山之口貘 山之口泉 父娘
<古書往来座>の瀬戸さんが、「往来座通信」の中で、読みたい本として山之口泉『新版 父・山之口貘』(思潮社)を挙げていた。
私が抱いている瀬戸さんのイメージというものがあり、決して多くを語らない瀬戸さん故に、強く迫ってくるものがあった。
役に立つ、面白そうな情報を提供してくれたという意味は毫も無い。だからこそ、触発され山之口貘・泉親子に触れてみたくなった。
2冊所有していたので、過日催された「くにたちコショコショ市」で『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)を出品した。何かしら因縁めいたものさえ感じる。
『山之口貘詩文集』は荒川洋治が解説を書いている。
たとえどんなに繊細な詩の世界を、その詩がつくりあげたにしても、彼はこれこれこういう詩というものを求め続けて書いたのではない。一直線にただの「詩」を求め続けた。その「詩」は具体的なものとしては伝わらないのに、物体のように、はっきりした影をもっているように感じられるのだから不思議だ。(略)
また、彼はたいへんな時間をかけて、一編の詩を書いたという。それは推敲のためばかりではない。詩を書くところに自分がいる。それ以外なにごともないところで生きていたかったのだろう。それだけに彼の詩からは、ふたつとはない詩情が炸裂し、放射する。
山之口貘という詩人の生き方の根底にあった思い、詩の魅力をわかりやすく、かつ鮮やかに表現している。
この文庫には娘である山之口泉も「父は、やや変種の詩人のようである」という短い文章を寄せてはいるが、残念ながら彼女の魅力を十分に伝えるものとは云えない。
一方、現代詩文庫第Ⅱ期『山之口貘詩集』(思潮社)に載っている「沖縄県と父・など」は何度でも読みたくなる。
娘として父をみることと、好きな詩人の一人としてみることのあわいから立ちあがる光のなんと温かいことか。しかもユーモアとペーソスが妙なるバランスで混交している。
ところが、父が生まれ育った沖縄の話になると、一転してトーンが変わる。
父の死後八年たって、オキナワは沖縄県に戻った。私の子供達は、皆、沖縄を沖縄県と呼ぶことを当り前のこととして育って行く。沖縄が日本の県ではなく、さりとてアメリカの州なんかでもなかった、あの空白の時間を、彼等は知らない。そして、それに先立つ戦争を。それらをいやというほど知りつくしている人々の数は、次第次第に減っている。父の友人達の多くは、既に旅立ってしまった。今にすっかりいなくなってしまうだろう。新聞やテレビやラジオは、何喰わぬ風に沖縄を沖縄県と呼んでいる。今となっては、父のあのやり場のない憤りも悲しみも、世界の片隅にそんなものがあったことさえ、誰も気がつきはしない。全ては包まれ押しやられ、やがて新しい時代の波がそれらをすっかり呑みつくしてしまうに違いない。まるで、一匹のねずみのように。
長らく古書でしか入手できなかった、娘・山之口泉による『父・山之口貘』が大幅に増補され新版として刊行された。
「山之口獏は人間に絶望し、その絶望を自分のみっともない体の一部のようにたずさえて生きていた詩人である――。パパの微笑の温かさも優しさも私には全てそこから出ているような気がして仕方がないのです」
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