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殉愛 中河与一『天の夕顔』 〔新潮文庫〕 (2)

地上では決して叶うことのない恋が描かれていることを見れば、中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)は悲恋の物語だが、二人の魂が永遠に深く結びつく、殉愛の物語でもある。
人の心は脆く、絶えず揺れ、何らかのくさびを打ち込まないと自身を滅ぼしかねないほどの矛盾さえ抱えている。抑えがたい狂想に囚われた時、何を守り、何を貫くか- 人は試される。

京都の大学に通う「わたくし」(龍口・たつのくち)は、7つ歳上で、子どものいる既婚者あき子に心惹かれてゆく。彼女に借りたトルストイ『アンナ・カレーニナ』には、「いつも逢いたいと思うばかりに」と書かれた小さな紙切れが挟まれていた。次に借りたフローベール『ボヴァリー夫人』には栞が入っていて、百人一首にも収められている高内侍(儀同三司母)の歌が書かれている。
「わすれじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな」

「わたくし」は、誰に宛てられたものでもないと考え、故あって暫く手紙も出さずにいる。するとあき子から、二人のあいだにわだかまりがあるのではないか、そうだとしたら耐えられないのでうちあけてほしいという手紙が届く。二人は会うのだが、あき子は唐突に別れを告げる。自分があなたを愛しだしたのではないかと思うと、危険を感じるからと。
友情と考えているので危険はないと言っても、「わたくし」は彼女から突き離されてしまう。翌日彼女からの手紙が。
本当はいつの間にか愛し始めていた。許してほしいという偽りのない心情を吐露しながらも、「わたくしの内心の声は、電撃のように否と強く否定しております」と、固い決意が伝えられていた。ここから二人のあてどない旅路が始まる。無間地獄のような。

あき子は自身の母親を亡くし、夫は他の女性を愛し、その苦しみから逃れるために洋行している。愛し始めてしまったがゆえに彼も失なってしまう。「妻として母として」生きることを選んだものの、彼への想いを断ち切れない。
彼の方は、あき子を苦しめてはならないと思いながらも、彼女への想いをますます募らせる。どこかで相手を求めてやまない二人は、結局幾度となく会ってしまう。しかし、その都度別離を余儀なくされる。幸福はつかの間で終わり、さらなる苦しみを負う。

いかなる苦しみを味わおうとも、彼は儚い一縷の望みを頼りに、彼女を待ち続ける。
別れを「拒絶」と表現する様(さま)に、何度読んでも肺腑を抉られるような思いにかられてしまう。

会ってしまったがために、決意をうち砕かれ、心揺れ、苦しみ、二度目の別れの決意を伝えるあき子の手紙の余白には、建礼門院右京大夫の歌が付け加えられていた。
「今はただしひて忘るるいにしへを思ひ出でよと澄める月かな」
忘れようとしても忘れられぬ過去を思い出せと言わんばかりに月が澄んでいる。千々に心乱れるあき子の悲しみが重なって見える。

「わたくし」は大学卒業後入隊し、やがて他の女性と結婚するがそれにも破れる。あき子を忘れるための結婚なぞ、破綻するに決まっているのに。

4度目の拒絶の時、あき子は「たとえ、わたくしは、この首が飛んでも、もうこの決心を動かそうとは存じません」と言い放つ。彼の殺意に近い激情を感じとって。
その言葉に、「一人きりではないのだ」と思えた彼は、あき子の心が自由になるまで待とうと決意を新たにし、冬山にこもる。
自身が壊れてしまわぬよう、悲愴な思いを抱いて。

どんなに不自由をしても、どんなに孤独に陥っても、この世の冷徹無惨の中にいるよりは、いっそ天に近いところに行って、自分のかなしい生命を終わったほうがいい。(略)何もなく冷たく、氷りはててしまった世界。そここそ自分にふさわしい住みかにちがいない。(略)天に近い清浄の雪の中に身と心を置いて、自分は自分の思いを高めよう。

二人が出逢ってから19年。「わたくし」40歳、あき子47歳の春、ようやく時は訪れた。
あと「五年たったら」。あき子の口から出た言葉に、彼は狂喜する。
『アンナ・カレーニナ』のアンナが夫や子どもを残して自殺したことを、自分などよりどんなに幸福であったかもしれないと語るあき子。そんなことなど決して出来はしないから、彼らの19年があり、それぞれが身を切られる苦しみに堪え、生きてこられたのだ。
そして、ついに約束の5年を迎える・・・・・。

14歳で初めてこの小説を繙いた時、多くの読者同様ストイック、克己心という言葉が思い浮かんだ。自分には持ち得ぬ純粋で気高い精神への憧れ。
齢を重ね、幾度となく読み返すうちに、自分がここまでこの作品に惹かれるのは、何故だろうと思うようになった。
道を踏み外した恋。それだけの理由で、人の世の倫理に従ったわけではない。互いのいずれかが、もう一歩踏み出してしまったら「すべてを失ってしまう。完全に繋がりも絶たれてしまう」。そのことを二人は何よりも怖れたから、身を投げ出し、相手に飛び込める機会が何度もあったのに、踏みとどまったのではないだろうか。
最初の別れから、相手だけを見て、思いの全てをぶつけることは叶わないのだという、悲しいまでの覚悟が底流にある。
その姿勢をストイック、己に打ち克つ精神と感じる一方で、お互いが究極の理想のために自らを貫いた、自分を偽れなかったのだ。二人を踏みとどまらせたのは、単なる理性や道徳心だけではなかったのだと思えてならない。
だからこそ、彼らの歩んだ人生がいっそう哀切で、同時に、美しくも感じられる。

主人公は多くのものを捨て、傍からは愚かと思える人生を敢えて選んだ。あき子も、一見何も失っていないかのようで、最も手に入れたいものを諦めたところから24年の月日を送ってきた。しかし、二人は何かを犠牲にしたわけではない。後悔はない。
この世では叶わぬ恋を捨て、愛に殉ずることで、得難いものを得たのだ。

一人の女性を崇め神格化してしまう在り方を、現実離れしていてあり得ないと思うなら、或いは自己憐憫としかとれぬなら、何の感慨ももたらしてはくれないだろう。

「わたくし」によって語られる物語だが、決して私小説ではない。感情移入できるか否かでこの小説を裁こうとするなら、時間の無駄かもしれない。
「ただ逢いたいという願い、傍らにいたいという願い」- そんな堪えがたい思慕で生きた主人公を、私は嗤えない。むしろ、打ち震えてしまう。

物語の最後、天に夕顔が咲く。
夕顔をどんな思いで見るか。
その花を摘み取る人の姿が見えるか見えないか。
そこに読んだ者の心が映し出される。それだけは確信をもって言える。

蛇足ながら、夕顔の花言葉は「儚い恋」である。

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殉愛 中河与一『天の夕顔』 〔新潮文庫〕 (1)

中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)。こんなにも心を抉られ、慟哭した小説は他にない。

中学2年の時に初めて読んで以来、30回近く読んだろうか。100頁少しの短い小説ゆえ、ストーリーも会話もほとんど頭に入っているのに、読むたびに心打たれ、揺さぶられる。自分の人生に重ねて読むわけではないのに、第三者の目で冷静には読めず、物語の中を生きてしまうからだと思う。この小説の主人公のようには決して生きられないからといって、荒唐無稽の物語とも思えない。然し、単なる憧憬でもない。
ある種歪んだ自己愛の投影ではないのかと笑う者がいても一向に構わない。それぐらい私にとって絶対的な小説なのだ。

不思議に思うことがある。今手元にある新潮文庫、平成15年3月改版の奥付を見ると、昭和29年5月発行以来81刷となっている。一刷ごとの部数が少ない(はず)とはいえ、驚くべきことだ。少なくともこの30年、この本が大々的に取りあげられた記憶はない。ということは、口伝てに読み継がれて来たのであろう。
巻末の保田與重郎による解説を引用しながら、まずこの作品がどのように受けとめられたか、紹介したい。

昭和13年に発表されて以来、大東亜戦争(※保田による表記)中から戦後にわたり45万部も売れた。なのに、ある事情から文壇では黙殺された。この事情を明らかにすることは不要と言う保田の考えには同感である。作品の本質とは全く関係ない。
しかし、永井荷風が絶賛、徳富蘇峰が推賞、与謝野晶子などが称えている。また、カミュや柳田国男の推賞により、英、米、仏、独、中国、スペインなど6ヵ国に翻訳された。カミュは「毅然としてかしかもつつしみ深い」と評している。
保田與重郎は、この小説の中の人々の愛に対する節度と宗教的な態度に共感する若い人々が多いことに安堵感を抱いた。そして、人間の文化が最もけだかく美しいものを念願していた時代の人々のおもいを伝え、愛の情緒と思想を教えていると称えた。

数年前だったか、純愛ものが若い世代を中心に流行ったようだが、関心が向かなかった。どうせたいしたことはないだろうと高を括ったわけでも、傍から眺めて苦笑していたわけでもない。強いて言えば、いわゆる純愛というものが私にはピンと来ないのだ。
しかし、「殉愛」となると違う。どんなに齢を重ねても、惹きつけられる。本の題名や文中にこの言葉が使われているか否かは関係ない。おのが人生や命のすべてを賭けることが、私にとっては愛に殉ずることを意味する。これこそがというように、決してひとつの形があるわけではない。無償の愛とも違う。
今までに「殉愛」が描かれていると感じた小説といえば、『天の夕顔』以外には、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』と、アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』がすぐに浮かんでくる。この2作品も、若い時に読んで激しく心を動かされたが、今なお読める。ゆえに、私には青春の書ではない。

『天の夕顔』は主人公(男性)の次の言葉で始まる。

信じがたいと思われるでしょう。信じるということが現代人にとっていかに困難なことかということは、わたくしもよく知っています。それでいて最も信じがたいようなことを、最も熱烈に信じているという、この狂熱に近い話を、どうぞ判断していただきたいのです。
わたくしはひとつの夢に生涯を賭けました。わたくしの生まれて来たことの意味は、だから言ってみれば、その儚げな、しかし切なる願いを、どこまで貫き、どこまで持ちつづけたかということになるのです。ばかばかしいといって、人は、おそらく身体をふるわしてわたくしの徒労を笑うかもしれません。それが現代です。しかしわたくしにとって、それは何事でもあり得ないのです。わたくしは現代に生きて、最も堪えがたい孤独の道を歩いているように思われます。

これが、70年以上前に書かれた小説の書き出しである。
(続く)

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