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小林研一郎のチャイコフスキーを堪能

もう何年も結婚記念日らしいことはせずにいたが、母が再入院中で二人とも予定がない週末だったので、6日(日)午後、コンサートに出かけた。突然の思いつきだったために、土曜に行こうと思ったコンサート(NHK交響楽団)は全席完売。この不景気ゆえ、前日でも席を確保できるだろうと思ったのが甘かった。意外ではあったが、どこか嬉しくもある。
諦めかけていたら妻がよさそうなのを見つけた。残席わずかのところすべり込み。
小林研一郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団「どりーむコンサート」(於 府中の森芸術劇場)。
小林研一郎を初めて聴いたのはLPレコードによるチャイコフスキー『交響曲第5番』。(今倉庫に預けてあるためオケと録音年はわからず)。この曲を含め4・5・6番といえばムラヴィンスキーと思っていたので、日本人指揮者の演奏としては熱く、鮮烈な印象だった。
その後はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団による5番はCDで聴いた。もっと激しい演奏かと思っていた分、やや食い足りなかったものの、テンポの動かし方が素晴らしく、チェコ・フィルの艶のある美音も加わった見事な演奏。十八番中の十八番というのも肯ける。

そして初めての生演奏。これまで聴いて来なかったことを悔いるほどの素晴らしいものだった。
1曲目は入江一雄ピアノによるチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』。現在東京藝術大学大学院在籍中の若き俊英(25歳)。安定したテクニックで余裕を持って弾きこなし、音も美しく好感を持てた。欲を云えば、もう少し表現にこくがあればと思ったが、満足。

さて、2曲目はメインの『交響曲第6番 悲愴』。暗譜で指揮。一音一音意味を込めて表現する姿勢にただただ感服。日本のオケにもこんな演奏ができるのかと不明を恥じる。
何というリズム感。まさしく緩急自在。徒に音を粘らせ、表面的な美しさに頼らない。オケに無理矢理音を出させるのではなく、奥深くから引き出している。全曲通じて弛緩するところの無い演奏など、そうあるものではない。

第3楽章などの終わりなど、一糸乱れず、弦と管が見事なバランスを保ち、恰もここがこの楽章の最終目的地と云わんばかりの見通しのよさで酔わせてくれた。
思わず拍手しそうになってしまうほどに。

実際、抑えきれない聴衆の一部が歓喜のあまり声をあげ、拍手してしまった。3楽章の終わりを曲の終わりと勘違いしたものには、私には思えなかった。

数年に一回聴くかどうか、ある意味聴き飽きているとも云えるこの曲を、今そこで生まれている音楽のように聴かせてくれた。
決して奇を衒った演奏ではなかっただけに、これは特筆すべきことである。
生の演奏は一回性のもので、鳴った後から消えてゆく、儚いものでもある。

それだけに、惰性で流したり、音をないがしろにすることなく、ありったけの思いを込めて音楽を築き上げてゆく小林研一郎という指揮者の、音楽への尽きせぬ愛情、凄味を感じることができた。

もちろん、指揮者に応え、指揮者自らが(聴衆に向かって)魂の演奏と讃えたように、日本フィルハーモニー交響楽団の質の高さも光っていた。

チャイコフスキーの生演奏はムラヴィンスキーに2度振られ(来日中止のため)、地元のホールで聴いたシノーポリの演奏が、音響の悪さに加え、オケの流すような演奏ゆえ、記憶にさえ残らぬものだっただけに、これまでまともな演奏を聴いた記憶がほとんどない。(コンサートを聴く回数が少ないともいえるが) 唯一印象に残っているのは、ムラヴィンスキーの代理でマリス・ヤンソンスが振った5番。これは初めて聴くレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の音に度肝を抜かれたことが大きい。

ようやく、満足のいくチャイコフスキーの実演に接することができた。初めて生を聴いたにも拘わらず、小林研一郎は「CDよりも実演で聴く方が、その真価を味わえるのではないか」という印象を抱いた。
小林研一郎のチャイコフスキー『交響曲第5番』、何としても生で聴きたいと思う。

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