
「あなたのお父さんは――」
といいかけて、私は少女の顔を見た。やせた、真黒な顔、伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。
 私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。
「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです」といって、声がつづかなくなった。瞬間少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、ベそをかきそうになった。涙が、眼一ぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。それを見ている内に、私の眼が、涙にあふれて、ほほをつたわりはじめた。
「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの」
 私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。
 少女は、不思議そうに、私の顔をみつめていたのに困った。やっと、書き終って、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。
 涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。肩に手をやって、何かいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。
 私は、声を呑んで、しばらくして、「おひとりで、帰れるの」と聞いた。
 少女は、私の顔をみつめて、
「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」
と、あらためてじぶんにいいきかせるように、こっくりと、わたしにうなずいてみせた。
 帰る途中で、私に話した。
「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」と、小さい手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。(略)

山田太一編『生きるかなしみ』(ちくま文庫)所収

「下くちびるを血がでるようにかみしめて」涙をこらえる少女。こんなことを強いる戦争とは何なのだろう。

若者の右傾化、北朝鮮の脅威などが様々なメディアで報じられている。日米安保、憲法改正の是非はこれからもわたしたちが直面していかねばならぬ問題である。それはいかにして「戦争」を回避していくかという問題でもある。わたしたち一人一人が考えねばならない。
日常に追われ、そんなことなど考える余裕すらない現実の中にあっても、思考停止してはならない、感覚を鈍麻させてはいけないと思う。

今回とりあげた3つの作品は、目をそむけたくなる惨状が直接描かれているわけではない。だからこそ、わたしたちの「想像力」が求められるのだ。
自らが戦争体験者となる時には、もう遅いのだから。

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中公新書の魅力  『中公新書の森 2000点のヴィリジアン』

新書には随分とお世話になった。お金のない学生時代には、古本屋に行けば新刊専門書1冊分の値段で何冊購入できたことか。金銭面だけではない。英文科に所属していたが興味の対象は哲学、思想、宗教、心理。もっと知りたい、自分なりに考えたいと思ったのが戦争や歴史的事件を通じての「日本」であったために、新書は大いに役立った。
とにかく概要をつかみたい。が、教科書的記述では物足りない。あまりに専門的ではついていけない。そういう要求に応えてくれるのも新書であった。

量的には岩波新書を一番多く手にしたが、深く心に刻まれ、もっと知りたい、拡げたいと思えたのは中公新書の方が多かった気がする。岩波新書、講談社現代新書が装いを新たにした前後から(昔に比べ)中身が薄くなった現在、充実度、水準の高さ、駄本の少なさでは他を大きく引き離しているのではないだろうか。
加えて著者の情熱、息吹が感じられ、参考文献(史料)の多さには目を見張る。思想的偏向、教条的言述も少ないように思われる。

通巻2000冊突破記念として無料配布された『中公新書の森 2000点のヴィリジアン』を読む。各界の識者を中心とした179名に、最も印象に残っている中公新書、人に推薦したい中公新書などを、1から3点挙げてもらい、その理由を答えてもらうアンケートの結果と、選ばれた3冊に関するコメントはとても興味深いものだった。
解答をもとに(私が)集計してみると人気ベスト20は以下となった。

アンケートによる上位20冊 ※書名の頭の数字は得票人数

15 ■会田雄次『アーロン収容所』   
11 ■石光真人編著『ある明治人の記録』 
10 ■宮崎市定『科挙』  
9  ■竹内洋『教養主義の没落』  
8  ■井上幸治『秩父事件』  
8  ■高橋正衛『二・二六事件 増補改版』 
6  ■山室信一『キメラ-満州国の肖像』 
6  ■北岡伸一『清沢洌 増補版』 
5  ■入江昭『日本の外交』 
5  ■佐藤卓己『言論統制』
5  ■高坂正尭『国際政治』
4  『アダム・スミス』 『時間と自己』 『照葉樹林文化』 『大君の使節』
   『胎児の世界』 『肉食の思想』 『発想法』 『町衆』 『理科系の作文技術』

好みの差があるにしても、この結果に大きく異存を唱える者はいないと思われる。『清沢洌 増補版』 『照葉樹林文化』 『大君の使節』 『肉食の思想』 『町衆』の5冊は未読であるが、きっと良質な本であろう。
コメントをいくつか拾ってみる。

石光真人編著『ある明治人の記録』 
明治政府に「朝敵」の汚名を着せられた会津藩の「流刑地」における辛苦、および初期士官学校の姿をつたえるものは、この本をおいてない。恐るべき明治人の、恐るべき回想。
関川夏央(作家)

井上幸治『秩父事件』
「戦後歴史学」の手法を存分に用いたこの著作は、社会経済史的な分析をベースにしながら人びとの内面にどこまで接近し、それを解明できるかに挑戦した著作のように思う。ここに描き出される農民たちの姿は、じつに感動的である。
成田龍一 (日本女子大学教授 日本近現代史)

佐藤卓己『言論統制』
大戦直前、国防国家実現へ策を弄した情報官・鈴木庫三。彼が増長した陰には言論出版人らの時局迎合本能が多分に働いていたー。メディアの論調が一斉に片方の極に傾く時、必ず思い出す、重たい、歴史の真実。
尾崎真理子(読売新聞記者)

上位20位には入っていないが、コメントの中で特に印象に残ったもののひとつ。

西丸四方『病める心の記録』
落着かない精神神経の状態の記録が生々しくて、とても切なかった。異常への憧れがある一方で、その不安からも逃れたいところに自分もあったから、読んでいて心に染みた。
赤瀬川原平(作家、画家)

最後に私のベスト10 (順不同)

■木村敏『時間と自己』
■石光真人編著『ある明治人の記録』
■高橋正衛『二・二六事件 増補改版』 
■児島襄『東京裁判(上)(下)』
■山室信一『キメラ-満州国の肖像』
■霜山徳爾『人間の詩と真実』 
■生松敬三・木田元『理性の運命』
■長田弘『私の二十世紀書店』
■目崎徳衛『出家遁世』
■三木成夫『胎児の世界』

初版4万部がすぐに品切れとなり、2万部冊増刷したとのことですが、まだ書店に残っているかはわかりません。できる限り早く入手されることをお勧めします。

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不忍ブックストリート「一箱古本市」 エピソード(1) お客さまと本

「とみきち屋」の出店場所は映画保存協会の軒先、小さな公園。場所がわかりづらいというお客様の声もありましたが、緑に囲まれ、滑り台で遊ぶこどもたちの楽しそうな声が絶えず、催しもあり。さらに大家さんである映画保存協会さんがテーブルを貸してくださったので、お客様もかがむ必要なく、ゆっくり見ることができる。そんな恵まれた場所でした。

1

当店の店構えは写真のとおり。メインの箱にやや小さめの箱を入れ、その上には歪んだせんべい缶をのせ、さらにその上に100円ショップで買ったかごをのせるという、見事な3段タワー!(笑)
きれいな紙で化粧をほどこすこともなく、本と本の区切りは段ボールをちぎっただけという部分もあり。「この缶がいいわね」とお褒めいただくこともございました。
写真は1番目が開店時、2番目が午後13:30頃、3番目が14:30時頃。最後はただ本が箱に入っているだけという感じになりました。

さて、とみきち屋恒例、お客様とのエピソード集、その1です。

■ 梅津時比古 『フェルメールの音』 (音楽之友社) 600円
開店5分後最初に来店されたお客様が購入。表紙にフェルメールの絵が使われ、装幀がきれいなのでビニール袋に入れ面陳。「詩のようにきらめく言葉の花束。クラシック音楽が身近に感じられ、心洗われます。」というPOPを貼っておいた。手にとられたので、「フェルメールとタイトルに入っていますが、美術の本ではないんです。クラシック音楽は聴かれますか?」と声をかける。
「あまり聴かないな」。「そうですか。文章が素敵なんです。もしよかったら、袋から出してみてください。」と続ける。パラパラと文章を読まれてから、「装幀も気に入ったからもらうよ」。
自分の愛読書を一番最初のお客様に引き取ってもらえ、いい一日を送れそうな予感。

■ 堺利彦『堺利彦伝』(中公文庫)300円 
■ クロード・アブリーヌ『人間最後の言葉』(ちくま文庫)500円
当店2番目のお客様、黒岩比佐子さんご購入。

■ イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』[吉田健一訳](ちくま文庫)650円
■ ナボコフ『青白い炎』(ちくま文庫)900円

3番目のお客様。すうっとこの2冊をとり笑顔。「お探しでしたか」と声をかけると、「ずっと探してたんだよ。福岡から来てよかった。ありがとう。」
前日も一箱を廻られているのか気になって尋ねたら本日上京とのこと。喜んでいただけてよかった!
今や仙台、名古屋、広島、福岡へと拡がっている一箱古本市。福岡から来られたと聞いて、その反響ではないのかなと思ったりする。

■ 足立巻一『虹滅記』(朝日文芸文庫)600円
■ 足立巻一『やちまた 上・下』(朝日文芸文庫)1,200円
ブログでも伝え、目玉商品のひとつだったものの、果たして足立巻一の作品を引き取っていただけるか、半信半疑だった。『やちまた』を松岡正剛が千夜千冊でどう取り上げているかに触れPOPも作ったのだが、結果的にはその必要もなかったようです。

『虹滅記』。「お二人のブログ読んでますよ」と声をかけられ驚く。でも知り合いではない。私の方は、あと10日で(ブログを始めてから)丁度半年になる程度なので実感が湧かない。
でも、ブログを見てお越しいただけたのは嬉しい。『やちまた』は持っていて、『虹滅記』をお探しだったとのこと。こうして喜んでいただけたのだから、ブログで前宣伝してよかったのだと思える。

『やちまた』はその後来られた別の男性が購入。この方は『虹滅記』と合わせ3冊所有されていたのだが、家の大整理をした際、『やちまた』の下巻のみ紛失してしまったらしい。下巻のみ売るというわけにはいかず恐縮していたら、「下巻はなかなか見つけられないし、高いしね」と快く上・下セットをお買い上げいただく。
この本の紹介はとても私の手に負えるものではありません。興味を持たれた方は松岡正剛の千夜千冊・遊蕩編 第1263夜をご覧ください。(→こちら) 

■ 徳川夢声『夢声戦争日記』(中公文庫・全7巻)1,700円

今回の出品本の中で、とりわけ思い入れの強い本。
少なくとも私が廻る古書店ではほとんど見かけない。かといって、目の玉の飛び出るような古書価がついているわけでもない。不思議な本です。
そのせいか、購入いただけるまで10数人の方が興味深げに、一番上に別置きしておいた第7巻を手にとり、パラパラと読まれていました。すべて男性です(笑)。
素人ゆえ、値付けにもかなり迷い、全く自信なし。
加えて7冊セットですから、同じ7冊でも、色々な本のまとめ買いとも違います。
で、どなたにご購入いただいたかというと・・・
何となんと、足立巻一『やちまた 上・下』を購入していただいた30代前半の男性!
一旦清算を終えられた後、手にとって見ていらっしゃるご様子が、<一押しすればもしかして・・・>という感じ。
<でも、上巻持っているのに、上下巻買っていただいたばかりだしなあ>と心の中では思いつつ、
「うちの今日の目玉なんです。今日はどうしてもこの本をどなたかに持ち帰っていただきたくて」と、(先方には)わけのわからないことを言ってしまう(笑)
するとニコっと笑って、
「じゃあ、いただきます」
<なんという素敵な笑顔>
「ありがとうございます!!!」と店主とみきちと共に小躍り。

2 ■ シュレーディンガー 『わが人生観』(ちくま学芸文庫)
■ ホフマンスタール 『チャンドス卿の手紙』(講談社文芸文庫)
■ ユリイカ 臨時増刊 『シュルレアリスム』(青土社)
■ 出口裕弘『太宰治 変身譚』(飛鳥新社)『坂口安吾 百歳の異端児』(新潮社)ほか 8冊 計3,000円
 
昨秋の一箱でハイデガー『ニーチェ』ほか5冊ほど購入いただいたのがこの方との出会い。とても印象に残っていたので、「みちくさ市」プレ開催の際にまたお越しいただいたので、「その節はありがとうございました」というような感じでお声をかけると、先方もこちらのことを覚えていらっしゃいました。バシュラール『夢想の詩学』(ちくま学芸文庫)を「これだよ、これ」と言ってお買い上げいただくとともに、2回来店いただき薄田泣菫ほか5冊ご購入。
その後、「月の湯古本市」に遊びに行った際、ばったりお会いする。ご挨拶させていただくと、冗談も飛びかい、「Hです」と名前をまで教えていただいた。
そして、偶然は続く。3日に下見を兼ね一箱を廻っていると、またもやばったりお会いする。ここぞとばかりに、
「こんにちは~。お世話になっております。明日もお見えになられるんですか?」
「来るよ」
「そうですか!うちは明日映画保存協会で出店します。是非是非お越しください。」
「そうなの。じゃあ朝一番に行こうか。」
「ありがとうございます。Hさんに買っていただけそうな本を、みちくさ市プレ開催以来ずっと考えていました(笑)。お見えになられるということなら、今夜熟考を重ねます。あっ、お持ち帰り用の袋も用意させていただきますね。」
「トラック一台用意しといて(笑)」
「おまかせください!」

そして4日当日、11時半過ぎ。Hさんの登場。すでに片手には本でパンパンに膨らんだ紙袋が。
「あれ~。一番にお越しいただけると思ってお待ちしておりましたのに。もうHさん好みの本はないかもしれませんよ~(笑)」
「じゃ、帰ろうかな~。」
「そんな~。ご覧になってください。」
Hさんが本を見始めたら、中途半端に声をかけないようにしている。本を探される時は真剣なまなざしなので、邪魔をしてはいけない。
早速、シュレーディンガー 『わが人生観』とホフマンスタール 『チャンドス卿の手紙』を手にとられる。最低2冊が目標だったので、その瞬間<ビンゴ!>。次にユリイカ 臨時増刊 『シュルレアリスム』。ひそかにガッツポーズ。これでもう今日は大満足。
その後、袋詰めにした同一作家の単行本と文庫本の2冊セットを指さされ、
「強引セットだね。」
「あれ~。やっぱりわかっちゃいましたか。お恥ずかしいことにコンセプトがありません。(汗)」
「でも、もっと強引なセットが他の店にあったよ(笑)」

荷物が邪魔で見づらそうなので、袋をお預かりする。

それから、蓮實重彦の文庫、出口裕弘の太宰と安吾本を手にとられる。
「太宰の方は品切れですが、安吾はそうでないので、かなり安く設定してあります。」
「そう。じゃあ、これもいっしょに。」
「ありがとうございます。」
しばし歓談。
Hさんの真剣なまなざしが和らぎ、「今日はこれで勘弁してください」
「ええっ!? Hさん、お約束どおりトラック用意してあるんですけど(笑)」

清算のため、箱の横側に廻られると
正面にはその存在を表示していなかった小さな200円、300円箱を発見される。
一瞥して満面の笑みをたたえられ、さっと2冊を引き出される。
「僕のために用意してくれたの?」
「いえいえ、たまたま今朝バッグの中に追加してきました(笑)。」
「○○○、僕のツボなんだよ。買わないわけにはいかないね」とおっしゃって、表紙の著者名を指さされた。
「そうでしたか。喜んでいただけて嬉しいです。」
結局合計8冊もお買い上げいただいた。
底が抜けないようにと、袋を二重にしてお渡しする。
その後、同じ会場の他店の一箱一箱を丹念にご覧になっているお姿が見えた。
○○○が誰かは、とみきち屋の企業秘密となりましたので、公表できません(笑)

これだけお買い上げいただき、かつ、こんなに楽しませていただいていいものかと思ってしまう。
たぶん、お許していただいているのだろう。
ぜひ、またお会いしたい。              (つづく)

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ついに発売!! 山田詠美編 『幸せな哀しみの話』 心に残る物語―日本文学秀作選(文春文庫)

この日を鶴首して待っていた。山田詠美が独自に選んだ日本文学作品のアンソロジーがようやく出た。『幸せな哀しみの話』(文春文庫)。文春文庫創刊35周年企画「心に残る物語―日本文学秀作選」のひとつ。
この企画、第一弾は2004年12月宮本輝編『魂がふるえるとき』、続く第二弾が2005年5月浅田次郎編『見上げれば星は天に満ちて』。山田詠美の名が三番手として挙がっていたので楽しみにしていたものの、半年経っても、一年経っても発売されないので諦めてしまっていた。それだけに喜びもひとしお。

小説のために磨かれた大人の舌にこそ相応しい、幸せな哀しみの味を選ばせていただいた。確かな言葉が、言いようのないやるせなさを引き立てる、美味なる綴れおりの数々である。
(略 山田詠美による作品解説)
どの作品にも、大人の手練の舌と共に、子供の純朴で綺麗なままの舌も、ちゃんと残されているような気がするのである。読み手であり、書き手であるというのは、そういうことなのかもしれない。酸いも甘いも噛み分けるには、あえて噛み分けない手管も必要だということだ。それを駆使した小説の数々である。読んでいただければ、必ず味覚は進化する。

あとがきに書かれた山田詠美の言葉が、掲載された作品に共通するエッセンスと味わいを尽くしている。各作品の短評も秀逸。
以下が掲載作品。

● 中上健次 『化粧』
中上健次の小説はすべて読んでいる。これは中上初期の作品で、「死」のイメージが色濃く漂い、描かれる情景の象徴となる色彩も生死のあわいを巧みに表現している。叙情的とは決して言えないが、中上特有の暴力的な発露もなく不思議な味わいを持つ作品となっている。

● 半村良 『愚者の街』
直木賞を受賞した『雨やどり』の中の一編である。私は半村の酒場シリーズを好む。バーテンダー仙田の諦念を湛えた静かで、優しい目。が、矜持も捨てていない風情がたまらない。続編と言える『たそがれ酒場』もいい。短編集『忘れ傘』も半村ならではの作品だ。

● 赤江瀑 『ニジジンスキーの手』 ● 草間弥生 『クリストファー男娼窟』
● 遠藤周作 『霧の中の声』
この3編は未読。赤江と草間の文章は一度も読んだことがない。遠藤周作が怪奇小説を書いていたとは知らなかった。いずれにせよ、山田詠美が選んだのだから楽しみだ。

● 河野多恵子 『骨の肉』 ● 庄野潤三 『愛撫』
河野多恵子の小説は好みとはいえないが、『骨の肉』は代表作ともいえる秀作。
庄野潤三といえば『プールサイド小景』『静物』『夕べの雲』など、衆知の名作がすぐに思い浮かぶが、『愛撫』は文壇デビュー作。私は、講談社文芸文庫『愛撫 静物』が2007年夏に発売された時に初めて読んだ。

● 八木義徳 『異物』
山田詠美は今回と同様のアンソロジー集、『せつない話』(光文社文庫)の中でも八木義徳の作品を選んでいる。そこでは、八木の名作中の名作『一枚の繪』を。八木義徳はもっと注目されていい作家ではないかと思う。福武文庫がなくなってしまったためとはいえ、『家族の風景』も文庫では読めないなんて。『私のソーニャ 風祭』(講談社文芸文庫)も品切れになってしまったようだ。

ついでという訳ではないが、宮本輝編『魂がふるえるとき』、浅田次郎編『見上げれば星は天に満ちて』についても少々。
宮本輝はさすがと唸らせる選であった。開高健『玉、砕ける』、川端康成『片腕』、永井龍男『蜜柑』、泉鏡花『外科室』ほか、読書好きなら必ず読んでいるはずのものがほとんどではある。しかし、わずか5ページ弱しかない、川端康成の『有難う』。1ページ(400字小説)で描かれた井上靖の『人妻』を選んだところに宮本輝の作家としての目の確かさ、凄みを感じる。お薦めです。

期待が大き過ぎたのか、浅田次郎の選はもうひとつだった。巻末の作品評はさすがだが。浅田は自ら書く以外は、やはり書評がすばらしい。そのことについては、以前当ブログでも書いた。興味ある方は(→こちら

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〔新書雑感(2)〕 『新書大賞2009』(中央公論新社)

「いま最も読むべき46冊が決定」と銘打った『新書大賞2009』(中央公論新社)で選ばれた2008年発行、新書ベスト10は以下のとおり。

1位(16票) ①『ルポ 貧困大国アメリカ』 堤 未果 (岩波新書)
2位(9票)   ②『強欲資本主義 ウオール街の自爆』 神谷秀樹 (光文社新書)
        ③『できそこないの男たち』 福岡伸一 (講談社現代新書)
         ④『電車の運転』 宇田賢吉 (中公新書)
5位(8票)  ⑤『白川静』 松岡正剛 (平凡社新書)
6位(7票)  ⑥『アダム・スミス』 堂目卓生 (中公新書)
7位(6票)  ⑦『4-2-3-1』 杉山茂樹 (光文社新書)
8位(5票)  ⑧『悩む力』 姜尚中 (集英社新書)
         ⑨『不機嫌な職場』 高橋克徳ほか (講談社現代新書)
         ⑩『閉塞経済』 金子勝 (ちくま新書)

新書に造詣の深い書店員30人、新書編集部30人の合計60人が、おすすめを5冊選び、投票した結果。(編集部は基本的に編集長、自社作品への投票はなし)
上記ベスト10の中で、売上げがベスト20に入っているのは⑧が3位、①が4位、⑨が11位、②が18位である。ちなみに、1位『女性の品格』(※2007年発売)、2位『親の品格』。③が20位内に入っていないのは、2008年10月発売のためだろう。

アンケート対象60名では少なすぎるものの、各書の内容説明と寄せられたコメントを読むと、まあ妥当なところか。①②⑥⑨⑩と半数が現在の経済不況を反映した題材だ。
(ちなみに私の既読書は①②⑥)

①『ルポ 貧困大国アメリカ』は、湯浅誠『反貧困』(岩波新書)と一緒に読んだが、問題への真摯な取り組み方、詳細なデータ、多くの生々しいインタビューも載っており、質の高いルポである。サブプライムローンのあまりにも安易で、恐ろしいシステム。ジャンクフード、ファストフードに頼らざるを得ない貧困層に見られる肥満。学費免除、学費ローン利用の躓きが入隊(兵役)への道となっている現状。高額医療費による中間層の破産。(急性虫垂炎による一日の入院費が100万円を超える!) 年間750万円保証と甘い言葉で勧誘する派遣会社、実はイラクでの過酷な状況下の仕事。民間の請負会社による傭兵派遣もまた、貧困層をターゲットにしている。

新自由主義による市場原理に歯止めをかけられなかった結果招いた貧困、格差は、形態が違おうとも、流れは日本と変わらない。

著者は『新書大賞2009』の中でインタビューに答え、次のように語っている。
「民営化や規制緩和を否定する気はありませんが、それを教育や医療、国民の最低限の暮らしを守る部分にまで持ち込んだ時、国としての土台は崩壊する」「アメリカの現状を合わせ鏡にすることで、日本にはまだ選択肢があることに気づいてほしい」。

③『できそこないの男たち』は、2008年に大賞(1位)となった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の著者による作品なので、その勢いやまずといったところか。確かにこの人の文章は読ませる。

④『電車の運転』は、コアな層狙い打ち戦略がはまったのだろう。40年運転士として勤務した著者による作品は、マニアには堪らないものらしい。

⑤『白川静』は、大著『松岡正剛 千夜千冊』(求龍堂)で世間の度肝をぬいた著者による本ゆえ、売れないわけがない。しかも、全体像を把握しにくく、入門書がこれまでになかった没後2年の白川静が対象。 

⑦『4-2-3-1』は、サッカーのフォーメーションを表した数字がタイトルになっている、高名なスポーツライターの著書。W杯予選中ということも後押しとなったのか。

個人的にサッカーは大好きだが、このところの日本代表の試合は、良くも悪しくもドキドキさせてくれないので、以前ほど熱心に観戦できない。(海外の一流チーム同士の対戦は次元が違う) 加えて、日本サッカーに少なくとも今後10年、世界レベルのフォワード、サイドバックが現れるとはとうてい思えないので、読んでみようという気持ちになれなかった。

⑧『悩む力』もある意味、世相にマッチしたのだろう。解説によると、人間の実存的問題にからめ、「他者との相互承認の必要性」を説いているらしい。著者のテレビでのソフトで知的な語り口からして、女性層を取り込んだに違いない。私自身本書に興味はないが。
姜尚中なら、小熊英二との共編『在日一世の記憶』(集英社新書)を読んでみたい。

新書の特性を生かしながら頑張っていると思えるが、「再読に耐える重厚な本は極めて少ない」という印象は拭えない。

本誌には、永江朗と宮崎哲弥による対談記事「新書でしか出せない本がある!」も載っている。
永江は以前のとんがったところが影を潜め面白みに欠ける。宮崎は新書の評に限って言えば、偏りがあることを差し引いても、かなり鋭い。宮崎の著書『新書365冊』(朝日新書)は、坪内祐三『新書百冊』(新潮新書)と共に新書解説本としては大きな収穫だった。
その宮崎がベスト5に挙げている中の、野中尚人『自民党政治の終わり』(ちくま新書)と下條信輔『サブリミナル・インパクト-情動と潜在認知の現代』(中公新書)には興味をそそられた。

前者は目利きが選ぶジャンル別3冊「日本政治」の記事で、片山善博も推している。

後者は、以前読んだ『サブリミナル・マインド-潜在的人間観のゆくえ』(中公新書)と『「意識」とは何だろうか-脳の来歴、知覚の錯誤』(講談社現代新書)の2冊が示唆に富む本だったので、気にはなっていた。

後は、人々がリスクを管理する側の人間と自分の価値観が同じであると認識することが信頼へとつながるという仮説「主要価値類似性モデル」について書かれた、中谷内一也『安全。でも、安心できない・・・』(ちくま新書)が気になる。斎藤環推薦の新書。

年間通じては、けっこうな数の新書を読むのだが、新刊ですぐさま飛びつくことは少ない。半年、あるいは一年近いタイムラグがあっても気にならないからだ。評価が固まるのを待っていることもある。読んでみたいと思っても、「すぐに読まねばならぬ」という必要性をも感じない新書が多い。だから、時流に関係なく自分の興味とその時の気分に合った本のみ発売時に(定価で)買う。
そのため、ここ5年はブックオフで(半額セール)175円~250円(均一セール)、場合によっては105円になってから買うことが多い。

今年新刊で購入した新書は、小説『ア・ルース・ボーイ』(新潮社)の頃から読んでいる佐伯一麦の『芥川賞を取らなかった名作たち』(新潮新書)と、雑誌『流動』に記事を書いていた頃から注目していて、その著書の8割方読んでいる竹田青嗣の『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』(ちくま新書)の2冊のみ。もちろん、店頭で自分の気になる箇所をいくつか立ち読みしてからだが、こういう買い方をしたものにはハズレがほとんどない。

なにやら、まとまりのない記事になってしまったが、新書に関してはこれからも触れていきたい。

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わめぞ「外市」でほっこり、しみじみ

7日(土)、<わめぞ>「外市」に夕方から足を運ぶ。穏やかな天気の中、多くの人で賑わっていた。まずは今回のスペシャルゲスト、古書ソムリエ・山本善行さん「善行堂」の棚をじっくり見る。
ヘンリー・ミラー、今 東光、後藤明生の本にも惹かれたが、結局『野呂邦暢 長谷川修 往復書簡集』(葦書房)を手にとって、一旦レジへ。

レジには5日(木)に、お店の方に伺った「古書現世」の向井さん、そして武藤(良子)さん退屈男さんが。いきなり向井さんと武藤さんに、息の合ったトークを披露してもらう。
武藤さんの悩みをネタにSH大作戦、「ストップ・ザ・○○」と向井さんが攻める。すると私に向かって、「何もわざわざ結婚記念日にコイツ(笑)の店に行くなんてねえ。せめてもっと儲かってる、ちゃんとした店に行けばいいのに」と、武藤さんが応戦。 爆笑。
会計をお願いすると、「釣りはいらねえって?」。 げぇ。 「そんな余裕ないですよ」と答える。協議の結果、次回武藤さんに差し入れすることで勘弁してもらう。そういえば、武藤さん手に酒持ってない。どことなく穏やかに感じられたのはそのせいかと納得(笑)
「しっかり頭に入れましたよ~」と釘をさされる。早速、最重要事項として「武藤さんに缶ビール差し入れ」と携帯にメモ。

今、本や部屋の整理でたいへんな退屈さん。思ったより顔色がよさそうでほっとする。
「そうだ・・・」と言って退屈さんが、鞄の中をごそごそ。(何かもらえるのかな?)と、ちょっとばかり期待。
出てきたのは畳の井草でつくられたブックカバー。試作品だとか。見せてもらっただけ。得意そうな退屈さん。いいなあ、何とも言えない笑顔。でも、やっぱりこの人ヘンだ(笑)
お三方とも様々な苦労を抱え、たいへんなはずなのに、楽しく話してくれるので、その場がぱっと明るくなる。

毒気を抜くために(嘘)、Pippoさんのところへ。手作りゲーム【まいごのおたまじゃくしをさがせ♪】はとってもキュート。かなり手間がかかっただろうなと感心。昼間は子どもたちが大喜びで、ずうっと遊んでいたらしい。バックの絵が気になって尋ねたら、ヘッセの水彩画とのこと。とてもよくマッチしていた。ヘッセから詩の話になる。
Pippoさんは自身も詩を書いているから詩のことにはとても詳しい。詩への愛も半端ではない。偏屈な私だが、言葉を疎かにせず、大切にしている人の話には素直に耳を傾けられる。それに、Pippoさんの詩に関する話はとても深い。
だから、リルケはいい!と意見が一致したのは嬉しかった。葉が落ちる様子を描くことで始まる詩、『秋』が浮かんできた。

木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の園生が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる
そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある
(富士川英郎訳 新潮文庫『リルケ詩集』より)

Pippoさんは、「どうなさいます 神様 もしも私が死んだなら」という句を含んだ詩に触れ、「実存」の問題へと話を展開していく。

詩だけではなく、文学、随筆の話も。 最近私はブログで中河与一『天の夕顔』について書いたのだが、Pippoさんも同じ頃『天の夕顔』を読んでいたので、驚いた。さらに、私が太宰についてもそろそろ書いてみたいと思い、短篇を何作か読んでいたら、Pippoさんがブログで『愛と苦悩の手紙』に触れ太宰をとりあげたものだから、(何かが共鳴したのだろうか?と)不思議な気持ちになったことを伝える。2作品をもとに、若者の恋愛観や太宰についても語り合う。

福田恆存『私の幸福論』のこと、太宰の後を追うように自死を遂げた『オリンポスの果実』の作者・田中英光にも話が及び、心にしみるひと時を戴いた。

その後、じっくり本を探す。古書現世さんの棚には、それほどマニアックではなくとも、本好きなら思わず何冊も買いたくなる本が、手頃な値段でぎっしり。さすが向井さん。
帰り際に、往来座の瀬戸さんにご挨拶しようと思っていたのだが、姿が見えず失礼してしまった。
旅猫雑貨店の金子さん、ふぉっくす舎NEGIさん、晩鮭亭さんには会えず残念。

そうそう。外市終了時間を少し過ぎた時、往来座店内のカウンター奧に武藤さんを発見。
しっかり缶ビールを飲んでいらっしゃった。にこやかに。

〔購入本〕

■『野呂邦暢 長谷川修 往復書簡集』(葦書房) 善行堂
■角谷建蔵『岩波文庫の黄帯と緑帯を読む』(青弓社) ※「赤帯を読む」が結構面白かったので。
■吉本隆明『源氏物語論』(ちくま学芸文庫) ※2冊目購入
■アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』(中公文庫) ※2冊目購入 以上3冊 古書現世
■吉田知子『無明長夜』(新潮文庫) ※2冊目購入 古書往来座
■中村光夫『憂しと見し世』(中公文庫) 退屈文庫
■田村隆一『鳥と人間と動物たち』(徳間文庫) 嫌気箱
■宇野千代『私の文学的回想』(中央公論社) チンチロリン商店

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マルクス再生?

新聞の整理をしていたら、マルクス経済学者・的場昭弘の記事に目が留まった。2月16日付朝日新聞朝刊〈資本主義はどこへ〉。的場は今回の経済危機を、「みんなが怖がって口に出さないけど、恐慌です」と言い切っている。「資本主義にとって恐慌は本来、過剰生産を解消する内在的メカニズム。そのつど企業の整理や非生産的部門の排除によって資本主義は洗練されてきた。しかしながら、市場の独占化により、そのメカニズムが働きにくくなり、過剰生産を生む内部矛盾は解消されないまま、恐慌の長期化がもたらされる」と語っている。

サブプライムローンの破綻に端を発する世界同時不況を「金融不況」とだけで捉えていたら、未曾有の経済危機の出口は見えて来ないだろう。計画経済による社会主義(経済)への移行が解決策と考えるのも単純過ぎる。しかし、「新自由主義」なる資本主義の市場原理にそのまま従っていたら、事態がますます深刻化するのは、経済の素人でもわかる。

小林多喜二『蟹工船』がここに来て若者を中心に多くの読者を獲得し、マルクスに関する本が注目を浴び、識者によるマルクスへの言及が増えているらしい。

格差、貧困、派遣切り、自己責任等の問題があらゆる場面で論じられ、閉塞感の強まる現代を象徴する現象なのだろうか。「疎外」「搾取」などのタームを軸に資本主義経済の問題点を見極め、新たな可能性を探ってゆく。人間性の回復を目指す。このような観点からマルクスに関心が持たれたとしても不思議ではない。

内田樹はブログで次のように述べていた。(「甦るマルクス」)

マルクスのいちばんよいところは、「話がでかい」ところである。貨幣とは何か、市場とは何か、交換とは何か、欲望とは何か、言語とは何か・・・そういう「ラディカルな話」をどんと振って、私たちに「ここより他の場所」「今とは違う時間」「私たちのものとは違う社会」について考察させる。マルクスのこの「風呂敷のでかさ」に私は満腔の賞賛を惜しまない。(略)マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」。多くの読者たちはおそらくそのような効果を期待してこれまでマルクスを読んできたはずである。私はそれでよいと思う。マルクスを読んで「マルクスは何が言いたいのか?」というふうに訓詁学的な問いを立てるのは、あまり効率のよい頭の使い方ではない。(略)マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。

「話がでかい」、「キック力」という表現には若干抵抗を感じるものの、マルクスの多面性、そのテクストに潜む可能性、思考を喚起する圧倒的な力を認識し、繰り返し読まれるに値すると言っていることには十分肯ける。

マルクスの限界を言挙げし、マルクス主義を批判するためにのみマルクスを読むことに意味はない。生活者としての実感を重んじ、現実と対峙していく姿勢を失わないことの重要さは言うまでもない。だが同時に、マルクスのテクストを読み込み、現代社会、資本主義が内包する危うさを見据え、思考をめぐらせることが無駄な営為とは思えない。

実存主義以降現在に至るまでの思想の変遷を見ても、脱マルクス主義、マルクス主義批判の潮流が絶えないとはいえ、マルクスがその席を明け渡したとは思えない。加えて、資本主義が私たちの予想を超える、或いは予想もしない形で変容していこうと、マルクスの普遍性は、あっさり消失するようなものではないだろう。この世界にユートピアが出現しない限り、マルクスは生き続ける。

高3以来現在に至るまで、私が読んできたマルクスに関する書物の中から、役立った本、刺激を受けた本の一部を参考までに挙げておきます。

〔マルクスの著書〕

■『経済学・哲学草稿』(岩波文庫)

■『資本論(1)~(3)』(岩波文庫)※(1)~(3)は第一巻に相当する。

■『共産党宣言・共産主義の諸原理』(講談社学術文庫

〔マルクス論、解説書ほか〕

■ 梅本克己 『唯物史観と現代』(岩波新書)

■ 宇野弘蔵 『経済原論』(岩波書店)

■ 吉本隆明 『吉本隆明全著作集12 思想家論 丸山真男論 カール・マルクス』(勁草書房) ※『カール・マルクス』は現在、光文社文庫で読める。

■ 廣松渉 『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書)

■ 廣松渉 『物象化論の構図』(岩波書店) ※現在は岩波現代文庫

■ 三浦つとむ 『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)

■ 城塚登 『新人間主義の哲学 疎外の克服は可能か』(NHKブックス)

■ 柄谷行人 『マルクスその可能性の中心』(講談社) ※現在は講談社学術文庫

■ 今村仁司 『マルクス入門』(ちくま新書)

■ 都留重人 『マルクス』〔人類の知的遺産50〕(講談社)

■ サルトル 『方法の問題』 (人文書院)

■ メルロ=ポンティ 『弁証法の冒険』(みすず書房)

■ アルチュセール 『マルクスのために』(平凡社ライブラリー)

■ デリダ 『マルクスの亡霊たち』(藤原書店)

■ フランシス・ウィーン 『 マルクスの『資本論』 』(ポプラ社)

〔その他〕

■ マルクス 『ドイツ・イデオロギー』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』 (岩波文庫)

■ 的場昭弘 『 超訳『資本論』 』 (祥伝社新書) 『ネオ共産主義論』 (光文社新書)

■ 仲正昌樹 『ポスト・モダンの左旋回』 (世界書院) 『思想の死相』 (双風舎)

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〔 雑記 〕 「おくりびと」、「納棺夫日記」、親鸞「教行信証」、ブルックナー・・・

映画『おくりびと』の宣伝を見た時、およそ16年前に読み、その後文春文庫〔増補改訂版〕で再読した『納棺夫日記』をすぐさま思い浮かべた。思ったとおり、『納棺夫日記』を原作として作られた映画だった。驚いたのは、主演の本木雅弘がこの本を自費出版版で読んでおり、著者にアプローチしていたこと。このことは『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した際に初めて知った。

本木雅弘は私にはやや苦手な役者で、出演作品はほとんど見ていない。何年前かは忘れたが、深夜に放映されていた『ファンシイダンス』を面白く観た記憶しかない。この映画も、たまたま観ただけで、監督が周防正行であることも知らなかった。(『Shall we ダンス?』もまだ観ていない)
本木雅弘への関心が高まり、映画も観たくなったが、今はこの盛り上がりだから観るのは当分先になるだろう。

青木新門がどのような感想を述べているか知りたくて、2月24日付毎日新聞朝刊を駅売店で購入。「『おくりびと』が(死者を)どこに送るのか」が描かれていなかったので、「原作者」とされることを拒んだと記事には書かれている。映画はまだ観ていないが、著者からすれば、きっとそうなのだろう。しかし、映画は「視覚的に見えない世界を現代風に視覚化してくれた。いい仏像ができた、という印象だった」と語り、本木雅弘からノミネートの知らせを受けた時には「おめでとう」と伝えたとのこと。

今日、青木新門『納棺夫日記』を文春文庫〔増補改訂版〕で4回目読了。文庫には載っていない「柿の炎」「少年と林檎」は、1993年発行の自費出版版で読む。
近々ブログで取りあげようと思い、久しぶりに親鸞『教行信証』(中央公論社『親鸞』所収)から、関連部分を読む。

貯まっていたタワーレコードのポイントを使って、『ブルックナー 交響曲第9番』オイゲン・ヨッフム指揮ミュンヘン・フィルハーモニ管弦楽団のCD(2007年8月発売)を購入。
あまりの素晴らしさに、3回続けて聴き入ってしまった。ブルックナーの、神への篤い信仰が余すところなく表現されている。テンポを動かし、金管を強奏させることが時に煩わしく感じられ、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏は、LP時代に聴いたものの、愛聴盤とはならなかった。同じ「9番」ならベルリン・フィル盤の方が美しく感じられ。

ブルックナー指揮者としては好きなので、1982年バンベルク交響楽団を率いて来日した際には、NHKホールで生演奏も聴いた。アンサンブルに乱れがあったり、音色が渋すぎて陶酔できるほどの演奏ではなかったものの、ブルックナーの本質は十分伝わってくる名演だった。
ヨッフムのブルックナー「2番」(シュターツカペレ・ドレスデン)、「5番」(アムステルダム・コウセルトヘボウ)、「6番」(バイエルン放送so)「7番」(アムステルダム・コウセルトヘボウ 1986年来日ライブ)などは愛聴している。

そのヨッフムが、こんなにも深い演奏を残してくれた。「9番」の演奏で感激したのは、2006年9月に発売された、ジュリーニ指揮シュトットガルト放送so演奏のCDを除けば、ギュンター・ヴァント最後の日本公演を生で聴いて以来だ。

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お薦めの復刊文庫 2009.2 吉田秀和 『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)

絶版久しかった新潮文庫『LP300選』が、『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)として復刊された。著者は《音楽の歴史》を描いたのではなく、名曲を300曲選んだと述べているが、グレゴリオ聖歌から現代音楽まで、その視野は極めて広い。しかも、その時代ごと、主だった作曲家、作品への言及もしており、驚異的な本と言える。28年前、新潮文庫発行時以来手元に置き、愛読している。クラシック音楽に興味を持ち、その全貌を見通したい思う者には、最適の本としてお薦め。

文学、美術の造詣も深く、鋭利な感覚を土台にしながら、その文章には滋味がある。決して声高には語らない。だが、二流、亜流と思える曲には明言を避けたりしない。それでいて、逡巡してしまうところは、正直に伝える。そこがまた、吉田秀和の魅力でもある。

本書の中からいくつか紹介したい。

「ハイドンは、即興と情熱の一時的な戯れを拒否し、すべて着実で、論理的に一貫し、作品の統一と安定、音楽の純粋と真実が達成されている。しかも、すばらしいことには、それが、みせかけの悲愴や厳粛やをともなわず、むしろ明るくて活発な機知とユーモアとを失わない、本当の思索となっていることである。」

ハイドンの本質はつかみにくいと思っていた私の目を開かせてくれた。かくも短い文で言い得た例を他に知らない。

「『ピアノ・ソナタ ハ短調』(作品111)』はベートーヴェンのピアノ・ソナタの真の要約。劇的で、悲愴で孤高な第一楽章。本当にエッセンスだけにきりつめられた意義深い祈りの主題につづくすばらしい変奏の第二楽章。私は、もし、ベートーヴェンのすべてのピアノ曲中、ただ一曲をえらぶとなれば、この曲をとるだろう。」

ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調』(作品131)に触れて、

「ことに第一楽章のフーガと、中間のアンダンテの主題の変奏曲が深い感銘をあたえる。光と影の交替の絶妙さと、全体をおおう一種の超絶的な気配の独自さは、音楽史を通じても、ほかに比較するものが考えつかない。」

この文章と、五味康祐がこの2作品に言及した文章を読んでいなかったら、『ピアノ・ソナタ第32番』、『弦楽四重奏曲第14番』に出逢うのはもっともっと遅くなっていただろう。おかげで、20代前半で知ることができた。本当にその素晴らしさがわかるようになったのは30代後半になってからではあるが。今やこの2曲は私の宝となっている。

ワーグナーの音楽との対比でブラームス。

「音楽をもう一度、感情のほしいままの奔流とせず、音に造詣された構成の芸術に戻そうとする。といって、彼は、二十世紀の意味での《純粋音楽家》では、まったくない。彼もまた、骨の髄から時代の子、つまりロマン的芸術家なのだ。ただ、彼は無形体に耐えられなかった。ブラームスの偉大と悲劇―退屈という人もあるかもしれない―は、ここに胚胎する。」

ブラームス好きにはこの一節、至極納得できると思う。「退屈」と感じてしまう危うさを孕んでいるブラームスの音楽。映画音楽などで使われ、有名になった哀愁漂うメロディーもあるが、作品の多くは抒情があふれ出るのではなく、沈潜している。そこにロマンを見い出せるか否かで、ブラームス感は変わる。

「リストは、ロマン派のなかでも、ピアノの技法の発達、管弦楽法の新工夫、和声上の探求、リズムの非常な自由さといった点で、大変興味ある存在にはちがいないのだが、私は、彼の曲はよくわからない。」

「チャイコフスキーとなると、私は好きでなくとも、敬意を払う。彼には、表現すべき内容があったし、それを過不足なく表すすぐれた技術的手腕とのバランスも、きっちりとれていた。彼の曲は、入門にもよかろうが、そのあとだって優にきくにたえる。」

ベルクの『ヴォツェック』 に触れ、

「現代の人間の極限状況をとらえて、一個の不幸な人間のあり方を、鋭くえがいた傑作である。どんなに十二音階になれない人、あるいは嫌いな人でも、一度、これを舞台でみれば深くゆすぶられずにはいられないだろう。そのことはまた、この作品では、表現の形式と内容が、まったくほかのどんなふうなやり方でもなくて、まさに、こういう書かれ方をしていなければならないと、人を十分に納得させ、確信さすということでもある。」

どうですか?本書が単行本で世に出たのが1961年だから、48年が経過している。今なお、古びておらず、首肯できるとは思えませんか? 新潮文庫版では巻末に推薦盤(LP)が挙げられていて、これがまた圧巻だった。このリストを参考に、いったい何枚のLPを買い漁ったことか。

今回、ちくま文庫から復刊されるにあたり、さすがに年月が経ち過ぎていて、ここを見直すとなると、本文も必然的に手直ししなければならないので削ったと、吉田秀和自身述べている。解説は片山杜秀。

個人的に言えば、ヴィヴァルディの評価がもう一つであったり、ブルックナーの交響曲を第7番一曲で代表させてしまっているところが残念ではあるが、トータルで見ればたいした問題ではない。

他の者だったら無謀とも言える試み。本書は、吉田秀和だからなし得た、偉業とも言える。つい先日、新刊『永遠の故郷-薄明』(集英社)も出た。現在95歳の高齢ではあるが、音楽や芸術全般について、まだまだ「生の声」を聞かせてもらいたい。

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気になる復刊文庫 2009.2 中上健次『紀州 木の国・根の国物語』(角川文庫)

中上健次『紀州 木の国・根の国物語』は角川文庫、朝日文芸文庫、小学館文庫と版元をかえながら発行されてきたが、ここのところ店頭から消えてしまっていた。今この時期に復刊する角川の姿勢を称えたい。初めて中上の本を手にする者が読み通せるか、気になるところではあるが。

中上は日本的自然が生みだす差別は、その構造において小説や文化の構造とも通底していると捉える。しかし、論理的に解き明かそうとしても跳ね返され、「構造」という視点に拘り過ぎると、「差別」そのものの本質が隠れてしまう。
中上の出自が本書に多大な影響を及ぼしていることは否めない。そうであるがゆえに、著者はルポを続けながら自問を繰り返し、揺れている。
中上なら、もっと踏み込めるところでも微妙な距離を置いている。
「神武以来敗れ続けてきた闇に沈んだ国。敗れた地霊どもが眠る隠国(こもりく)」=紀州。この特異な地を客観的に見ることも、小説家の目を通してのみ視ることも許されず、時に夢と現のあわいを彷徨い 神話的世界に足を踏み入れてゆく。

デビュー以来、異形の者と感じられた中上健次が、「人が大声で語らないこと、人が他所者(よそもの)には口を閉ざすこと」を聞き出し、「埋もれ、眠り込んだ悪霊の声、マモノの声」に耳を傾け、「差別」の根源に光をあてた貴重な作品だ。

扱われているテーマの重さ、中上の文体を考えると正直読み辛い。一気に読み通せるしろものではない。しかし、一読の価値を有している。

巻末解説は著書『社会的ひきこもり』(PHP新書)で一躍知られるところとなった精神科医・斎藤環。漫画、アニメ、ゲーム、映画、小説などを精神分析の観点から鮮やかに腑分けし、文化現象、社会問題にも言及を続けている。

小学館文庫には、本編以外に「私の中の日本人 大石誠之助」「生(き)のままの子ら」が掲載されていた。前者は大逆事件で処刑された紀州出身大石に触れつつ紀州という国の理念を説き、後者は自らの出自に触れ、「差別」と「暴力」について深い考察をめぐらせている。この2篇が復刊された角川文庫に載っていないのは、やむを得ないとはいえ、残念でならない。

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殉愛 中河与一『天の夕顔』 〔新潮文庫〕 (2)

地上では決して叶うことのない恋が描かれていることを見れば、中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)は悲恋の物語だが、二人の魂が永遠に深く結びつく、殉愛の物語でもある。
人の心は脆く、絶えず揺れ、何らかのくさびを打ち込まないと自身を滅ぼしかねないほどの矛盾さえ抱えている。抑えがたい狂想に囚われた時、何を守り、何を貫くか- 人は試される。

京都の大学に通う「わたくし」(龍口・たつのくち)は、7つ歳上で、子どものいる既婚者あき子に心惹かれてゆく。彼女に借りたトルストイ『アンナ・カレーニナ』には、「いつも逢いたいと思うばかりに」と書かれた小さな紙切れが挟まれていた。次に借りたフローベール『ボヴァリー夫人』には栞が入っていて、百人一首にも収められている高内侍(儀同三司母)の歌が書かれている。
「わすれじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな」

「わたくし」は、誰に宛てられたものでもないと考え、故あって暫く手紙も出さずにいる。するとあき子から、二人のあいだにわだかまりがあるのではないか、そうだとしたら耐えられないのでうちあけてほしいという手紙が届く。二人は会うのだが、あき子は唐突に別れを告げる。自分があなたを愛しだしたのではないかと思うと、危険を感じるからと。
友情と考えているので危険はないと言っても、「わたくし」は彼女から突き離されてしまう。翌日彼女からの手紙が。
本当はいつの間にか愛し始めていた。許してほしいという偽りのない心情を吐露しながらも、「わたくしの内心の声は、電撃のように否と強く否定しております」と、固い決意が伝えられていた。ここから二人のあてどない旅路が始まる。無間地獄のような。

あき子は自身の母親を亡くし、夫は他の女性を愛し、その苦しみから逃れるために洋行している。愛し始めてしまったがゆえに彼も失なってしまう。「妻として母として」生きることを選んだものの、彼への想いを断ち切れない。
彼の方は、あき子を苦しめてはならないと思いながらも、彼女への想いをますます募らせる。どこかで相手を求めてやまない二人は、結局幾度となく会ってしまう。しかし、その都度別離を余儀なくされる。幸福はつかの間で終わり、さらなる苦しみを負う。

いかなる苦しみを味わおうとも、彼は儚い一縷の望みを頼りに、彼女を待ち続ける。
別れを「拒絶」と表現する様(さま)に、何度読んでも肺腑を抉られるような思いにかられてしまう。

会ってしまったがために、決意をうち砕かれ、心揺れ、苦しみ、二度目の別れの決意を伝えるあき子の手紙の余白には、建礼門院右京大夫の歌が付け加えられていた。
「今はただしひて忘るるいにしへを思ひ出でよと澄める月かな」
忘れようとしても忘れられぬ過去を思い出せと言わんばかりに月が澄んでいる。千々に心乱れるあき子の悲しみが重なって見える。

「わたくし」は大学卒業後入隊し、やがて他の女性と結婚するがそれにも破れる。あき子を忘れるための結婚なぞ、破綻するに決まっているのに。

4度目の拒絶の時、あき子は「たとえ、わたくしは、この首が飛んでも、もうこの決心を動かそうとは存じません」と言い放つ。彼の殺意に近い激情を感じとって。
その言葉に、「一人きりではないのだ」と思えた彼は、あき子の心が自由になるまで待とうと決意を新たにし、冬山にこもる。
自身が壊れてしまわぬよう、悲愴な思いを抱いて。

どんなに不自由をしても、どんなに孤独に陥っても、この世の冷徹無惨の中にいるよりは、いっそ天に近いところに行って、自分のかなしい生命を終わったほうがいい。(略)何もなく冷たく、氷りはててしまった世界。そここそ自分にふさわしい住みかにちがいない。(略)天に近い清浄の雪の中に身と心を置いて、自分は自分の思いを高めよう。

二人が出逢ってから19年。「わたくし」40歳、あき子47歳の春、ようやく時は訪れた。
あと「五年たったら」。あき子の口から出た言葉に、彼は狂喜する。
『アンナ・カレーニナ』のアンナが夫や子どもを残して自殺したことを、自分などよりどんなに幸福であったかもしれないと語るあき子。そんなことなど決して出来はしないから、彼らの19年があり、それぞれが身を切られる苦しみに堪え、生きてこられたのだ。
そして、ついに約束の5年を迎える・・・・・。

14歳で初めてこの小説を繙いた時、多くの読者同様ストイック、克己心という言葉が思い浮かんだ。自分には持ち得ぬ純粋で気高い精神への憧れ。
齢を重ね、幾度となく読み返すうちに、自分がここまでこの作品に惹かれるのは、何故だろうと思うようになった。
道を踏み外した恋。それだけの理由で、人の世の倫理に従ったわけではない。互いのいずれかが、もう一歩踏み出してしまったら「すべてを失ってしまう。完全に繋がりも絶たれてしまう」。そのことを二人は何よりも怖れたから、身を投げ出し、相手に飛び込める機会が何度もあったのに、踏みとどまったのではないだろうか。
最初の別れから、相手だけを見て、思いの全てをぶつけることは叶わないのだという、悲しいまでの覚悟が底流にある。
その姿勢をストイック、己に打ち克つ精神と感じる一方で、お互いが究極の理想のために自らを貫いた、自分を偽れなかったのだ。二人を踏みとどまらせたのは、単なる理性や道徳心だけではなかったのだと思えてならない。
だからこそ、彼らの歩んだ人生がいっそう哀切で、同時に、美しくも感じられる。

主人公は多くのものを捨て、傍からは愚かと思える人生を敢えて選んだ。あき子も、一見何も失っていないかのようで、最も手に入れたいものを諦めたところから24年の月日を送ってきた。しかし、二人は何かを犠牲にしたわけではない。後悔はない。
この世では叶わぬ恋を捨て、愛に殉ずることで、得難いものを得たのだ。

一人の女性を崇め神格化してしまう在り方を、現実離れしていてあり得ないと思うなら、或いは自己憐憫としかとれぬなら、何の感慨ももたらしてはくれないだろう。

「わたくし」によって語られる物語だが、決して私小説ではない。感情移入できるか否かでこの小説を裁こうとするなら、時間の無駄かもしれない。
「ただ逢いたいという願い、傍らにいたいという願い」- そんな堪えがたい思慕で生きた主人公を、私は嗤えない。むしろ、打ち震えてしまう。

物語の最後、天に夕顔が咲く。
夕顔をどんな思いで見るか。
その花を摘み取る人の姿が見えるか見えないか。
そこに読んだ者の心が映し出される。それだけは確信をもって言える。

蛇足ながら、夕顔の花言葉は「儚い恋」である。

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殉愛 中河与一『天の夕顔』 〔新潮文庫〕 (1)

中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)。こんなにも心を抉られ、慟哭した小説は他にない。

中学2年の時に初めて読んで以来、30回近く読んだろうか。100頁少しの短い小説ゆえ、ストーリーも会話もほとんど頭に入っているのに、読むたびに心打たれ、揺さぶられる。自分の人生に重ねて読むわけではないのに、第三者の目で冷静には読めず、物語の中を生きてしまうからだと思う。この小説の主人公のようには決して生きられないからといって、荒唐無稽の物語とも思えない。然し、単なる憧憬でもない。
ある種歪んだ自己愛の投影ではないのかと笑う者がいても一向に構わない。それぐらい私にとって絶対的な小説なのだ。

不思議に思うことがある。今手元にある新潮文庫、平成15年3月改版の奥付を見ると、昭和29年5月発行以来81刷となっている。一刷ごとの部数が少ない(はず)とはいえ、驚くべきことだ。少なくともこの30年、この本が大々的に取りあげられた記憶はない。ということは、口伝てに読み継がれて来たのであろう。
巻末の保田與重郎による解説を引用しながら、まずこの作品がどのように受けとめられたか、紹介したい。

昭和13年に発表されて以来、大東亜戦争(※保田による表記)中から戦後にわたり45万部も売れた。なのに、ある事情から文壇では黙殺された。この事情を明らかにすることは不要と言う保田の考えには同感である。作品の本質とは全く関係ない。
しかし、永井荷風が絶賛、徳富蘇峰が推賞、与謝野晶子などが称えている。また、カミュや柳田国男の推賞により、英、米、仏、独、中国、スペインなど6ヵ国に翻訳された。カミュは「毅然としてかしかもつつしみ深い」と評している。
保田與重郎は、この小説の中の人々の愛に対する節度と宗教的な態度に共感する若い人々が多いことに安堵感を抱いた。そして、人間の文化が最もけだかく美しいものを念願していた時代の人々のおもいを伝え、愛の情緒と思想を教えていると称えた。

数年前だったか、純愛ものが若い世代を中心に流行ったようだが、関心が向かなかった。どうせたいしたことはないだろうと高を括ったわけでも、傍から眺めて苦笑していたわけでもない。強いて言えば、いわゆる純愛というものが私にはピンと来ないのだ。
しかし、「殉愛」となると違う。どんなに齢を重ねても、惹きつけられる。本の題名や文中にこの言葉が使われているか否かは関係ない。おのが人生や命のすべてを賭けることが、私にとっては愛に殉ずることを意味する。これこそがというように、決してひとつの形があるわけではない。無償の愛とも違う。
今までに「殉愛」が描かれていると感じた小説といえば、『天の夕顔』以外には、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』と、アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』がすぐに浮かんでくる。この2作品も、若い時に読んで激しく心を動かされたが、今なお読める。ゆえに、私には青春の書ではない。

『天の夕顔』は主人公(男性)の次の言葉で始まる。

信じがたいと思われるでしょう。信じるということが現代人にとっていかに困難なことかということは、わたくしもよく知っています。それでいて最も信じがたいようなことを、最も熱烈に信じているという、この狂熱に近い話を、どうぞ判断していただきたいのです。
わたくしはひとつの夢に生涯を賭けました。わたくしの生まれて来たことの意味は、だから言ってみれば、その儚げな、しかし切なる願いを、どこまで貫き、どこまで持ちつづけたかということになるのです。ばかばかしいといって、人は、おそらく身体をふるわしてわたくしの徒労を笑うかもしれません。それが現代です。しかしわたくしにとって、それは何事でもあり得ないのです。わたくしは現代に生きて、最も堪えがたい孤独の道を歩いているように思われます。

これが、70年以上前に書かれた小説の書き出しである。
(続く)

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宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)と『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の落差

宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)には落胆した。近年稀に見る好著と思えた『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の著者が、何故このような本を世に問うたのか、疑問が残るからだ。

宮下誠の名は、7年ほど前、高校以来の親友が所有していた本で知った。当時彼は絵画にはまり、盛んに美術館巡りをしていた。山荘に招かれた時、彼の読んでいた本が『逸脱する絵画』(法律文化社)だった。興味半分でパラパラと読んでみたら、極めて難しいが、何とはなしに惹かれる不思議な著述。しかし、高価だったため購入せず、いつの間にか時は流れてしまった。3年前、気になってある新書を購入。読み出したら止まらない。ネットで著者のことを調べ、「ああ!」と納得。あの『逸脱する絵画』の著者だった。
私が読んだ『20世紀絵画』(光文社新書)は、抽象的で難しい専門用語も用いられてはいるが、著者の意図が明確に伝わるものであった。
絵画は抽象、具象に関わらず、作家あるいは民族のアイデンティティと深く結びついていて、造形上の相違とは裏腹に、時代や我々自身を映す鏡となっている。20世紀後半の具象表現は、時代の複雑化に伴い、たやすく理解できないものがある一方で、抽象絵画が理解しにくいとはいえないことも、著者の解説によって腑に落ちた。
遠近法の問題、ダダ運動、コサージュ、アサンブラージュなどについても的確にかつ、わかりやすく記述されている。パウル・クレーとピカソの話はとりわけ興味深く読んだ。この本で初めて知った旧東独美術の圧倒的な存在感には目を奪われた。藤田嗣治「アッツ島玉粋」に触れた章の中で、敢えて絵画を載せない(ブランクのままにしておく)、一見トリッキーと思われる編集にも、違和感を覚えなかった。
絵画を読み解く著者の、真摯で斬新な目に共感を覚えたものだ。
それだけに・・・。

「故意にカラヤンを貶めようとして書かれたものではない。」「本書はひとつのメルヒェン(大人の童話)として書かれている。主人公たちは実名で登場するが、議論の俎上に載せられているのは彼ら自身ではなく、彼らが代表する価値観であり、世界観である」「記述の大部分はごく個人的な感慨に占められている」。こういった留保が多すぎて、象徴としてのカラヤンの音楽を、自省無く受容してきた罪は、著者も含め、聴く側とカラヤンの双方にあると述べてはいるものの、残念ながら、(疑問を抱き、何かが違うと思っていた)著者自身は罪を軽減されているかのように聞こえてしまう。(私は「罪」という表現に納得はしていないが)
『カラヤンがクラシックを殺した』というタイトルそのものも、商業主義にからめとられ、安易ではなかろうか。筆者の真意から乖離しているように思えてならない。
また、「単純な誹謗中傷は何も産み出さない」と言うのであれば、カラヤンによる演奏の本質を説くのに、人工的美、欺瞞、嫌味な臭さ、気持ちの悪さ、救いのなさ等々、あまりにもステレオタイプな表現が多い。筆者はいったい、誰に向かって説いているのか、その対象がぼやけて見えてこない。

人が数値化、匿名化され、その個性が平板なものへと馴化される20世紀の危機的状況下、その対抗的意味合いで、素晴らしい芸術が産み出されてきた。ささくれだった感受性によって、いわば心の叫びとして、或いは憎悪をとして、或いは怨嗟として真正の芸術が世に産み出されてきたという筆者の主張に真っ向から異を唱えるつもりはない。賛同できる部分もある。しかし、「心の叫び」「憎悪」「怨嗟」あるいは筆者が何度も持ち出す「世界苦」が感じられない音楽を、真正な芸術と見なさないとしたら、却ってクラシック音楽を浅く狭い芸術に貶めることにならないだろうか。指揮者ケーゲル、クレンペラーらの音楽に触れるところでも、「世界苦」「絶望の深さ」「矛盾」「自己破壊的デーモン」などの言葉で、真正な芸術の何たるかを強調し過ぎている印象を受ける。

クラシックの受容のあり方、というごく狭い観点から私は近現代社会の病理を掠め見ようとしてきた。(略)カラヤンの罪はクラシック音楽受容の陳腐化にとどまることなく、あらゆる社会現象の弱体化に寄与するほどの影響力を発揮したのだ。改めて書く。カラヤンは断罪されなければならない。さもなければ私たちの住む社会はいよいよ痴呆化し、危機的な状況は更に深刻になり、文化崩壊のスピードは更に速度を増してゆくだろう。
私たちは覚醒しなければならない。立ち上がらなければならない。象徴としてのカラヤンに代表される非-文化的文化の巧妙な罠を注意深く避けながら、真正な芸術とは何か、人間の幸せとは何かを問い続けなければならない。クレンペラーやケーゲルの音楽はそのように気づいた私たちを必ずや勇気づけてくれるに違いない。
小市民たちよ、目覚めよ。
さもなくば、私たちはこれまで同様、悪魔に魘(うな)されることになるだろう。

悲しいかな、「小市民たちよ、目覚めよ。」といった、安っぽい言い回しを用いることに意義を感じない。逆に(筆者が)伝えたいことを、自ら歪めてしまっているように思える。

音楽全般が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」はもはや悪い冗談としか言いようがない。(略)社会的勝者であり、強者である「文明社会」に生きる音楽的聴衆の、日和見的で、そして快楽主義的な音楽鑑賞のあり方は、社会的弱者(彼らにも多くの問題があり、間違いがあり、狡知があることは言うまでもない)の不条理や不合理な死を冷淡に放置し、格差社会の根本原因を追及しようとせず、無自覚的に自己のひたすらに個人的な不安や不満やルサンチマンにのみ「不幸」を見出す、まことにおめでたい「文明人」の世界把握と完全に同期している。

音楽に「美」や「慰め」や「癒し」を求めるのが悪い冗談?長い歴史の中で愛され、生き残ってきた作品の多くが、カラヤンという特異な指揮者に再現され、演奏されることで、その本質が損なわれるなどとは思えない。全世界で500万枚売れたらしい「アダージョカラヤン」購入者の多くを、日和見的、快楽主義的と決められるものであろうか。このアルバムが「悲しくも切実な上昇志向と自己神話化による負け犬的な羨望の醸成」、すなわちカラヤン的本質の現れと言うのは、牽強付会ではないか?

どんな信念のもとに書かれていようと、いや信念があるのならば、音楽に関わる人々の心に届き、響く表現方法をもう少し考え、工夫してもよかったのではなかろうか。決して心地よい言葉である必要はないにせよ。
かく言う私も、カラヤンのモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー演奏などには感動した記憶がない。カラヤンの演奏に比し、より作品の本質に迫っていると感じられるものの方が圧倒的に多いのも事実だ。音楽において、たとえカラヤンといえども、一人の指揮者を象徴的に扱い、敷衍させ、時代の病理にまで言及するには無理があると、私は思う。むしろ、危険ではないかとさえ思える。

筆者が音楽を愛し、いいと思える音楽を一人でも多くの者に聴いてもらいたいのであれば、理想とする指揮者、音楽を徹底して描く方がよかったのではないだろうか。あくまで現代社会の病理を訴えたいというのであれば、別の手法もあるはず。「必要のない、無意味な」抵抗感を生じさせず伝えることも、筆者ならば可能ではないかと思う。『20世紀絵画』(光文社新書)に多大な示唆を受けただけに、残念に思う。

私はこの著書に賛否両論あるだろうことを前提として言っている。よく言ったと溜飲を下げている読者も、著者の真意を誤ることなく受け取った読者も多いと思う。だが一方で、不快感を抱いた読者も、少なからずいるはず。両者とも「音楽への愛」ゆえにだと思う。ならば、どうして相反する感情が芽生えてしまうのか。どんな本(作品)も賛否両論あって当然という月並みな解釈には収まらない問題を、この本は孕んでいる。

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ETV特集 「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」 (2月1日 NHK教育TV放映)

芥川賞作家辺見庸は4年前、脳出血で倒れ右半身麻痺、その後癌も発覚し、大きなハンデを抱えながら、今なお現代社会の問題を鋭く抉り続けている。倒れた後に出版された『自分自身への審問』 (毎日新聞社)、 『いまここにあることの恥』 (毎日新聞社)には、鬼気迫るものを感じた。

辺見は現在の危機的状況を「パンデミック(感染爆発)」と名付ける。字義通りならば新型ウイルス感染の恐怖であるが、それだけではなく、経済恐慌、格差、社会と切断されてしまっている個、人間の心の問題まで、重層的に捉え、広義に用いているのだ。社会の個別的な事象、例えば、秋葉原事件、派遣切りなども「パンデミック」のひとつとして言及。さらに、カミュの『ペスト』をとりあげ、そこに現代社会が抱えている問題を重ね合わせる。

秋葉原事件に触れ、世の中から切断されてしまった「個」というものに、人の根源自体の腐敗を見て取っている。犯人が携帯を使って書き込んだ一連の言葉に薄ら寒くなるような痛ましさを感じ、リアルに生きられない姿を見、吐き出されたものが単なる記号としかとれず、これが「言葉」かと、愕然とする。これは、時代が経済という枠にとどまらない「恐慌」を迎えようとしている兆しではないかと。

1929年のニューヨーク株大暴落に端を発する世界恐慌の時期に、著書『ドグラ・マグラ』で有名な夢野久作が「猟奇歌」なるものを雑誌に掲載していたこと、さらにその歌に私自身驚愕した。
「自分より優れた者が皆死ねばいゝにと思ひ鏡を見てゐる」
「殺すくらい何でもないと思ひつゝ人混みの中を闊歩して行く」
「白塗りのトラックが街をヒタ走る何処までも何処までも真赤になるまで」
これらの歌から、単なる符合には思えぬ恐怖を感じないだろうか。
辺見の言葉を記す。

昔日との相違はまさに
悪の核(コア)をそれと指ししめすことの
できないことなのかもしれない
どうやら資本が深くかかわるらしい
〝原発悪〟が
ほうぼうに遠隔転移してすべての人のこころに
まんべんなく散りひろがった状態が
いまという時代の
手におえない病症ではないのか

カミュの『ペスト』(新潮文庫)では、行政側および新聞社がオランの市(まち)で起き始めていることを具体的、詳細には報道はせず、そのことがペストの拡大の危機を湖塗してしまう様子が描かれている。人々も現実に起きていることの真の重大さに気づかず、市が閉鎖された後も、街頭を練り歩き、懊悩はあるものの個人的な感情を第一として生活を送っている。いずれ鎮まる、たいしたことはないだろうという、願望に近いものが目を曇らせてしまう。久々に読み、神の問題も含め、30年以上前に読んだ時には見えなかったものが見えてきた。

辺見庸はこの『ペスト』に書かれている、医師リウーの「絶望に慣れることは絶望そのものよりさらに悪いのである」という言葉を基に、考えを巡らせていく。
ペストにさえ日常として慣れてしまいかねない、人間の危うい本質は現代においても変わらない。資本の潤滑油になっているマス・メディアが流す、コーティングされた情報にさらされている私たちは、まさにパンデミックとも言える危機的状況において、実相が見えなくなっている。道義、人倫、権利、言葉、信頼、約束など、人間の諸価値そのものが根底から覆されようとしている。単に経済の回復を目指すだけでは、対症療法に過ぎない。寄る辺なさ、存在の悲しみに震え、この世界から切断され、矮小化されてしまっている人間の内面こそ打破すべきと訴えるのだ。
辺見の言うように、職を失い、住む場所もなく、公園や路上で寝る人々の姿をふつうの、仕方のない光景と思えるようになってしまったら、異状だと思う。

辺見は、絶望に慣らされないための糸口を「誠実さ(sincierity)」に求める。言葉そのものは抽象的だが、伝えようとしていることは十分届いて来た。
著書『自分自身への審問』(毎日新聞社)にも書いているが、山谷で無宿者のために10年以上、休みのたびに炊き出しに来る人の話を例に出す。(本の中ではごく普通のサラリーマンで家庭人と書かれている。また、誠実さを〝心ばえ〟と表現している)
とってつけたような優しい言葉はかけない。しかし、誰かに注目されるわけでもないのに、社会の片隅で長年持続させる「誠実さ」の凄み。これには、作家である自身が百万言の言葉を費やしてもかなわないと正直に吐露する。『ペスト』の中の医師リウーの言葉、「ペストと戦う唯一の方法は誠実さです」に触れながら。

自覚的な「個」としてどう在るべきか。マスコミから伝達される、ある意味でバイアスのかかった(偏りのある)情報の奧に、何を見なければならないか。多くの問題を考えさせられる良質な番組であった。
辺見庸が共闘を求めているようには、私には思えなかった。それだけにいっそう、彼の口から紡ぎ出される言葉に重みを感じた。揺るぎない視座を持っている人である。

番組内では、リハビリを兼ね、右足を引きずりながら階段を上り下りする姿が何度か映し出される。進歩はしないが、やめると歩けなくなる可能性が生じる、「徒労」のような運動。
最後の言葉が耳から離れない。
「徒労という窓口から世界を考えたり、自分の行為とか生っていうものを考えることは、あながち悪いことじゃねえなとは思う。なにか、成果を期待するのがないっていうことはいいね」
命を賭して戦おうとする作家の思いが、胸を打つ。

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佐野洋子のエッセイ (2) 『神も仏もありませぬ』

昨年11月にようやく文庫化された『神も仏もありませぬ』(ちくま文庫)は、『ふつうがえらい』から12年後のエッセイになる。(間に『あれも嫌いこれも好き』が出版されているが)

いきなり呆けてしまった八十八歳の母親の話から始まる。著者を「奥様」「そちらさま」と呼ぶ母に年齢を聞くと「四歳」と答える。それでも、「この人の中では私はどこかで動かぬ子として存在していると感じる。」
「私は年老いることをずっと確認しながら生きてきた」と、自らの人生を振り返りながら、次のように語る。

今思うと、十代の私は自分の事以外考えていなかったのだ。共に生きている同時代の人達以外に、理解や想像力を本気で働かせようとしていなかった。しかし自分が四十になり五十になると、自分の若さの単純さやおろかさ、浅はかを非常に恥じ入る様になり、その年になって小母さん達の喜びや哀しさに共感し、そして人生四十からかも知れないと年を取るのは喜びでさえあった。(略)そして、六十三歳になった。半端な老人である。呆けた八十八歳はまぎれもなく立派な老人である。立派な老人になった時、もう年齢など超越して、「四歳ぐらいかしら」とのたまうのだ。私はそれが正しいと思う。私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六十三だかに関知していない。
呆けたら本人は楽などと云う人が居るが、嘘だ。呆然としている四歳の八十八歳はよるべない孤児と同じなのだ。年がわからなくても子がわからなくても、季節がわからなくても、わからないからこそ呆然として実存そのものの不安におびえつづけているのだ。

肉親が呆けてしまった者には、「よるべない孤児」という言葉が痛く突き刺さるに違いない。佐野洋子は、母のその姿に不安と恐怖を覚える。やがて自分もそうなるであろうと。それでも、母を立派で正しいと言い切っている。そこに救いがある。

このエッセイで佐野洋子は、象徴的とも言える「死」に触れている。一つが、ガンで一週間少ししかもたないと言われた愛猫フネの「死」。
一番高いかんづめを買って、スプーンで食べさせる場面。

フネは私の目を見ながら舌を出して白身を一回だけなめた。私の声に一生懸命こたえようとしている。お前こんないい子だったのか、知らんかった。気が付くとフネは部屋の隅に行っていた。(略)ガンだガンだと大さわぎしないで、ただじっと静かにしている。畜生とは何と偉いものだろう。時々そっと目を開くと、遠く孤独な目をして、またそっと目を閉じる。静かな諦念がその目にあった。人間とは何とみっともないものなのだろう。じっと動かないフネを見ていると、厳粛な気持ちになり、九キロのタヌキ猫を私は尊敬せずにはいられなかった。

ほとんど食べることもできなくなったが、二週間が過ぎる。フネはもう砂箱まで行けない。それでも健気に、人間用のトイレのところまで必死に行って、便器の前で用を足す。一ヶ月後、クエッという声を上げ、息をひきとるが、著者はもう驚かない。

私はフネのように死にたいと思った。人間は月まで出かける事が出来ても、フネの用には死ねない。月まで出かけるからフネの様には死ねない。フネはフツーに死んだ。太古の昔、人はもしかしたらフネの様に、フネの様な目をして、フツーに死んだのかもしれない。「うちの猫死んだ」とアライさんに報告したら、「そうかね」とアライさんはフツーの声で云った。

アライさんというのは、親しくしてもらっている農家の旦那さんで、自然とともに生きている人である。命あるものがいつか死を迎えるのはあたりまえのことなのだと、「そうかね」のひと言によって、著者に静かに伝えている。決して温かさを欠く人ではない。あたりまえのことをフツーに受け入れられない、受けとめられない脆さを、著者は自身にも感じている。

もうひとつは、二歳年下の幼なじみ、孔ちゃん(六十二歳)の突然の「死」。妹からの電話で知らされた時、受話器を持ったままペタンと座りこんでしまい、「外に見えるものが世界中から消えてしまった様な気」がしてしまう。
鍋ごと豪快にカレーを食べ、演劇に打ち込み、やがて商社に勤め、億単位のお金を動かすようになる孔ちゃんだが、ふらっと著者の仕事場に来ては、仕事しているところを何時間も珍しそうに見ていたり、アメリカに渡ってからも時々用もないのに電話をかけてきたりしていた。孔ちゃんとの思い出が走馬燈の如く頭の中を駆けめぐる。

赤ん坊の時から友達は孔ちゃん唯一人だった。何の根拠もなく私が先に死ぬと思っていた。いやそんな事も考えなかった。どこかに孔ちゃんは居るにきまっていたのだ。「もう一回だけ会いたいよう」。私は声を出して床をたたいた。たたきながら、「一人暮らしってこういう時便利だなあと思っているのだ。そうだ、泣いても平気なんだと思うと、私は大声を出して泣いた。

四十九日の朝、オレンジやピンク、うす紫の雲が幾重にも染まって、浅間山の左の方が透きとおったピンクになり、孔ちゃんが極楽を見せてくれたのだ、と著者は思う。

私たちが老いて、誰にも死が近づいている。これから生き続けるということは、自分の周りの人達がこんな風にはがれ続けることなのだ。老いとはそういうさびしさなのだ。
一ヶ月前床をたたいて泣いたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。生きているってことは残酷だなあ、と思いながら笑い続けている。

日常に還ることが生きていくこと、そして強さ、と取れないこともない。しかし、私には笑顔の底に、大事なものをひとつまたひとつと剥ぎ取られていく悲しみが見えてならない。

もちろん、佐野洋子らしさも随所に見られる。エベレストをあおぎ見たときに、その神聖さに畏敬の念を抱き、登ろうとする人間たちを、感受性を失った馬鹿と吠える。自分は女性として、現役を下りたので「今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない」から幸せで心安らかとも語っている。
農家のアライさん夫妻との心温まる交流、何でもそろっている不思議なドラッグストア「ホソカワ」とその店の奥さんの話。夏になると東京からやって来る古道具屋「ニコニコ堂」の親子との微笑ましいエピソードもある。ご主人はつげ義春『無能の人』のモデルになった人らしい。息子さんは芥川賞を受賞した長嶋有。
だがやはり、この本は「老い」と「死」を見つめる著者の視線が深くまとわりついている分、以前の作品とは趣を異にしている。
この『神も仏もありませぬ』が単行本で出版されてから5年後の2008年。『役に立たない日々』(朝日新聞出版)が世に出る。その本のおよそ3分の1弱あたりに「二〇〇五年冬」という章がある。こう始まる。
「ガンになったので、髪の毛がメリメリと抜ける。」

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佐野洋子のエッセイ (1)

『100万回生きたねこ』で遍く知られている佐野洋子のエッセイを読んだのは、『ふつうがえらい』(1995年発行・新潮文庫)が初めてだった。奔放なもの言い、すかっとするような切り口、「だって私は私でしかないんだ」という姿勢を貫いているのに、読後しんみりとしてしまう、不思議な魅力を湛えた本だった。

死んでしまった金魚を埋葬する際の、6歳の姉と5歳の妹の話。姉は猫に食べられないようにと深く土を掘る。妹は穴の中では苦しいし、暗くて寂しいからと、葉っぱを敷きつめ金魚を載せて、上から葉っぱをかける。姉妹の父親は、それぞれの個性を大事にしたいと著者に語りかける。ほのぼのとしたエピソードで終わるのかと思うと、そうはならない。佐野洋子は、前者をくそまじめ、後者を人から見るといいかげんなヤツと捉え、自分は後者だと。この世は、この二つのタイプがいいかげんに分布していて、変にピッタリくっついておぎない合っている。「いいかげんなヤツばっかでも、くそまじめだけでも世界は完璧にならない。神様はえらい。」と結ぶ。こういう視点のずらし方は著者特有のものだ。

40年前にご主人を亡くした、八十三歳のおばあさん。ある時、踏切の向こう側に竜宮城を見たと話しながら、(ご主人のことを)「世界一の男よ、わたくし、本当に幸せです」と言って、著者にボロボロになった写真を見せる。また別の時には、餌をあげたすずめが、「ありがとう」と人間のことばで喋り、お礼として子すずめをくれたと話す。そして、また亡き夫の写真を見せる。著者はその度、うらやましくて、ぽーっとしてしまう。そして次のように語る。
「人は生と死の間をこんなふうにおぼろに渡ってゆくのだろうか。どうしてこのひとだけにこんな美しい嘘と真の世界が用意されているのだろう。たった一人の男を命をかけて、たったひとつの自分のたましいと肉体をかけて愛したからだろうか。」と。私は「美しい嘘と真の世界」という表現に鷲づかみにされ、佐野洋子が好きになった。

「ことばを覚えると覚えるほどことばが通じるようになって、ことばが通じることだけで満足したりして、そしてことばでないものを感じたりわかったりすることを投げすててしまうのだ。」
著者は、内実を伴わないことばのやりとりに疑問を投げかけ、ことばの背後にある「ことばにならないことば」を重んじる。そして絵本における絵にも同じ視線を注いでいる。

ひとりの男性をめぐり三角関係に陥った友人(みよちゃん)の話を引き合いに出して、自らの恋愛のこころざしを語るところ。
敵対する女性が、出刃包丁を持ち出して彼を脅し寝かせない、どこにでもべったりくっついて行って、彼を追い込んでいるのが許せないとこぼす。著者が「あなた、しっとはないの?」と尋ねると、自分の知性、美学が許さない。人(男性)を自分のものだという権利なんかないと語る。それに対して、佐野洋子はこう思う。

私理由はわからない。でもみよちゃん、あなたの負けよ、出刃包丁が正しい、あのひとは私のものだって追いつめるのが正しい、たとえそれで男を失ったとしてもその女が正しい、この正しいというのは正義というのではない。恋愛に「権利」などという言葉を持ち出すみよちゃんの負けだ、と何かが私に教える。恋愛は本来無法地帯なのだ。誰も取り締まれない、全ての人に権利があり全ての人に権利などない。全ての秩序が崩壊する場だからこそ恋愛なのだ。その混沌から美しいものだけをとり出すことはできない。(略)人と人が生きるってもっと抜きさしならないところに追いつめられて追いつめて、追いつめる自分の醜さに耐えて、あたふた楽な方に逃げる相手のずるさを出刃包丁でさし殺すことではないのか。何の為の知性かと反論されれば、私は野生の中にある知性こそが、本当の知性だ、そして、それは人間が生き物であれば、誰でも持っているものだと思う。

恋愛に「正義」なぞを持ち込むことの愚かさは、納得できる。清濁ない交ぜになったところからしか、始まらないものもある。それがわかった時点で終わりを迎えようとも。

難しい言葉はひとつも使われていない。なのに、拡がりをもって読む者に迫ってくる。一見断言していると思えるころでも、「ほんとはひとりひとりが考えればいいことなんだ」「思いはそれぞれのもの」という声が聞こえてくる。彼女は、私たちがふだんうまく言葉にできないこと、言いにくいことを単に代弁しているわけではないのだ。

『ふつうがえらい』はマガジンハウスから発行されたのが1991年なので、今から18年前の文章になる。『がんばりません』(新潮文庫)は、『佐野洋子の単行本』(1985年発行・本の雑誌社)を文庫化したものなので、『ふつうがえらい』より6年前の文章にあたる。2000年にはエッセイ集『あれも嫌いこれも好き』が朝日新聞社から出ている。(現在朝日文庫)

佐野洋子のエッセイの本質を知るなら、『ふつうがえらい』(新潮文庫)、2003年に筑摩書房より出版され、昨年(2008年)11月にようやく文庫になった『神も仏もありませぬ』(ちくま文庫)『役に立たない日々』(2008年5月発行・朝日新聞出版)『シズコさん』(2008年4月発行・新潮社)の4冊を薦める。できれば、この順番に読むのを。最後の『シズコさん』はエッセイとは呼べないかもしれない。母親との愛憎を描いた特異な本だからだ。でも、読んで欲しい。
母親を病院に入れ、亡くし、自身が癌におかされ余命2年と宣告される彼女の人生の流れに添って読めば、ことばの響き方も違ってくるように思えるからである。

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ひばり(雲雀) ルナール~~ヴォーン・ウィリアムズ

一つのことに触発され、記憶の奥底に眠っていたものが甦ってくることが時々ある。今回はひばり(雲雀)だった。先日、R.シュトラウス『4つの最後の歌』について書いた際、曲中フルートによって、ひばりのさえずりが奏でられていることに触れた。同曲を何度も聴いたことがきっかけとなったのか、突然、昔読んだルナール『博物誌』(岸田国士訳・新潮文庫)の中に、「雲雀」があったような・・・と思い始める。気になって本棚の奧から引っ張り出して来たらやはり、「雲雀 ひばり」が載っていた。驚いたのはそのことではない。書かれている文章にだ。

私はかつて雲雀というものを見たことがない。夜明けと同時に起きてみても無駄である。雲雀は地上の鳥ではないのだ。(略)
そら、聞こえはせぬか-どこかはるかに高く、金の杯のなかで水晶のかけらを搗(つ)き砕いているのが……。
雲雀がどこで囀っているのか、それを誰が知ろう?
空を見つめていると、太陽が眼を焦がす。
雲雀の姿を見ることはあきらめなければならない。
雲雀は天上に棲んでいる。そして、天上の鳥のうち、この鳥だけが我々ところまで届く声で歌うのである。

文庫の奥付は昭和五十八年七月三〇日 三七刷となっている。20年以上前に読んだ本の詳細までは覚えていない。なのに、私が曲の中で抱いたイメージと重なっている。久しぶりにルナールの『博物誌』にさっと目を通す。ユーモラスで、時に辛辣、でも嫌みがない。自然を見つめるあたたかい眼差しの裏に、寂し気な表情が透けて見えてくる、不思議な本だ。ルナールは『にんじん』が有名だが、『葡萄畑の葡萄作り』(岸田国士訳・岩波文庫)もいい。

ひばり(雲雀)の音楽と言えば、やはり、ヴォーン・ウィリアムズの『揚げひばり』だろう。
田園の光や風をゆったりと感じさせてくれる管弦楽をバックに、空を舞い上がるひばりがヴァイオリンによって叙情的に表現される。ヴォーン・ウィリアムズといえば、あの哀感漂う、美しい『グリーンスリーヴズによる幻想曲』が有名だが、『揚げひばり』を含め、ほかにも魅力的な曲があるので聴いて欲しい。

〔 推薦盤 〕

『ヴォーン=ウィリアムズ 管弦楽曲集』バリー・ワーズワース指揮 ニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団  
上記の曲以外に、『トマス・タリスの主題による幻想曲』ほか詩情あふれる曲が入っています。なお、このアルバムでは『揚げひばり』ではなく、『ひばりは昇る』という邦題になっています。

『イギリス管弦楽傑作集』 バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団
『揚げひばり』『グリーンスリーヴズによる幻想曲』はもちろん収められていますが、『トマス・タリスの主題による幻想曲』などが入っていません。その代わり、ディーリアス、ウォルトンなどの曲が入っていて、それらの作品がまた素晴らしい。※残念ながら、国内盤は入手が難しいようです。

一部曲は重なりますが、2枚とも手元に置いておきたい名盤。聴いていると、その心地よさに、時の流れを忘れてしまいます。

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『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社)

特集本は隅々まで読む必要はないし、記事内容によっては、必ずしもタイムリーに読まなければならないこともないと思っている。実際私も、この『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社)は全体の6割強しか読んでいない。高名な精神科医で、魅力ある著書を数多く出している中井久夫との対談、吉本隆明の記事、鶴見と編集グループSUREなどで活動を共にしている、黒川創による鶴見俊輔入門記事、そして自選アンソロジーの中の「退行計画」に惹かれ購入。

中井との対談はやや物足りない。鶴見が主役とはいえ、中井がほとんど聞き手、しかも話を自ら展開するきっかけもないまま、「そうですね」が多く、受けにまわってしまっている。友人の自殺をきっかけに、医局制の問題を衝く医学部批判を書いた28歳の頃に、自分の文体を獲得できたと語っているところがまあまあ長めの発言。(実際はもう少し話していたかもしれないが、流れの中でまとめられてしまった可能性がないとは言えない。しかし)もっと、中井自身の言葉を聞きたかった。
驚いたのは、先日ETV特集「吉本隆明語る」の中で、吉本が桑原武夫の第二芸術論を批判的に取りあげていたが、鶴見も同じことに言及していることだ。

桑原武夫が戦後間もない頃、俳句を否定するような「第二芸術」論を書きました。あれは政治文書としては今も当たっているとは思う。しかし文学論として扱えば、あれはだめ。曖昧さを見ることができていない。「第二芸術」論では和歌・俳句について間違っている。

自分を京大に招き、更に人文科学研究所の助教授にさせた桑原をそのように語るところが、いかにも鶴見俊輔らしい。
ヘレン・ケラーと実際に会って、「私はそのとなりのラドクリフという大学でとてもたくさんのことを学んだ。だが、そのたくさんのことをunlearnしなくてはならなかった」という言葉を聞く。その「unlearn」を「学びほぐす」と訳し、その姿勢を良寛の漢詩や和歌に見る。

中島岳志との対談では、葦津珍彦の影響を受けていることを認め、幕府が倒れたのも「腐っているものが倒れるのは当然」と言う。今の日本政府も腐っているが、潰すだけの力が日本社会の中にないとも語っている。
また、日露戦争時の児玉源太郎や小村寿太郎を、スピノザの『エチカ』からの言葉を用いて、「つくる自然」の人、すなわち、「我々が日本国家をつくるんだという意識をもっていた人たち」と捉え、続いて世界史及びアジア史における明治維新の重要性を説いているところは、とても興味深かった。

吉本隆明は、鶴見の「明治の歌謡-わたしのアンソロジー」(1959年)という文章を読んだ時に、「ナショナリズムの側面をはっきりさせないで、民主、平和といいことばかり言っても意味がないと思いました。それを読んで、この人は本格的な人だなと感じた」と語っている。そして、「戦後リベラルの中でも、あの人は最良ですね。僕なんかが大きな影響を受けた丸山真男でも鶴見さんのような幅のある見識はなかった。ですから、学問があったり知識があったりということと違う何か持っている人ですね」と高く評価している。転向論やべ平連問題では対立点はあっても、認めるべき所は認める。これは両者に共通している。
そして、次のようにも語っている。「戦争自体が悪だと考えるべきですね。その両義性を鶴見さんはよく理解しているのではないでしょうか」。

フランス文学者海老坂武は、鶴見と吉本による対談「どこに思想の根拠をおくか」に触れ、「戦後二十年の日本の思想史が凝縮されている、とすら言える」と述べている。
私は、『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』(筑摩書房・1989年第5刷)で読んでいたが、今回改めて読み直し、相手から投げかけられる疑問、批判的意見から逃げることなく、両者が見事に対峙しているとの感を強めた。

黒川創による、鶴見俊輔の解説はわかりやすくまとめられている。「展望」1968年3月号初出となっている「退行計画」は、鶴見俊輔という人間を知る上で、恰好の材料であろう。
主要著作解題の章も、いくつか読んでみたら、紙幅が限られている割には、充実している。また、巻末の著作案内もコンパクトでありながら、指針として役立つ。

特集本は概して、ある程度その人物の著書を読んでいないと、焦点が散漫になり、人物像をつかみにくくなる嫌いがある。
とはいえ、本書は自選によるアンソロジーが全体の約35%を占めていることも含め、鶴見俊輔に興味があるならば、入門書としてもお薦めできる。

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信頼できる心の友 小児科医

以前「友と出逢い 本と出会う」という記事の中で触れた、現在小児科医として、クリニックを開いている友のことです。頭は文系なのに、特別な理由があって医者を目指したと書きましたが、彼は、小さい頃から足にハンディキャップを持っていたのです。しかし、運動神経は抜群で、休み時間に野球をした時には驚かされましたし、卒業後テニスをした時も、かなわなかった。高校、医大では卓球部所属。信じられないほどの本を昔から読んでいる彼のブログから、二つほど紹介してみたくなりました。

一つ目は医大で卓球をしていた頃を振り返っての話。

6年生までクラブを続けて、一番うれしかったのは、尊敬していた先輩に
『俺が一番嬉しかったのは ○○が試合で短パンはいた時だ』と言われた時でした。
100メートルは18秒でも、工夫次第で戦えるのはわかっても、4センチ短くて、細い足を見せることが始めて大学生で出来たのをその先輩は覚えていてくれました。
お尻の大きさ違うからジーンズはいたことはありません。
でも、その頃付き合っていた彼女は、お尻にポケットのない短パンの内側にお尻がちいさく見えないように、タオルを入れる内ボケットを着けてくれました。
喉元過ぎればなんとやら、今では夏いつも短パンです。(略) 自分のハンディキャップは目に見えるから、優しくして貰えて、楽なことだったんだって今は思えます。でも、やっぱり自分をつくってくれた不具合だと思っています。
どうしても出来なかったことはとても普通のことでした。

親御さんにはけっこう厳しい先生という評判です。一番近くで見守ってあげなくてはならないのが親だということを説いている姿が浮かんできます。怒られたと思って来なくなる若いお母さんがいるとしたら、寂しいことだなと思います。医師としての愛情ゆえに違いないはずだから。

二つ目は、仲間7、8人と「何時間人を待てるか」という話題になり、高校の時に7時間待った経験を持つ彼は、2番目の長さだったということ。
彼に聞いたら、いろんな歌を聴くので、完全に自分の作というより、無意識に誰かの歌の歌詞が混じっているかもしれないよとのことですが、こんなことを書いていました。

どうして君を好きになってしまったんだろう
と思いながら、本当にあきらめられるまで待ちました
途中からは、自分自身があきらめきれるのを待ってました

こういう心情って、男にはというより、自分にもあったなと、しんみりしてしまいました。
彼に魅力を感じたのも、自然なことだったんだなと思えるのです。
彼が自身のブログで、医大卒業時進路を決めてくれた本(絶版)を挙げていたので、日本の古本屋に注文し取り寄せました。
日下隼人『子どもの病む世界で』(ゆみる出版)。
今日プロローグの部分を読んで、これは簡単には読めるものではないと、一端閉じました。激しく心を揺さぶられそうな、重い本だと思えたからです。
彼も久しぶりに読んだみたいで、次のような感想を書いていました。

24年ぶりに読んだら、字が小さくてつらいけど『どうしてこんなに優しく出来るんだろう』と同じ思いをまた持ちました
自分なりにはあれだけ強い気持ちを持ったつもりで道を選んでも
やっぱり努力しても得られない優しさをもつ人がいるんだと思います

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ETV特集「吉本隆明語る」(2009.1.4放映)を見る

90分という枠で、戦後思想界の巨人、吉本隆明の本質を描くことなど到底不可能とは思っていたが、予想通り断片的にしか伝えられていなかったというのが、正直な感想である。また、3時間に及んだという講演の3分の1も、番組には収められていなかったはずで、初めて吉本の語りを聞いた者にとっては、わかりにくい点が多かったのではないだろうか。
一歩進んでは立ち止まり、半歩後退したかと思うと二歩、三歩と進んで、また立ち止まる。たどたどしい語り口は、昔と変わらない。絶えず自分の中の言葉を紡ぎ出すことに苦闘している。
しかし、30年以上吉本の著書を読み続けてきた私には、「真実」と思える言葉を真摯に探る姿こそ、吉本隆明そのものであり、熱いものが伝わってきた。
以下、番組の内容を簡単にまとめながら、感想を述べてみたい。

いきなり、自らを「主戦主義者」だったと語り出すところなど、正直な人だなと共感を覚えた。終戦時、「生きていることの恥ずかしさでいっぱいだった」とも言っている。〔私は、吉本は右でも左でも、中道でもないと思っている。そんな枠には収まりきらない〕。
精神的には虚無に近い状態の中で、それまで身につけてきた教養が全く役に立たないことを自覚し、「世界をどう把握するか」を自らの課題として、古典経済学を学び始める。アダム・スミスからマルクスまで。スミスの『国富論』の中から、リンゴを枝からもいで取ってくるまでの例を挙げ、労働価値説に触れるが、TVの放映内容だけではわかりにくいように思えた。
吉本思想の大きな要である、マルクスとマルクス主義の違い、反スターリニズムについて触れられていないのも残念であった。もっとも、そのことに時間を割くわけにはいかなかったであろうが。

そしていよいよ「芸術言語論」。他人とのコミュニケーションのために用いられる「指示表出」の言葉は枝葉であって、言語の根幹は、沈黙にある。沈黙に近い、片言、ひとり言ともいえる「自己表出」が芸術の価値を形成していると語り始める。
著書『言語にとって美とはなにか』において、「自己表出」「指示表出」の概念に関しては、あらゆる角度から説かれているが、そう容易に理解できるものではない。ゆえに、話はもう少しわかりやすい具体例を挙げながら進められていく。
日本の俳句など、作者の名前を伏せてしまえば、芭蕉の句とて素人のものと見分けがつかないではないかという、桑原武夫による「第二芸術論」への批判として、小林秀雄も言っているように、芭蕉の句はバルザック、ヴァレリーなどの海外の芸術に、「自己表出」においては決して劣るものではないと語る。
〔※長編小説において、物語の起伏性が芸術的価値に間接的に関与していることを、小林が見落としていると、別のところで吉本は書いているが〕
日本の芸術は「短くすることによって蘇生させようとする」ものだと。
確かにバルザック、ドストエフスキーなどの海外長編文学は、純文学にして大衆文学の要素も兼ね備えていて見事ではあるが、物語に起伏を与えているのは「指示表出」の言葉であって、副次的なものであると語る。
その後、機能主義(ファンクショナリズム)の危うさを説くために、マルクスに触れる。
労働価値を付加していけば、つまりひとつの作品を直せば直すほど、芸術的価値も上がるというマルクスの考え方に異を唱える。「即興的に書いたって、いいものはできる」と。
予定の時間をオーバーし、熱弁を続ける最後のところで語られた内容は、特に印象に残った。

言葉の使い方という点では、現代人の方がはるかにたくさんの言葉を使える。しかしながら、それぞれの分野に専門化していることも否めない。そう話すことで、(はっきりとは言っていないが)吉本は現代の文学における密度の薄さを嘆いているようにも思える。
そして、こう結ぶ。
文明的価値も科学的価値もない時代の(万葉、古今、新古今などの)歌には「全人間力」が込められている。気分、感覚、情操というものが集約されていて強烈である。現代の方がよくなるというものではない。1000年や2000年で人間力の差はでないはずなのに・・・、と。

「半世紀もかけて考えてきたことを、そう簡単にはしゃべれない」という言葉が重く感じられた。
講演の最後近く、聴衆には目も向けず、上を向いたまま語り続ける姿は、まさに吉本自身が「自己表出」の言葉を絞り出しているように、私には思えた。

この番組で語られていたことを、もう少し詳しく知りたいと思うなら、吉本隆明著『日本語のゆくえ』(光文社)が役に立つはずです。 『「言語芸術論」への覚書』(李白社)という本も出ていますが、こちらはTVでとりあげた講演内容とは、ほとんど重なるところはないのでご注意ください。
ただ、最初にとりあげられている「神話伝承と古謡」「歌集『おほうなはら』について」という、やや専門的な文章を除けば、吉本隆明の人間性が明確に出ている、いい本です。

「言語のコミュニケーションとしてはゼロに等しいけれども、自分が自分に内心で問うている。その状態が「自己表出」です。それが芸術的な価値の純粋な意味になると、ぼくは理解しています」
「自分と、それから理想を願望するもうひとりの自分とのあいだがどれだけ豊富であるかということ、これが自己表出の元であり芸術的価値の元である」 
吉本隆明『日本語のゆくえ』(光文社)より

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2009年 古本買い初め

古本、新刊を問わず本屋には、できるものならわずかな時間でも構わないから、毎日でも訪れたい。この性癖は生涯直らないように思える。正月2日から早速行動開始。

2日 ブックオフ
● 大原富枝『息にわがする』(朝日文芸文庫) 『地上を旅する者』(福武文庫) 各105円
 私にとって、好きな作家と言うよりは、読まねばならぬ作家という位置づけである。事実、『婉という女』『アブラハムの幕舎』には圧倒された。『建礼門院右京大夫』には唸った。『息にわがする』はまだ読んだことのないエッセイ集。 『地上を旅する者』は今から読むなぞ、遅すぎるくらい。これに続く『地籟』(文藝春秋)も年内には何とか見つけて、読みたいと思っている。
● 『現代短編名作選2 1948-1950』(講談社文庫) 105円
 田中英光 「さようなら」、林房雄 「四つの文字」を読みたくて。
● 車谷長吉 『贋世捨人』(文春文庫) 105円
 この人の作品を読むにはある種の覚悟が要る。精神状態が向かないと思える時には、遠ざけた方が賢明だ。と言いながら、読まずにはいられない。
● 河盛好蔵 『回想の本棚』(中公文庫) 105円
● 井筒俊彦 『イスラーム生誕』(中公文庫) 105円
● 渡辺慧 『生命と自由』(岩波新書) 105円
●  桑野隆 『バフチン 〈対話〉そして〈解放の笑い〉』(岩波書店) 500円

3日 ブックオフ
● クライスト 『チリの地震』〈種村季弘訳〉(河出文庫) 105円
 ドイツ文学にある程度の造詣があれば知らない者はいない、34歳で自殺した19世紀初頭の孤高の作家。岩波文庫で『ペンテジレーア』『ミヒャエル・コールハースの運命』『O侯爵夫人 他六篇』『こわれがめ』は既読。河出文庫版には、「チリの地震」ほか6篇は岩波の『O侯爵夫人』の中にも入っている。しかし、「チリの地震」を一読して、同じ作品とは思えぬ趣に、読後言葉を失う。
狐のペンネームで有名な書評家、山村修が『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)の中で、「マニエリスト種村季弘のこうした姿勢が、訳文にも影響しているとみていい。チリの大地震という十七世紀の史実を背景に、男と女の恋の異常な結末を書く表題作など、訳文の日本語が、さながらうねるがごとく波立つ」と書いている。全く同感である。
お薦めしたい本だが、残念ながら品切れで入手困難。

● 山村修 『気晴らしの発見』(新潮文庫) 105円
 後は、『遅読のすすめ』(新潮社)を入手できれば、狐=山村修に関しては、満足できる。

3日 古書店
● 保田與重郎 『後鳥羽院』(保田與重郎文庫4 新学舎) 400円
 言わずと知れた日本浪曼派の泰斗。戦時下の言動を批判され、終戦後、言論界から黙殺された。著者の本を読むことはタブーともされていたようだ。橋川文三『日本浪曼派批判序説』を先に読んでいれば、抵抗を覚えることがあっても不思議ではない。1960年後半以降の復権がなければ、こうして保田の多くの著作を文庫で読める環境にあったかどうかわからない。

『日本浪曼派の時代』『英雄と詩人』『ヱルテルは何故死んだか』ほか何冊かは、新学舎の文庫を購入して読んだものの、『後鳥羽院』には手が伸びなかった。そろそろ購入しようと思った時には、書店から姿を消していた。通常とは違う棚にひっそりと埋まっていた『後鳥羽院』が、私に微笑みかけてくれた。
『後鳥羽院』の中の、「近世の唯美主義」「近世文芸の誕生」は、『保田與重郎文芸論集』(講談社文芸文庫)に収められている。同書には、必読とも言える「日本の橋」も入っている。

● 奧浩平 『青春の墓標』(文春文庫) 300円
 単行本(ソフトカバー)と、同じ文庫を2冊所有しているのだが、つい購入してしまった。人に贈呈したものも含めれば、5冊は買っているだろうか。この他にも、樺美智子『人しれず微笑まん』、大宅歩『詩と反逆と死』、原口統三『二十歳のエチュード』、岸上大作『意志表示』などは、見つけるたびに値段に関係なく買ってしまうので、これまでに何冊購入し、何冊人の手に渡ったか正確には覚えていない。

● 臼井吉見 『大正文学史』(筑摩叢書) 200円
 友人が、臼井吉見の孫なので、気になった本は買うようにしている。
● 紀田順一郎 『日本の書物』(新潮社) 300円

まだまだ家じゅう、本の詰まった段ボール箱が積み上げられたままなので、今年は古本買いも、昨年より少な目にしようと思う。たぶん、無理。

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2008年 本とCD

今年印象に残った本とCDをいくつか。本に関しては、小説はほとんど新刊で読むことがなくなってしまった。ミステリー、エンターテインメントの類も然り。話題になっても、どうしても読みたいという気持ちにならない、読んでおかねばなるまいという気持ちにもならない。歳のせいばかりでなく、魅力ある作家が少ないとうのが正直なところだ。
新刊よりも古本で買うことが今年は多かった気がする。取りあげたのは、あくまで今年発売されたもの。よって、新刊とは限らず、復刊、改訂、文庫化、新書化、再編集された本も含んでいる。★は推薦本。

〔 単行本 〕
★  荒川洋治 『読むので思う』(幻戯書房)
★ 佐野洋子 『シズコさん』(新潮社)
★  ねじめ正一 『荒地の恋』(文藝春秋)
★ 多田富雄 『寡黙なる巨人』(集英社)
★ 吉本隆明 『日本語のゆくえ』(光文社)
● 吉本隆明 『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局)
● 岡崎武志・山本善行『新・文學入門』(工作舎)

〔 新書 〕 
★ 湯浅誠 『反貧困 -すべり台社会からの脱出』
● 岩田靖夫 『いま哲学とはなにか』(岩波新書)
● 大澤真幸 『逆接の民主主義―格闘する思想』(角川oneテーマ21)
● 吉本隆明 『「情況への発言 全集成1~3』(洋泉社MC新書)
● 山際素男 『チベット問題』(光文社新書)

〔 文庫 〕
★ 山村修 『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)
● コールズ 『シモーヌ・ヴェイユ入門』(平凡社ライブラリー)
● サルトル 『存在と無Ⅲ』(ちくま学芸文庫)
● チェーホフ 『カタシンカ・ねむい』(岩波文庫)
●澁澤龍彦『澁澤龍彦 書評集成』(河出文庫)

〔 雑誌 〕
★ 『考える人 海外長篇小説ベスト100 2008年春号』(新潮社)
● 『東京人10月号 アウトロー列伝』(都市出版)
● 『東京人12月増刊 三鷹に生きた太宰治』(都市出版)

〔 CD 〕 発売年月日に関係なく、今年購入したものから。
■ バッハ 『マタイ受難曲』 リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団(1958年録音)
■ マーラー 『交響曲第2番 復活』 メータ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 上記2枚はSHM-CDで再購入。音が格段に良くなり、改めて感動。
■ マーラー 『交響曲第3番』 ハイティンク指揮 シカゴ交響楽団
 バーンスタイン盤以外、何を聴いても満足いかなかった。ようやく2枚目の愛聴盤が現れた。
■ブルックナー 『交響曲第8番』 テンシュテット指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1981年ライブ)
■ベートーヴェン 『弦楽四重奏曲第14番・16番』 ヴェーグ弦楽四重奏団
■ ワーグナー 『ニーベルングの指輪』 カイルベルト指揮 バイロイト祝祭管弦楽団(1955年ライヴ)
購入を迷っているうちに、品切れになってしまっていた。この一年かけて、ディスクユニオンに通い、中古で国内盤を揃える。ショルティ盤を凌駕。これで指輪は、カイルベルト盤とベーム盤が私にとっての両輪。後はブーレーズのDVDがほしいところだが、残念ながら我が家にはDVDプレーヤーがない(笑)

よいお年をお迎えください。

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「荒地」と「どん底」

四谷書房さんが12月25日の日録の中で、田村隆一『若い荒地』と「どん底」に触れていたので驚いてしまった。

というのも、ねじめ正一『荒地の恋』(文藝春秋)を面白く読み、田村隆一の『若い荒地』が講談社文芸文庫で発売された際、気になってすぐに購入していたからだ。まだ通読はしていない。詩について、それほど詳しいとは言えぬ私には、中身がかなり濃いため、一気に読めるものではなかった。

しかし、鮎川信夫、中桐雅夫、三好豊一郎、北村太郎などの若い頃の様子を知ることができ、田村のこの手の文章は初めて読むことになるので、興味は尽きない。上記4人に田村を含めた5人による座談会、鮎川、中桐、佐々木幹郎による解説、鮎川の日記などを含め飛ばし読みした程度だが、彼らの熱気がひしと伝わってくる。
本文144頁から162頁に亘る「最初の『死』の完成」には心打たれた。詩人牧野虚太郎の存在を私は知らなかった。もちろんその死も。ここでとりあげられている、中桐、三好、鮎川の追悼の文章は哀切で美しい。

そして、「どん底」。おそらく新宿三丁目の居酒屋「どん底」のことだと思う。三島由紀夫、美輪明宏、越路吹雪、野村萬、美川憲一、岸田今日子、吉行和子、富士真奈美、山下洋輔など、多くの有名人も足を運んだ店である。先般亡くなった峰岸徹もその一人だ。
22~23歳の頃、一人でよく足を運んだ。地下のカウンターが好みの席だった。誰かと話すわけでもなく、ただそこで飲むのが心地よかった。午前0時を過ぎると客層も変わってきて、彼らの話に耳を傾けるだけで酔えた。ほとんど安アパートで飲んでいた中、唯一の贅沢だったような気もする。社会人になってから、友人や会社の後輩などを連れていった。みな一様に興味を抱き、また来たいと言っていたものだ。もう7年近く行っていないが、この夏の昼間、近くを通った際に足を向けてみたら、あの佇まいのまま店は残っていた。久しぶりに行ってみたくなった。

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言葉にならないことば 言葉と沈黙 

言葉は難しい。そのひと言で救われることもあれば、何気なく向けられたひと言に深く傷つくこともある。どれだけ言葉を費やしても伝わらない想いもあれば、言葉などなくても、寄り添っているだけで、想いが伝わることもある。長年連れ添った相手、心から信頼できる友であっても、言葉にしなければ伝わらないことがある。
一方、沈黙はどうだろう。峻拒の表明。あるいは、敢えて言葉にしないのが愛情ということもあり得る。
言葉と沈黙。本質的な部分では、補い合い、支え合っている。言葉は、時に沈黙を背景として際立ち、沈黙は無ではなく、多くの言葉が語られる中で、大きな意味を持つ。

スイスの哲学者マックス・ピカートに『沈黙の世界』(みすず書房)という著書がある。沈黙を失ったがゆえに、人間の本質が変わってしまったと、警鐘を鳴らしている。60年も前に書かれた本だが、現代のように言葉や音が、あたかも記号の如く消費されることを予見しているのだ。ピカートは、自然、文明、病と死、など多くの場面における沈黙の本質、意義を説いている。

「沈黙は言葉にとって自然であり、休息(いこい)であり、未開の原野である。沈黙によって言葉は、言葉自身によって生じた暴虐から身を清める。沈黙の中で言葉は息をひそめ、そしてふたたび根源的な力でもって自己を充たすのである」。
「沈黙は言葉がなくても存在し得る。けれど、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もし言葉に沈黙の背景がなければ言葉は深みを失ってしまうであろう」。
「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙は単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである」。

私は、ピカートが、沈黙に至上の価値を見いだしているとは思えない。沈黙が内包する豊かさを感知できれば、この世界が、より奥行きをもって現前することを伝えている。

また、ピカートは、根源的な愛の在り方を次のような言葉で語っている。

「愛の中にはことばよりも多くの沈黙がある。恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人は、その言葉よりも沈黙に聴き入っている」。
黙って!あなたの声が聞こえるように」。

歌手長渕剛が、以前次のように語っていた。

互いが理解し合う時、その共通言語なんてほとんどないと思っています。口に出せば出すほど、自分の想いはますます空回りします。そして、わかってもらえたかなあと半端に期待して、そのあげく想い通りの答えが返ってこないことを恐れるのです。そして、ますます、また孤独になります。だから、「そんな事わかってるだろう?」というところから常に出発するのです。その人間の内側から発せられる手段が言葉だとすれば、さらにその言葉の裏側というか、内側の想いを理解しようと努めます。「なにを言いたいんだろうか?」と考えるのです。だから、瞳と背中しか信じません。それだけで、充分ですから---。

長渕は言葉を否定してはいない。良くも悪しくも人に影響を及ぼす言葉の力、危うさというものを受けとめている。そうでなければ、言葉に想いを託して歌うことなどできないはずだ。内奥から発せられる「ことば」に耳を傾けようとしている。それが、「瞳と背中しか信じません。それだけで充分ですから」という言葉になったのではないだろうか。

私は「沈黙」の重要さを感じている。と同時に、「言葉」も大切にしたい。言葉は両刃の剣でもあるから、よりいっそう大事にしたいと思う。相手に自分の「ことば」が届くように。容易なことではないが。

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映画『八甲田山』の音楽を流すCMに違和感

芥川也寸志作曲『八甲田山』を愛聴している。車の中、自室でも。

映画『八甲田山』は4回観た。原作である新田次郎『八甲田山死の彷徨』も、もちろん読んでいる。日露戦争の始まる二年前、八甲田山における雪中行軍で、200名近い死者を出した悲劇を描いたものだ。

サッカーの試合、ドキュメンタリーを除くと、TVはほとんど見なくなっている。たまたま見ていたニュース番組内の某携帯電話のCMで、突然八甲田山の音楽が流れてきた。CMの情景との齟齬に耳を疑った。制作者の意図が全くわからなかった。ネットで調べ、事情がわかり、さらに呆れた。CMに登場する犬の声は、映画で神田大尉役を演じた、北大路欣也の声だということ。で、『八甲田山』?
新田次郎、作曲した芥川也寸志が生きていたら何と言うだろう。
大手広告代理店がからんだ、たかが企業のCM。目くじら立てることのほどではないという声があろうと、この違和感は拭えない。

映画『八甲田山』には、忘れられない場面がある。高倉健演ずる徳島大尉が、雪の山中を案内してくれた村の娘さわ(秋吉久美子)に対し、「案内人殿」とよびかけ、三十一聯隊の兵士とともに最敬礼する場面。もうひとつ、今は亡き緒方拳演ずる白髪の老人が、生き残った兵士として、映画の最後に花の咲き乱れる八甲田山を訪れる場面。雪の八甲田とはあまりにもかけ離れた、美しい情景。いずれも、原作にはない設定ではあるが。
芥川也寸志の音楽も、単なる映画音楽と呼べないほどの完成度をもった、名曲だと思う。

八甲田山における悲劇という史実を考慮しない音楽の採用。良識を疑う。

※その後、同CMを何度か見て抱いた感想を改めて書いてみた。興味のある方はそちらもどうぞ。 CMの音楽とメッセージ 映画『八甲田山』の音楽を流すCMに違和感(2)

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友と出逢い 本と出会う ー高校から浪人時代にかけての回想ー

彼らと出逢わなければ、自分の読書の歴史や傾向も随分変わっていたかもしれないと、今でもよく思う。

それまで、全くと言っていいほど、本を読まなかった私が、中1の夏に一冊の本をたまたま手にとった。三浦綾子『塩狩峠』(新潮文庫)である。キリスト教に関心があったわけでも、誰かに薦められたわけでもなかった。自己犠牲の精神の尊さに打たれ、本に魅力を感じるようになった。それがきっかけとなり、読書に開眼。

最初は文庫で日本の作家の代表作を手当たり次第に読み漁った。小説以外は、安吾の『堕落論』、小林秀雄を少々。漱石『三四郎』、川端『山の音』、谷崎『春琴抄』、志賀直哉『暗夜行路』、深沢七郎『楢山節考』などが特に好きだった。太宰にはかぶれ、文庫で手に入るものはすべて読んだ。啄木の歌集、光太郎の『智恵子抄』も繰り返し読んだ記憶がある。

中3になって海外文学へ。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、プレヴォー『マノン・レスコー』、リルケ『マルテの手記』、E.ブロンテ『嵐が丘』は2度続けて読み、ポーの短篇、チェーホフの短篇、トルストイの『アンナ・カレーニナ』はお気に入りになった。そして、ドストエフスキー。完璧にのめりこんでしまった。未だに手元には、下手くそな字で書いた、登場人物の相関図が残っている。作中、愛称も使われるので、これには随分と助けられた。

ここまでは取り立てて話すほどもない、どこにでも転がっている話である。

小説一辺倒だった私に一つの転機が訪れたのは高2になってからである。クラスは一緒ではなかったが、一目置いていた男から「これ読んだことあるか。○○(私の名)なら気に入ると思うぜ」と渡されたのが、倉田百三『愛と認識との出発』だった。夢中になり、夜を徹して読んだ。『出家とその弟子』は読んでいたが、この本の存在は知らなかった。

それからしばらくして、渡されたのが吉本隆明『情況』

マルクーゼ、フーコー、アルチュセール、フーリエ、レヴィ=ストロース、ウィーナー、ゲーデル……。いったい誰? プラグマチズム、アナルコ・サンディカリズム、関係の絶対性、共同規範としての言語、構造主義、重層的決定、不完全性定理、サイバネティックス……。何のこと?一ヶ月かけても読み通すことはできず、ほとんど理解できなかったと言える。ただ、その容赦ない語り口、独特の言い回し、鋭い観察眼には強く惹かれた。自分の読書体験の中で出会ったこともない世界だった。

大学紛争における教授陣たちの姿勢に対する批判、太宰の逸話に触れながら何人かの文学者のいんちきさを説いているところには共感を覚えた。前田武彦、野末陳平、青島幸男、大橋巨泉などの芸能人を扱った章は、とりあげる対象が他の章とは異質だが、同じ著者の「ことば」で語っている、つまり、ぶれたりせず、同じレベルでさばいているように感じられ、面白く読めた。

同い年の人間が、こんなものを読んでいることに大きなショックを受け、自分の世界の狭さを恥じた。私の貧弱な読書の畑に、彼が大きな種をまいてくれたと、感謝している。

今では、吉本隆明自身の著書、雑誌『流動』『テーゼ』『ユリイカ』『現代思想』『現代詩手帖』などの吉本特集、多くの吉本隆明論を含めると200冊を超える吉本関連本が手元にある。

もう一人、同じ高校の友人。授業の厳しさ、難しさゆえ、畏怖されていた国語の教師が、ただ一人絶賛したという彼。お互い浪人が決まり、予備校が同じになった。彼は国立コースだったため、校舎も授業時間も別だったが、共に過ごす時間がどんどん多くなっていった。二人とも気に入った英語の人気講師がいた。コースが異なると教材が違うので、互いの教科書をコピーし、もぐりで授業を受けた。顰蹙を買いそうだが、当時は当たり前のように行われており、講師自身が承知していた。小さめの教室の後ろには立ち聴きの列、すごい時は、開いたままのドアの外から覗き込んで聴いている者もいたくらいで、誰が見ても一クラスの人数を遙かに超えている。のどかな時代であった。

彼も私も、自分のカリキュラムの半分はエスケープしていた。こんなつまらない授業を聴いているくらいなら、喫茶店で本を読んでいた方がいいと思うところが、似ていたのだろう。彼のバッグは、いつも異様に膨らんでいた。教科書に辞書を2冊加えてもそんなにはならないというほど。一緒に過ごすようになって間もなく、中を見せてもらった。白い大きな本が入っていた。メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房)。言葉を失った。

吉本隆明の本は少しずつ読む量が増えていたものの、哲学となるとサルトル『嘔吐』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』、デカルト『方法序説』くらいしか読んでいない。当然、その分野では彼の話し相手はつとまらない。時折解説してくれたが、こちらには下地がないのだから、理解できるはずもない。それゆえ、話題は自ずと文学になったが、2時間、3時間話しても飽きなかった。秋の気配が感じられるようになった頃、彼はフーコーの『言葉と物』に挑んでいた。

なんとか浪人生活から抜け出した後、彼の影響もあって、哲学、思想書ばかり読みふけるようになっていた。それは同時に、古本屋通いの始まりでもあった。

最初の彼は、本来なら完璧に文系の頭なのだが、特別な動機があって、小児科医になった。今も1年に一回くらいは会っている。相変わらずの読書量だ。浪人の時の彼とはもう20年以上会っていない。どこで何をしているのか、私の知人で知る者がいない。

今、彼に、一番会いたい。

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鶴見俊輔 片翼をになう人

時代のメルクマールとなる人物の多くが物故してしまった現在、日本思想、言論界の両翼を担っているのが、吉本隆明と鶴見俊輔であると、私は思っている。最前線で活動しているか、その発言が若者を含め多くの者に影響を与えているか否かを、さしあたって基準とはしていない。二人が抱く「倫理」という点で、その言説の根っこの部分が信ずるに足るものか否かという点で、この二人以外の名前は、残念ながら浮かばないのだ。

鶴見俊輔の『悼辞』が、編集グループSUREより発行されることは知っていたが、「みちくさ市」(古本市)への参加に伴い慌ただしくなり、忘れていた。12月7日付朝日新聞の書評欄で重松清が取り上げているのを読み、今日仕事の合間に連絡入れるもなかなか繋がらない。朝日の影響大と思い知る。結局10分かけ続けた。年内入手は無理であろうと思っていたが、既に増刷を終えており、入手できそうだ。明日手続せねば。重松の評は鋭い切り口もなく、物足りなかった。しかし、もとより買うつもりでいたので、影響はない。

鶴見俊輔という人物を知るのに、格好の材料が手元に残っていたので、少し長くなるが、紹介したい。

2003年3月24日付朝日新聞 「殺されたくない」を根拠に イラク反戦に見る新しい形より

9.11テロ以後に始まったこのピース・ウォークの第一回で私が出発地点にきたとき、集まったのは百五十人。そのうち百人が女性で、五十人が男性だった。男性には、共通の性格があり、女にひっぱられる男だった。もう少し踏み込んで言うと、女にひっぱられて生きる役割をよろこんで受け入れる男たちのようだった。(略)

私は、土讃善麿の戦後始まりの歌を思い出す。一九四五年八月十五日の家の中の出来事を歌った一首だ。

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

明治末から大正にかけて、啄木の友人として、戦争に反対し、朝鮮併合に反対した歌人土讃善麿は、やがて新聞人として、昭和に入ってから戦争に肩入れした演説を表舞台で国民に向かってくりかえした。そのあいだ家にあって、台所で料理をととのえていた妻は、乏しい材料から別の現状認識を保ちつづけた。思想のこのちがいを、正直に見据えて、敗戦後の歌人として一歩をふみだした土讃善麿は立派である。

敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし、夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日とおなじく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。(略)

戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求めるほうがいい。理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは、自分の生活の中に根をもっていないからだ。

「理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは、自分の生活の中に根をもっていないからだ。」

戦争というものを考える際、咀嚼せねばならぬ、重い言葉だ。

まず、何から読めばいいかであるが、正直難しい。さしずめ、『期待と回想』(朝日文庫)が入手しやすく、値段も手頃であろうか。話題になった『戦争が遺したもの』(新曜社)、大衆芸術の本質をみごとに突いた『限界芸術論』(ちくま学芸文庫)などもあるが。

共著も含めると、驚くほどの著作数なので、図書館に足を運び、自分の興味あるテーマについて書かれている本から手にとってみるのも、いいかもしれない。

鶴見俊輔86歳。吉本隆明84歳。まだまだ健在でいてもらいたい。

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浅田次郎による書評集の発行を望む

極道小説、人情小説、時代小説、歴史小説・・・多才な作家である。

『プリズンホテル』『鉄道員』の中の数作品、『蒼穹の昴』、『壬生義士伝』など、好きな作品も多い。『勝負の極意』『競馬どんぶり』などは、競馬好きなら一読に値する。

が、ここで取り上げるのは書評。浅田作品についての書評ではなく、浅田次郎による、書評である。

私は彼の書評が好きだ。以前、朝日新聞日曜版で書評を担当していたが、それは一つの芸の如くすばらしいものであった。いくつか見てみよう。
※(  )内は、現在入手しやすい文庫本を表示。書評当時は単行本である。

乙川優三郎 『尾烏(おくう)』(講談社文庫)

本書に収められた六篇の主人公たちははみな、武家社会の掟とモラルに縛められながらも健気に生きる人々である。(略)人間というもの、あるいは人間社会というものの不変を改めて痛感させられるほど、彼らの苦悩はわれわれの日々に通ずる。(略)彼らはみな不可避の宿命のうちにあっても、可能な限り抗うことを忘れない。おそらく著者の時代小説におけるオリジナリティーは、この「能う限りの抵抗」であろう。読後には容易に瞼を去らぬほどの美しい風景点描とともに、時を超えたさわやかな共感が残った。

新しい時代小説作家の誕生を寿ぐ、浅田の柔和な顔さえ浮かんでくる。

『川端康成・三島由紀夫往復書簡集』(新潮文庫)

正統の文学ファンにとって、まさに垂涎瞠目の一巻である。(略)内向してゆく戦後文学の潮流の中で、日本浪漫派の遺児・三島は、一縷の光明を超越的な審美作家に見いだしていたのであろう。そして文学の聖火を後進に申し伝えることに心を摧(くだ)いていた川端は、みごとに彼を中瀬からすくいあげた。この間の書簡がある種の神聖さすら漂わせているのは、彼らの関係が人知の及ばざる奇跡の中にあったからなのだろう。歴史の偶然は個々の必然によって形成されるのである。(略)三島を評して川端は「いづれは私の名は文学史上にあなたをdiscoverしたといふ光栄なまちがひだけで残るかもしれません」と言う。彼らは、たがいの存在を担保し合いながら、死すべき時間を生きたのかもしれない。文学の神はその方法を二人の天才に許したのである。

二人への羨望と畏敬の念が伝わってくる。「たがいのを存在を担保し合う」。川端、三島の関係を、かくも短い表現で言いえた例を、私は寡聞にして知らない。

亀井宏 『弱き者は死ね』(広済堂出版)

嘘で捏ね上げた夢物語ばかり書いていると、ときおり無性に切実な私小説を読みたくなる。かと言って面白くもおかしくもない愚痴や、しち面倒くさい人生哲学はごめんだ。ただ、「わかるよなあ、コレ」と呟いてみたくなるのである。(略)比較的寡作な著者は、昭和五十五年に講談社ノンフィクション賞を受賞している。その作家的資質が夢物語のストーリーテリングを厭うものであると考えれば、長い時間をかけて網まれたこの私小説集の持つ、のっぴきならぬ切実さも、大いに肯けるところである。(略)けっして器用ではではないが、かつてのプロレタリア文学を彷彿とさせる無骨な文章も読むだに心地よい。男女の愛憎が希釈されてしまった味気ない世の中にあって、「誠実なる無頼」を見る思いがした。

私小説における自分の好みを単に言い放つのではなく、著者に添いながら、私小説の難しさをも説いている。「わかるよなあ、コレ」も、よくわかる。、実際にこの本を読めばわかることであるが、「誠実なる無頼」も、見事に本質を捉えている。

梁石日(ヤン・ソギル) 『血と骨 上・下』(幻冬舎文庫)

粗野ではある。しかし粗野であることすら忘れてしまうほどの魅力を、この小説は持っている。物語本来の矜(ほこ)りと輝きとを、この作家は無骨な掌の中にしっかりと握っているのである。その奇跡には、父なる人の「骨」と母なる人の「血」を、感じずにはおれなかった。

作品の瑕疵を認めつつも、物語の矜持、力なるものを説く姿勢に共感を覚える。

書評を書いても、小説に比すればわずかな稿料であろう。定期的に連載し、それがある程度の数にならなければ、書評をまとめ、一冊の本として世に出すことが叶わないのはわかる。

浅田次郎には、自らが編んだ、『見上げれば星は天に満ちて―心に残る物語 日本文学秀作選』 (文春文庫)がある。また、文学、小説、小説家について、インタビューや対談の形で語っている『浅田次郎読本 待つ女』(朝日文庫)もあるにはある。が、

浅田次郎による書評集の発行を、切に望む。

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