カテゴリー「クラシック音楽」の投稿

小林研一郎のチャイコフスキーを堪能

もう何年も結婚記念日らしいことはせずにいたが、母が再入院中で二人とも予定がない週末だったので、6日(日)午後、コンサートに出かけた。突然の思いつきだったために、土曜に行こうと思ったコンサート(NHK交響楽団)は全席完売。この不景気ゆえ、前日でも席を確保できるだろうと思ったのが甘かった。意外ではあったが、どこか嬉しくもある。
諦めかけていたら妻がよさそうなのを見つけた。残席わずかのところすべり込み。
小林研一郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団「どりーむコンサート」(於 府中の森芸術劇場)。
小林研一郎を初めて聴いたのはLPレコードによるチャイコフスキー『交響曲第5番』。(今倉庫に預けてあるためオケと録音年はわからず)。この曲を含め4・5・6番といえばムラヴィンスキーと思っていたので、日本人指揮者の演奏としては熱く、鮮烈な印象だった。
その後はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団による5番はCDで聴いた。もっと激しい演奏かと思っていた分、やや食い足りなかったものの、テンポの動かし方が素晴らしく、チェコ・フィルの艶のある美音も加わった見事な演奏。十八番中の十八番というのも肯ける。

そして初めての生演奏。これまで聴いて来なかったことを悔いるほどの素晴らしいものだった。
1曲目は入江一雄ピアノによるチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』。現在東京藝術大学大学院在籍中の若き俊英(25歳)。安定したテクニックで余裕を持って弾きこなし、音も美しく好感を持てた。欲を云えば、もう少し表現にこくがあればと思ったが、満足。

さて、2曲目はメインの『交響曲第6番 悲愴』。暗譜で指揮。一音一音意味を込めて表現する姿勢にただただ感服。日本のオケにもこんな演奏ができるのかと不明を恥じる。
何というリズム感。まさしく緩急自在。徒に音を粘らせ、表面的な美しさに頼らない。オケに無理矢理音を出させるのではなく、奥深くから引き出している。全曲通じて弛緩するところの無い演奏など、そうあるものではない。

第3楽章などの終わりなど、一糸乱れず、弦と管が見事なバランスを保ち、恰もここがこの楽章の最終目的地と云わんばかりの見通しのよさで酔わせてくれた。
思わず拍手しそうになってしまうほどに。

実際、抑えきれない聴衆の一部が歓喜のあまり声をあげ、拍手してしまった。3楽章の終わりを曲の終わりと勘違いしたものには、私には思えなかった。

数年に一回聴くかどうか、ある意味聴き飽きているとも云えるこの曲を、今そこで生まれている音楽のように聴かせてくれた。
決して奇を衒った演奏ではなかっただけに、これは特筆すべきことである。
生の演奏は一回性のもので、鳴った後から消えてゆく、儚いものでもある。

それだけに、惰性で流したり、音をないがしろにすることなく、ありったけの思いを込めて音楽を築き上げてゆく小林研一郎という指揮者の、音楽への尽きせぬ愛情、凄味を感じることができた。

もちろん、指揮者に応え、指揮者自らが(聴衆に向かって)魂の演奏と讃えたように、日本フィルハーモニー交響楽団の質の高さも光っていた。

チャイコフスキーの生演奏はムラヴィンスキーに2度振られ(来日中止のため)、地元のホールで聴いたシノーポリの演奏が、音響の悪さに加え、オケの流すような演奏ゆえ、記憶にさえ残らぬものだっただけに、これまでまともな演奏を聴いた記憶がほとんどない。(コンサートを聴く回数が少ないともいえるが) 唯一印象に残っているのは、ムラヴィンスキーの代理でマリス・ヤンソンスが振った5番。これは初めて聴くレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の音に度肝を抜かれたことが大きい。

ようやく、満足のいくチャイコフスキーの実演に接することができた。初めて生を聴いたにも拘わらず、小林研一郎は「CDよりも実演で聴く方が、その真価を味わえるのではないか」という印象を抱いた。
小林研一郎のチャイコフスキー『交響曲第5番』、何としても生で聴きたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「第10回 不忍ブックストリート 一箱古本市」出品本紹介(1)

10回目となる「不忍ブックストリート 一箱古本市」。今回は原点回帰の意味合いもあって、一箱の大きさが38㎝×32㎝。昨秋が50㎝×40㎝だったから、かなり小さくなる。
作業を始めた途端唸ってしまった。一度に出せる本が少ない…。
箱の底の部分を犠牲にして、お客さまが見やすいようにと考え出した<とみきち屋>タワーをもってしても限界が…。
今回は、先発とベンチ要員を分け、スペースができたら随時補充する方針でいきます。忙しくなるなあ。

それでは、<とみきち屋>出品本の一部を2回にわたってご紹介していきます。

〔海外文学の森 絶版・品切れ本特集〕

■ソルジェニーツィン『収容所群島』(全6冊揃い・新潮文庫)
■ホフマン『牡猫ムルの人生観』(上下・角川文庫)
■ナボコフ『ベンドシニスター』(サンリオ文庫)
■ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』(ちくま文庫)
■リルケ『フィレンツェだより』(ちくま文庫)
■コレット『私の修業時代』(ちくま文庫)
■リラダン『未来のイヴ』(上下・岩波文庫)
■マラマッド『アシスタント』(新潮文庫)
■トーマス・マン『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(新潮文庫)

■ヤン・ウォルカーズ『赤い髪の女』(角川文庫)
2回目の出品。山田詠美絶賛の絶版本です。

■ジャン・グルニエ『孤島』(竹内書店・AL選書)
■ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』(白水社)
■ナボコフ『世界の文学8 キング、クイーンそしてジャック 断頭台への招待』(集英社)

■マルケス『百年の孤独』(新潮社・1999年改訂版)
現在、マルケス全集の中に『百年の孤独』は当然入っていますが、全面改訳して1999年に発行されたこの版は品切れです。私はこの装幀の方が遙かに好きです。

※上記以外にも何冊か揃えます。また、品切れではない海外文学本も出品します。

〔クラシック音楽の小部屋〕

■五味康祐『五味康祐 音楽巡礼』(新潮文庫)
■五味康祐『ベートーヴェンと蓄音機』(ランティエ叢書)
五味康祐は<とみきち屋>の看板。今回も出品します。

■宇野功芳『フルトヴェングラーの全名演名盤』(講談社+α文庫)

■吉田秀和『LP300選』(新潮文庫)
復刊された『名曲300選』(ちくま文庫)には入っていない、吉田秀和による当時の推薦盤が、56頁に亘り解説付で巻末に載っています。
『300選』の新旧文庫本については以前書きました。(→こちら)

■梅津時比古『耳のなかの地図―音楽を聴くこころ』(音楽之友社)
23日に2010年度「記者クラブ賞」を受賞した梅津時比古の稀少本。かくも静謐で美しい文章を書けるクラシック音楽評論家は、吉田秀和を除いて他にはいないと思います。

■『考える人 特集 クラシック音楽と本さえあれば』(2005年春号・新潮社)
「わたしのベスト・クラシックCD」では、水村美苗、蜂飼耳、杉本秀太郎、佐伯一麦、森内俊雄、保坂和志、小池昌代、平出隆などがアンケートに答え、好きなCDを語っています。
安岡章太郎、堀江敏幸、恩田陸ほかの記事、内田光子ロングインタビューも掲載。

〔とみきち屋強引セット〕

●旧制高校生三種の神器セット
 西田幾多郎『善の研究』(講談社学術文庫)
 倉田百三『愛と認識との出発』(岩波文庫)
 阿部次郎『三太郎の日記』(角川文庫)

●深代惇郎セット
  『天声人語8 深代惇郎』(朝日文庫)
  『深代惇郎エッセイ集』(朝日文庫)

深代の文章がどれだけ素晴らしいものだったか、現在の天声人語しか知らない方に是非読んでもらえたら。

●マラルメ論セット
 ブランショ『マラルメ論』(筑摩叢書)
 サルトル『マラルメ論』(ちくま学芸文庫)

201004261153000_2

201004261206000_3

201004261235000_2

<とみきち屋>は
4月29日(木・祝) 11:00~16:00
「COUZT CAFE 藍い月」(http://www.couzt.com/)に出店します。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ブラームス、ブラームス!

先日何を見るともなくたまたまつけたテレビ。N響(NHK交響楽団)をバックに従えた女性ヴァイオリニスト、ジャヤニーヌ・ヤンセンの演奏を聴く。曲はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。既に第1楽章の終わり近くであったが、ぐいぐい引きこまれ、最後まで釘付にされてしまった。音楽が彼女のからだからほとばしり出て来る。技巧面の不安を全く感じさせず、曲と一体となり、弦を数本切りながら最後まで弾き切った。
<素晴らしい>と、思わず声が漏れてしまうような演奏を堪能。
この演奏が強く印象に残っていたからだろう。後日、久方ぶりにゆっくり音楽を聴く時間がとれた際、ジニット・ヌブー(女性ヴァオリニスト)を聴きたいという気持ちになっていた。

有能な演奏家が年輪を刻んだ末、深い表現力を得、強い存在感を醸し出すことは少なくない。そのことを考えると、30歳という若さでこの世を去ったヌヴーは夭折以外のなにものでもない。
ヌヴーは飛行機事故で命を落とした。その飛行機には奇しくも、あのエディット・ピアフの恋人も同乗していた。余りにも有名なピアフの『愛の讃歌』。絶唱の底から、恋人を喪ったピアフの慟哭が聞こえてくる。
聴く者の心を激しく揺さぶる点では、ヌブーの演奏も同じだ。
死を予感し、何かに取り憑かれているように感じられてしまうほどの、圧倒的なヌヴーのブラームス。亡くなる一年前の演奏。

■ブラームス『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』
 ジニット・ヌヴー(ヴァイオリン) イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1948年ライヴ 〔写真左〕

一音一音に全身全霊を傾け、まるで自らを切り刻み、流れ出る血を注ぎ込んでいるかのようだ。情熱の炎に包まれながら、王女の如き気品すら感じられる美しさ。稀有の名演と称えられ、長年にわたり多くの人を魅了してきたことは、一聴すればわかる。
古いモノラル録音ゆえ、音がいいとは言えない。それでも、ヌブーの迫力、演奏の素晴らしさは十二分に伝わってくる。
最初はLP、次にCD(EMI盤)と聴いてきたのだが、何かの記事でSTIL盤の音質がいいと知り、中古CDショップを探し回り、ようやく入手したのは5年ほど前だっただろうか。以来そのCDを愛聴している。現在もSTIL盤の入手は難しいようだ。(一度ディスクユニオンが入荷していたのを見た記憶はあるが)
ハイフェッツ、オイストラフ、シェリング、クレーメルほか男性ヴァイオリニストの演奏も定評はあるが、(未聴の方は)是非一度ヌブーの演奏を聴いてみてほしい。

■ブラームス『交響曲第4番 ホ短調』
 ザンデルリンク指揮 ベルリン交響楽団 〔写真右〕

ブラームスに華美な演奏は似つかわしくないと思っている。また、個人的には、細部まできちんと仕上げられた演奏、あまりにテンポが早かったり、激しすぎる表現も苦手だ。(例外もあるが) さらに音色。観念的であいまいな言い方ではあるが、どこかに暗さを漂わせていてほしい。
そういうわけで、名演の誉れ高い、ミュンシュ指揮パリ管によるブラームスの交響曲第1番などは音色、クライマックスの部分が肌に合わない。同じく評価の高いヴァントのブラームス演奏もじっくりと味わえない。敬愛するヴァントですら、そう感じてしまう。1番はベーム、ベイヌム指揮を好んで聴く。
話を4番に戻そう。カルロス・クライバー、フルトヴェングラー、ワルターほか名盤は多い。それでも、私にはザンデテルリンク指揮 ベルリン交響楽団の演奏がベストだ。

ドレスデン・シュターツカペレとのブラームス交響曲全集の水準が高かったので(とりわけ「第3番ヘ長調」は今もってベストに近いと思っている)、輸入盤を目にした時迷わず購入した。発売後じわじわと人気が高まり、国内仕様盤も登場(現在品切れ)。地道に売れ続けたようだ。しかし残念ながら、昨年夏に(ジャケットが変わり)再入荷(輸入)されたのを最後に、今は輸入盤も入手できない。

ただひたすら美しい演奏。華やかさは微塵もない。夾雑物をいっさいそぎ落とした後に残る、静謐な美しさと言えばよいだろうか。第3楽章を除き、テンポはかなりゆったりとしている。人によっては遅いと感じるかもしれない。しかし、それがまた絶妙のテンポで、音楽そのものに浸らせてくれる。
仄暗い夕闇の中から、ひとひとつの音がやわらかく立ちあがってくるかのようだ。
ザンデテルリンクの演奏が円熟した大人の演奏なら、発売当時、熱狂し、繰り返し聴いたC.クライバーの演奏が青年の音楽に思えてくるから不思議だ。それが悪いわけではないのだが…。

ヌブーが奏でる音楽もザンデルリンクが奏でる音楽、いずれも「深い」。だがその「深さ」は、同じとは言い難い。それだけ音楽、芸術の表現には多様性があるということである。そして深さをもたらすのは表現者たる人間だ。
人の心を動かす芸術と呼べる表現を獲得できるまで、どれほど困難を極めることか。
同じジャンルの作品に触れれば触れるほど、朧気ながらであれ、素人にもわかってくる。
だから芸術は厳しい。それゆえに、芸術は奥が深い。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

音楽三昧 ヴィヴァルディ~アリアーガ~ベートーヴェン~モーツァルト~ブルックナー

先週全般の睡眠不足の影響か、昨夜は午前0時前にダウン。記憶も飛んでいる(笑)。
今朝は午前6時前に目が覚めた。明日までに準備せねばならない資料の作成でも始めようかと自室のミニコンポで、BGMとしてヴィヴァルディのCDをかけた。頭と心とからだ、すべてにすうっと染み込んでくる。もう、止まらない。それから5時間あまり、PCを消し、読書もせず、ひたすら音楽を聴きまくる。
そういえば、2週続きの古本市、そのレポート記事作成、仕事では新しい分野への取り組みなどバタバタしっぱなしで、ゆっくり音楽を聴く精神的余裕もなかった。きっとその反動だろう。

■ヴィヴァルディ 《ヴィオラ・ダモーレ協奏曲集》 イ・ムジチ合奏団
ヴィヴァルディの曲の中では1、2を争うくらい好きな曲、アルバム。深沈とした味わいがあり、何度聴いても飽きない。余りにも有名な「四季」など、この曲に比せば浅く、通俗とすら感じてしまう。《ラ・チェトラ》、《調和の霊感(幻想)》、《フルート協奏曲》および《バスーン協奏曲》の中の数曲ほか、もっと聴かれてもいいと思える作品は多い。

続いて、スペインのモーツァルトと呼ばれた、アリアーガの弦楽四重奏曲。一般にはあまり知られてはいないようだが、好み。17歳の頃の作品とは思えぬ。
■ アリアーガ 《弦楽四重奏曲集》 より第1番 ガルネリ弦楽四重奏団

この後は、普段よく聴く、ベートーヴェンのオンパレード。
■ ベートーヴェン 《ピアノ・ソナタ第30番》 ■ベートーヴェン 《ピアノ・ソナタ第32番》
30番をケンプ、32番をアラウの演奏で。ため息が出る。この二人の演奏は温かく、ベートヴェンへの愛がつまっていて、特に好きだ。更にベートーヴェンを2曲。
■ ベートーヴェン 《弦楽四重奏曲第14番》 バリリ弦楽四重奏団
バリリ、ヴェーグ(新・旧)、ブッシュ、カぺー、スメタナ(旧)、バルトーク、メロス、タカーチなどその時の気分でかけるCDは異なるが、今日はバリリ。すべての弦楽四重奏曲の中から1曲を選べと言われたら、躊躇いなくこの14番を選ぶ。これほど深遠で、魂を揺さぶられる四重奏曲は他にない。
■ ベートーヴェン《交響曲第6番「田園」》より第5楽章。
ジュリーニ指揮 ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団。このゆったりとしたテンポについていけないという人がいるかしれない。しかし、私には、あふれんばかりの<歌>が伝わってくる。一音一音慈しむように奏でられ、いつまでも終わらないでほしいとさえ思えてくる。

普段ならこのあたりで満腹なのだが、まだ足りない。続いて、
モーツァルト 《交響曲第39番》 《交響曲第41番「ジュピター」》 クリップス指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 (交響曲集 第21番~41番より)
39番ならベーム、ムラヴィンスキー、ブリュッヘン、41番ならベーム、ブリュッヘン、シューリヒト(ウィーン・フィル)がよく聴く演奏だが、このアルバム(21番~41番)は最近のお気に入り。
極めてオーソドックスなスタイルながら、滋味にあふれ、モーツァルトのシンフォニーの魅力を余すところなく引き出している。変ないじり方をしていないからといって、個性を欠くわけではない。その馥郁たる響きの美しさ。モーツァルトの交響曲を聴く回数が減ってきた私にとってこれは、近年の大きな収穫。自然とまた、他の演奏も(比較して)聴いてみたくなるからだ。

ブルックナー 《交響曲第8番》 ハイティンク指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
一箱古本市の日当を店主とみきちより渡されたので、中古盤をディスクユニオンで購入。
ハイティンクは強烈な個性に欠け、面白くないという人が少なからずいる。確かにそういう面もある。が、素晴らしい演奏はやはり素晴らしい。1980年代録音のベートーヴェンの第9「合唱」(2種類)は堂々たる演奏、最近のシカゴ響を振ったマーラーの3番もいい。
そしてブルックナー。正直話題となったウィーン・フィルによる8番は琴線に触れるものが少なく、結局2回しか聴かなかった。
このドレスデンとのライブ。これがあのハイティンク?と思わせるような没入ぶり。特に第3、第4楽章。深い呼吸の中で思いの丈を込めている。ブルックナーの交響曲は時としてそのような演奏を拒否する厳しさを持っているのだが、違和感がない。オケも指揮者に応えるかのように熱い。それがライブ特有の乱れを所々生じさせてはいるものの、全く気にならない。
ドレスデンというと、「いぶし銀のような」音色のことがメインに語られてしまいがちだ。事実この演奏も、ドレスデンの響きを存分に味わえる。しかし、音がよければいいというものではない。そういう当たり前のことを再認識させてくれるアルバムだ。
金管の圧倒的な鳴りにブルックナーサウンドを満喫できるのは言うまでもない。特筆すべきは木管の繊細さ、弦の艶やかさ。強奏部分との対比もあって、弱音部ではその素晴らしさがいっそう際立っている。ブルックナー好きにも、そうでない方にも、お勧めの一枚。

渇いたスポンジが水を一気に吸収するかのように、音楽に浸った。
シュッツ、シャルパンティエ、ヴィクトリア、バッハなどの宗教音楽もじっくり聴いてみたくなった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「第1回みちくさ市」は明日・26日(日)開催です!!

残念ながら予報通りの強い雨となり、「第1回みちくさ市」は明日に順延となってしまったが、豊島区の予報を見ても、気温は20度を超える陽気。加えて太陽も顔を出してくれそうだ。きっと素敵な一日になるに違いない。

念のためですが、明日の開催告知に関しては、「みちくさ市ブログ」(→こちら)、「わめぞブログ」(→こちら)をご覧ください。朝7:00に発表されます。

皆様、是非遊びにいらしてください。

出品本送付前で、POPもついていない原形に近いものですが、「とみきち屋」はこんな感じ(写真)で出店します。華やかさなど微塵もない、小さな小さな古本屋(笑)。

Photo

5月4日(月・祝)に参加する「不忍ブックストリート 一箱古本市」の出品本は別のものを考えています。

今朝は7:00に開催明日順延を確かめた後、2日続きで3時間睡眠はきつく、昼まで眠る。午後は箱から出した本で埋まっている自室を少し片付けようと思ったのだが、先日タワーレコードで視聴した際気に入って購入したスヴェトラーノフ指揮ミュンヘン・フィルのワーグナー曲集をかけてしまったのが失敗。聴き入ってしまい、作業まったく捗らず。

このCDが2,000円とはもうけもの。重厚、時に繊細。深い呼吸で一筆書きのような演奏。ライブでこれだけの演奏を成し遂げるのは驚異。「マイスタージンガー第1幕前奏曲」、「ローエングリーン 第1幕前奏曲」、「ジークフリート牧歌」がとりわけ気に入った。

部屋がちっとも片づいていないじゃない!と、とみきちにたしなめられる。確かに6畳部屋の床表出面積5%以下は、ひどすぎる(笑)。

夜になって、POPの中身を考案。作成は店主とみきちに任せる。お買い上げいただいた本に挟む予定の簡単な店案内も作成。しかし、文字だけのセンスのない代物。

作業はまだまだ続きそう。明日に備え、睡眠時間4時間半(人間の睡眠サイクルは90分単位と聞いているので)は確保したいが、どうなることやら。

「とみきち屋」は<名取ふとん店横駐車場>に出店いたします。

みちくさ市マップ(→こちら)と出店場所のご案内(→こちらをご参照ください。

※地図の中央よりやや上、メイン通りの左側(鬼子母神駅前駅から目白通りに向かって)。本部みちくさ市案内所の左斜め向かいあたりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〔 雑記 〕 「おくりびと」、「納棺夫日記」、親鸞「教行信証」、ブルックナー・・・

映画『おくりびと』の宣伝を見た時、およそ16年前に読み、その後文春文庫〔増補改訂版〕で再読した『納棺夫日記』をすぐさま思い浮かべた。思ったとおり、『納棺夫日記』を原作として作られた映画だった。驚いたのは、主演の本木雅弘がこの本を自費出版版で読んでおり、著者にアプローチしていたこと。このことは『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した際に初めて知った。

本木雅弘は私にはやや苦手な役者で、出演作品はほとんど見ていない。何年前かは忘れたが、深夜に放映されていた『ファンシイダンス』を面白く観た記憶しかない。この映画も、たまたま観ただけで、監督が周防正行であることも知らなかった。(『Shall we ダンス?』もまだ観ていない)
本木雅弘への関心が高まり、映画も観たくなったが、今はこの盛り上がりだから観るのは当分先になるだろう。

青木新門がどのような感想を述べているか知りたくて、2月24日付毎日新聞朝刊を駅売店で購入。「『おくりびと』が(死者を)どこに送るのか」が描かれていなかったので、「原作者」とされることを拒んだと記事には書かれている。映画はまだ観ていないが、著者からすれば、きっとそうなのだろう。しかし、映画は「視覚的に見えない世界を現代風に視覚化してくれた。いい仏像ができた、という印象だった」と語り、本木雅弘からノミネートの知らせを受けた時には「おめでとう」と伝えたとのこと。

今日、青木新門『納棺夫日記』を文春文庫〔増補改訂版〕で4回目読了。文庫には載っていない「柿の炎」「少年と林檎」は、1993年発行の自費出版版で読む。
近々ブログで取りあげようと思い、久しぶりに親鸞『教行信証』(中央公論社『親鸞』所収)から、関連部分を読む。

貯まっていたタワーレコードのポイントを使って、『ブルックナー 交響曲第9番』オイゲン・ヨッフム指揮ミュンヘン・フィルハーモニ管弦楽団のCD(2007年8月発売)を購入。
あまりの素晴らしさに、3回続けて聴き入ってしまった。ブルックナーの、神への篤い信仰が余すところなく表現されている。テンポを動かし、金管を強奏させることが時に煩わしく感じられ、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏は、LP時代に聴いたものの、愛聴盤とはならなかった。同じ「9番」ならベルリン・フィル盤の方が美しく感じられ。

ブルックナー指揮者としては好きなので、1982年バンベルク交響楽団を率いて来日した際には、NHKホールで生演奏も聴いた。アンサンブルに乱れがあったり、音色が渋すぎて陶酔できるほどの演奏ではなかったものの、ブルックナーの本質は十分伝わってくる名演だった。
ヨッフムのブルックナー「2番」(シュターツカペレ・ドレスデン)、「5番」(アムステルダム・コウセルトヘボウ)、「6番」(バイエルン放送so)「7番」(アムステルダム・コウセルトヘボウ 1986年来日ライブ)などは愛聴している。

そのヨッフムが、こんなにも深い演奏を残してくれた。「9番」の演奏で感激したのは、2006年9月に発売された、ジュリーニ指揮シュトットガルト放送so演奏のCDを除けば、ギュンター・ヴァント最後の日本公演を生で聴いて以来だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お薦めの復刊文庫 2009.2 吉田秀和 『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)

絶版久しかった新潮文庫『LP300選』が、『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)として復刊された。著者は《音楽の歴史》を描いたのではなく、名曲を300曲選んだと述べているが、グレゴリオ聖歌から現代音楽まで、その視野は極めて広い。しかも、その時代ごと、主だった作曲家、作品への言及もしており、驚異的な本と言える。28年前、新潮文庫発行時以来手元に置き、愛読している。クラシック音楽に興味を持ち、その全貌を見通したい思う者には、最適の本としてお薦め。

文学、美術の造詣も深く、鋭利な感覚を土台にしながら、その文章には滋味がある。決して声高には語らない。だが、二流、亜流と思える曲には明言を避けたりしない。それでいて、逡巡してしまうところは、正直に伝える。そこがまた、吉田秀和の魅力でもある。

本書の中からいくつか紹介したい。

「ハイドンは、即興と情熱の一時的な戯れを拒否し、すべて着実で、論理的に一貫し、作品の統一と安定、音楽の純粋と真実が達成されている。しかも、すばらしいことには、それが、みせかけの悲愴や厳粛やをともなわず、むしろ明るくて活発な機知とユーモアとを失わない、本当の思索となっていることである。」

ハイドンの本質はつかみにくいと思っていた私の目を開かせてくれた。かくも短い文で言い得た例を他に知らない。

「『ピアノ・ソナタ ハ短調』(作品111)』はベートーヴェンのピアノ・ソナタの真の要約。劇的で、悲愴で孤高な第一楽章。本当にエッセンスだけにきりつめられた意義深い祈りの主題につづくすばらしい変奏の第二楽章。私は、もし、ベートーヴェンのすべてのピアノ曲中、ただ一曲をえらぶとなれば、この曲をとるだろう。」

ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調』(作品131)に触れて、

「ことに第一楽章のフーガと、中間のアンダンテの主題の変奏曲が深い感銘をあたえる。光と影の交替の絶妙さと、全体をおおう一種の超絶的な気配の独自さは、音楽史を通じても、ほかに比較するものが考えつかない。」

この文章と、五味康祐がこの2作品に言及した文章を読んでいなかったら、『ピアノ・ソナタ第32番』、『弦楽四重奏曲第14番』に出逢うのはもっともっと遅くなっていただろう。おかげで、20代前半で知ることができた。本当にその素晴らしさがわかるようになったのは30代後半になってからではあるが。今やこの2曲は私の宝となっている。

ワーグナーの音楽との対比でブラームス。

「音楽をもう一度、感情のほしいままの奔流とせず、音に造詣された構成の芸術に戻そうとする。といって、彼は、二十世紀の意味での《純粋音楽家》では、まったくない。彼もまた、骨の髄から時代の子、つまりロマン的芸術家なのだ。ただ、彼は無形体に耐えられなかった。ブラームスの偉大と悲劇―退屈という人もあるかもしれない―は、ここに胚胎する。」

ブラームス好きにはこの一節、至極納得できると思う。「退屈」と感じてしまう危うさを孕んでいるブラームスの音楽。映画音楽などで使われ、有名になった哀愁漂うメロディーもあるが、作品の多くは抒情があふれ出るのではなく、沈潜している。そこにロマンを見い出せるか否かで、ブラームス感は変わる。

「リストは、ロマン派のなかでも、ピアノの技法の発達、管弦楽法の新工夫、和声上の探求、リズムの非常な自由さといった点で、大変興味ある存在にはちがいないのだが、私は、彼の曲はよくわからない。」

「チャイコフスキーとなると、私は好きでなくとも、敬意を払う。彼には、表現すべき内容があったし、それを過不足なく表すすぐれた技術的手腕とのバランスも、きっちりとれていた。彼の曲は、入門にもよかろうが、そのあとだって優にきくにたえる。」

ベルクの『ヴォツェック』 に触れ、

「現代の人間の極限状況をとらえて、一個の不幸な人間のあり方を、鋭くえがいた傑作である。どんなに十二音階になれない人、あるいは嫌いな人でも、一度、これを舞台でみれば深くゆすぶられずにはいられないだろう。そのことはまた、この作品では、表現の形式と内容が、まったくほかのどんなふうなやり方でもなくて、まさに、こういう書かれ方をしていなければならないと、人を十分に納得させ、確信さすということでもある。」

どうですか?本書が単行本で世に出たのが1961年だから、48年が経過している。今なお、古びておらず、首肯できるとは思えませんか? 新潮文庫版では巻末に推薦盤(LP)が挙げられていて、これがまた圧巻だった。このリストを参考に、いったい何枚のLPを買い漁ったことか。

今回、ちくま文庫から復刊されるにあたり、さすがに年月が経ち過ぎていて、ここを見直すとなると、本文も必然的に手直ししなければならないので削ったと、吉田秀和自身述べている。解説は片山杜秀。

個人的に言えば、ヴィヴァルディの評価がもう一つであったり、ブルックナーの交響曲を第7番一曲で代表させてしまっているところが残念ではあるが、トータルで見ればたいした問題ではない。

他の者だったら無謀とも言える試み。本書は、吉田秀和だからなし得た、偉業とも言える。つい先日、新刊『永遠の故郷-薄明』(集英社)も出た。現在95歳の高齢ではあるが、音楽や芸術全般について、まだまだ「生の声」を聞かせてもらいたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)と『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の落差

宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)には落胆した。近年稀に見る好著と思えた『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の著者が、何故このような本を世に問うたのか、疑問が残るからだ。

宮下誠の名は、7年ほど前、高校以来の親友が所有していた本で知った。当時彼は絵画にはまり、盛んに美術館巡りをしていた。山荘に招かれた時、彼の読んでいた本が『逸脱する絵画』(法律文化社)だった。興味半分でパラパラと読んでみたら、極めて難しいが、何とはなしに惹かれる不思議な著述。しかし、高価だったため購入せず、いつの間にか時は流れてしまった。3年前、気になってある新書を購入。読み出したら止まらない。ネットで著者のことを調べ、「ああ!」と納得。あの『逸脱する絵画』の著者だった。
私が読んだ『20世紀絵画』(光文社新書)は、抽象的で難しい専門用語も用いられてはいるが、著者の意図が明確に伝わるものであった。
絵画は抽象、具象に関わらず、作家あるいは民族のアイデンティティと深く結びついていて、造形上の相違とは裏腹に、時代や我々自身を映す鏡となっている。20世紀後半の具象表現は、時代の複雑化に伴い、たやすく理解できないものがある一方で、抽象絵画が理解しにくいとはいえないことも、著者の解説によって腑に落ちた。
遠近法の問題、ダダ運動、コサージュ、アサンブラージュなどについても的確にかつ、わかりやすく記述されている。パウル・クレーとピカソの話はとりわけ興味深く読んだ。この本で初めて知った旧東独美術の圧倒的な存在感には目を奪われた。藤田嗣治「アッツ島玉粋」に触れた章の中で、敢えて絵画を載せない(ブランクのままにしておく)、一見トリッキーと思われる編集にも、違和感を覚えなかった。
絵画を読み解く著者の、真摯で斬新な目に共感を覚えたものだ。
それだけに・・・。

「故意にカラヤンを貶めようとして書かれたものではない。」「本書はひとつのメルヒェン(大人の童話)として書かれている。主人公たちは実名で登場するが、議論の俎上に載せられているのは彼ら自身ではなく、彼らが代表する価値観であり、世界観である」「記述の大部分はごく個人的な感慨に占められている」。こういった留保が多すぎて、象徴としてのカラヤンの音楽を、自省無く受容してきた罪は、著者も含め、聴く側とカラヤンの双方にあると述べてはいるものの、残念ながら、(疑問を抱き、何かが違うと思っていた)著者自身は罪を軽減されているかのように聞こえてしまう。(私は「罪」という表現に納得はしていないが)
『カラヤンがクラシックを殺した』というタイトルそのものも、商業主義にからめとられ、安易ではなかろうか。筆者の真意から乖離しているように思えてならない。
また、「単純な誹謗中傷は何も産み出さない」と言うのであれば、カラヤンによる演奏の本質を説くのに、人工的美、欺瞞、嫌味な臭さ、気持ちの悪さ、救いのなさ等々、あまりにもステレオタイプな表現が多い。筆者はいったい、誰に向かって説いているのか、その対象がぼやけて見えてこない。

人が数値化、匿名化され、その個性が平板なものへと馴化される20世紀の危機的状況下、その対抗的意味合いで、素晴らしい芸術が産み出されてきた。ささくれだった感受性によって、いわば心の叫びとして、或いは憎悪をとして、或いは怨嗟として真正の芸術が世に産み出されてきたという筆者の主張に真っ向から異を唱えるつもりはない。賛同できる部分もある。しかし、「心の叫び」「憎悪」「怨嗟」あるいは筆者が何度も持ち出す「世界苦」が感じられない音楽を、真正な芸術と見なさないとしたら、却ってクラシック音楽を浅く狭い芸術に貶めることにならないだろうか。指揮者ケーゲル、クレンペラーらの音楽に触れるところでも、「世界苦」「絶望の深さ」「矛盾」「自己破壊的デーモン」などの言葉で、真正な芸術の何たるかを強調し過ぎている印象を受ける。

クラシックの受容のあり方、というごく狭い観点から私は近現代社会の病理を掠め見ようとしてきた。(略)カラヤンの罪はクラシック音楽受容の陳腐化にとどまることなく、あらゆる社会現象の弱体化に寄与するほどの影響力を発揮したのだ。改めて書く。カラヤンは断罪されなければならない。さもなければ私たちの住む社会はいよいよ痴呆化し、危機的な状況は更に深刻になり、文化崩壊のスピードは更に速度を増してゆくだろう。
私たちは覚醒しなければならない。立ち上がらなければならない。象徴としてのカラヤンに代表される非-文化的文化の巧妙な罠を注意深く避けながら、真正な芸術とは何か、人間の幸せとは何かを問い続けなければならない。クレンペラーやケーゲルの音楽はそのように気づいた私たちを必ずや勇気づけてくれるに違いない。
小市民たちよ、目覚めよ。
さもなくば、私たちはこれまで同様、悪魔に魘(うな)されることになるだろう。

悲しいかな、「小市民たちよ、目覚めよ。」といった、安っぽい言い回しを用いることに意義を感じない。逆に(筆者が)伝えたいことを、自ら歪めてしまっているように思える。

音楽全般が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」はもはや悪い冗談としか言いようがない。(略)社会的勝者であり、強者である「文明社会」に生きる音楽的聴衆の、日和見的で、そして快楽主義的な音楽鑑賞のあり方は、社会的弱者(彼らにも多くの問題があり、間違いがあり、狡知があることは言うまでもない)の不条理や不合理な死を冷淡に放置し、格差社会の根本原因を追及しようとせず、無自覚的に自己のひたすらに個人的な不安や不満やルサンチマンにのみ「不幸」を見出す、まことにおめでたい「文明人」の世界把握と完全に同期している。

音楽に「美」や「慰め」や「癒し」を求めるのが悪い冗談?長い歴史の中で愛され、生き残ってきた作品の多くが、カラヤンという特異な指揮者に再現され、演奏されることで、その本質が損なわれるなどとは思えない。全世界で500万枚売れたらしい「アダージョカラヤン」購入者の多くを、日和見的、快楽主義的と決められるものであろうか。このアルバムが「悲しくも切実な上昇志向と自己神話化による負け犬的な羨望の醸成」、すなわちカラヤン的本質の現れと言うのは、牽強付会ではないか?

どんな信念のもとに書かれていようと、いや信念があるのならば、音楽に関わる人々の心に届き、響く表現方法をもう少し考え、工夫してもよかったのではなかろうか。決して心地よい言葉である必要はないにせよ。
かく言う私も、カラヤンのモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー演奏などには感動した記憶がない。カラヤンの演奏に比し、より作品の本質に迫っていると感じられるものの方が圧倒的に多いのも事実だ。音楽において、たとえカラヤンといえども、一人の指揮者を象徴的に扱い、敷衍させ、時代の病理にまで言及するには無理があると、私は思う。むしろ、危険ではないかとさえ思える。

筆者が音楽を愛し、いいと思える音楽を一人でも多くの者に聴いてもらいたいのであれば、理想とする指揮者、音楽を徹底して描く方がよかったのではないだろうか。あくまで現代社会の病理を訴えたいというのであれば、別の手法もあるはず。「必要のない、無意味な」抵抗感を生じさせず伝えることも、筆者ならば可能ではないかと思う。『20世紀絵画』(光文社新書)に多大な示唆を受けただけに、残念に思う。

私はこの著書に賛否両論あるだろうことを前提として言っている。よく言ったと溜飲を下げている読者も、著者の真意を誤ることなく受け取った読者も多いと思う。だが一方で、不快感を抱いた読者も、少なからずいるはず。両者とも「音楽への愛」ゆえにだと思う。ならば、どうして相反する感情が芽生えてしまうのか。どんな本(作品)も賛否両論あって当然という月並みな解釈には収まらない問題を、この本は孕んでいる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ひばり(雲雀) ルナール~~ヴォーン・ウィリアムズ

一つのことに触発され、記憶の奥底に眠っていたものが甦ってくることが時々ある。今回はひばり(雲雀)だった。先日、R.シュトラウス『4つの最後の歌』について書いた際、曲中フルートによって、ひばりのさえずりが奏でられていることに触れた。同曲を何度も聴いたことがきっかけとなったのか、突然、昔読んだルナール『博物誌』(岸田国士訳・新潮文庫)の中に、「雲雀」があったような・・・と思い始める。気になって本棚の奧から引っ張り出して来たらやはり、「雲雀 ひばり」が載っていた。驚いたのはそのことではない。書かれている文章にだ。

私はかつて雲雀というものを見たことがない。夜明けと同時に起きてみても無駄である。雲雀は地上の鳥ではないのだ。(略)
そら、聞こえはせぬか-どこかはるかに高く、金の杯のなかで水晶のかけらを搗(つ)き砕いているのが……。
雲雀がどこで囀っているのか、それを誰が知ろう?
空を見つめていると、太陽が眼を焦がす。
雲雀の姿を見ることはあきらめなければならない。
雲雀は天上に棲んでいる。そして、天上の鳥のうち、この鳥だけが我々ところまで届く声で歌うのである。

文庫の奥付は昭和五十八年七月三〇日 三七刷となっている。20年以上前に読んだ本の詳細までは覚えていない。なのに、私が曲の中で抱いたイメージと重なっている。久しぶりにルナールの『博物誌』にさっと目を通す。ユーモラスで、時に辛辣、でも嫌みがない。自然を見つめるあたたかい眼差しの裏に、寂し気な表情が透けて見えてくる、不思議な本だ。ルナールは『にんじん』が有名だが、『葡萄畑の葡萄作り』(岸田国士訳・岩波文庫)もいい。

ひばり(雲雀)の音楽と言えば、やはり、ヴォーン・ウィリアムズの『揚げひばり』だろう。
田園の光や風をゆったりと感じさせてくれる管弦楽をバックに、空を舞い上がるひばりがヴァイオリンによって叙情的に表現される。ヴォーン・ウィリアムズといえば、あの哀感漂う、美しい『グリーンスリーヴズによる幻想曲』が有名だが、『揚げひばり』を含め、ほかにも魅力的な曲があるので聴いて欲しい。

〔 推薦盤 〕

『ヴォーン=ウィリアムズ 管弦楽曲集』バリー・ワーズワース指揮 ニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団  
上記の曲以外に、『トマス・タリスの主題による幻想曲』ほか詩情あふれる曲が入っています。なお、このアルバムでは『揚げひばり』ではなく、『ひばりは昇る』という邦題になっています。

『イギリス管弦楽傑作集』 バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団
『揚げひばり』『グリーンスリーヴズによる幻想曲』はもちろん収められていますが、『トマス・タリスの主題による幻想曲』などが入っていません。その代わり、ディーリアス、ウォルトンなどの曲が入っていて、それらの作品がまた素晴らしい。※残念ながら、国内盤は入手が難しいようです。

一部曲は重なりますが、2枚とも手元に置いておきたい名盤。聴いていると、その心地よさに、時の流れを忘れてしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

天上への静かなる飛翔 リヒャルト・シュトラウス 『4つの最後の歌』

リヒャルト・シュトラウスによる最後の作品。ヘッセの詩から3曲、アイヒェンドルフの詩から1曲、計4曲から成るオーケストラ伴奏付歌曲であり、<白鳥の歌>と呼ぶに相応しい傑作である。
死への諦念とともに、安息への憧憬が、厳かで、静謐で、それでいて甘美な、時に官能的ともいえる調べに充たされている。
「春」「9月」「眠りにつこうとして」「夕映えの中で」。季節の移り変わり、昼と夜、静と動の対比を織り合わせながら、人生の終焉へと至る足どりを表現している。
フォーレの『レクイエム』が、安息の光に包まれる天上の世界を描いているのに対し、『4つの最後の歌』は、死を迎えんとする者の、天上への静かなる飛翔を表現していると、私には思える。

■「春」(ヘッセ)
光に満ちあふれた春にやさしく包まれ、わたしたちは至福に震える。
■「9月」(ヘッセ)
季節は移りゆき、冷たい雨とともに夏は終わり告げる。夏を越す疲れから、休息への憧れが芽生え始める。
■「眠りにつこうとして」(ヘッセ)
昼(=人生)の疲れをひそやかに嘆く歌から始まり、やがてチェレスタの独特な音が星のきらめきを奏でる。星降る夜の中、すべてを忘れ、まどろみに沈みたくなる。子守歌を思わせるヴァイオリンの柔らかな独奏後、甘美の極みともいえる調べが拡がっていく。もうすでに生を飛び越え、夜の静謐な世界に包まれているかのごとく。

Und die Seel unbewacht. (そして魂は思いのままに)
Will in freinen Flgen schweben. (その翼をひろげて飛び)
Um im Zauberkreis der Naght. (夜の魔法に魅せられ)
Tief und tausendfach zu leben. (深く、とこしえに生きようとする)

■「夕映えの中で」(アイヒェンドルフ) 
オーケストラによる前奏が眩いばかりの夕映えを現出させ、ソプラノが「我々は手をつないで苦しさと喜びの中を歩いてきた」と、生涯を振り返り、哀切に歌い出す。さすらいを終え、静かな大地に憩うと、夜の帳が落ち始める気配の中で、二羽のひばりが舞い上がっていく。これから迎える孤独の世界で迷子にならぬよう、ひばりのさえずりが誘(いざな)ってくれるだろう。遂に、眠りにつく時(=死)が訪れる。

O weiter, stiller Friede! (おゝ、広い、静かな平和よ!)
So tief im Abendrot. (夕映えの中に深くつつまれ)
Wie sind wir wandermde - (われらはさすらいにつかれた)
Ist dies etwa der Tod? (これは死なのだろうか?)

「夕映えの中に深くつつまれ」と、ソプラノが歌うところは、この曲の中で最も美しく切ない。ソプラノによる歌が終わった後、オーケストラも、緩やかに終息へと向かい、最後はフルートが、彼方へ消えていくひばりのさえずりを奏で、曲は閉じられる。
浄化された魂が、天上へと静かに飛翔してゆく情景が浮かんでくる。

リヒャルト・シュトラウスの作品は、楽劇「ばらの騎士」およびその組曲くらいしか聴かない。映画『2001年宇宙の旅』で使われた「ツァラトゥストラはかく語りき」を始め、「英雄の生涯」「死と変容」「ドン・ファン」ほか多くの交響詩、「アルプス交響曲」もわざわざ聴こうという気になれない。「サロメ」「エレクトラ」も然り。(良さが分からないだけのことかもしれない) だが、この「4つの最後の歌」だけは、格別に愛聴している。

(  )内 日本語訳 渡辺護 ※アンダーライン2ヶ所 ドイツ語歌詞 ウムラウト略

〔 推薦盤 〕
① ★★★ ヤノヴィッツ(ソプラノ) カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

②★★ シュヴァルツコップ(ソプラノ) セル指揮 ベルリン放送交響楽団

続きを読む "天上への静かなる飛翔 リヒャルト・シュトラウス 『4つの最後の歌』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)