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2011年2月

<古書ほうろう>さん、<book cafe火星の庭>さん 

2月5日(土)、<古書ほうろう>さんに、4箱分の本を引き取ってもらった。

この一年弱で1000冊以上持ち込んだ地元馴染みの古書店は、倉庫も、バックヤードと呼べるスペースも持たない小さな店ゆえ、本をストックするには限界がある。
一日に訪れる客の数も、<古書ほうろう>さんのような、有名なお店に比べれば圧倒的に少ない。
加えてお得意さんの一人が、もう2階の床が抜けそうだと最近1000冊まとめて処分された。
そこで、宮地さんに相談。突然のお願いだったが、快諾していただく。

不忍の一箱古本市に初参加した際に「いいですね」と宮地さんに云っていただいたことが、本との新たな関わりの出発点になっている。25年以上の付き合いがある地元の古書店が第一ならば、ほうろうさんは「一箱古本市」も含め第二の故郷。家から遠く、頻繁には行けないことを考えると、故郷という表現がしっくり来る。
自分の本棚の一部を見られるような恥ずかしさはあったものの、思い切って持ち込んだ。
いろいろ考えて選んだつもりではあったが、ほうろうさんにとって稀少、貴重と思える本は無かっただろうな。

当日、宮地さん、ミカコさんが笑顔で迎えてくれたのでほっとする。
ここで本を見ていると、ほんとうに時の流れを忘れる。
資金と場所があれば(これは儚い夢)、読みたい、手元に置いておきたいと思う本が所狭しと並んでいるからだ。
一籠CD市も開催されていたが、クラシックCDが目に止まらなかったので、店内の本ばかり見て廻る。500円均一棚をじっくり見るのは初めて。その充実振りには目を見張った。
店内全部を見てはいないのに、あっという間の一時間強。
「お手すきの時にゆっくりでかまいません」とお願いして辞す。

お店ではdozoさん(とみきち屋のお客様のお一人)とばったりお会いした。やつれたような感じがして心配。お話をうかがうと諸々のことでたいへんそうだ。腱鞘炎もあって、本の頁をめくるのも苦労されているご様子。
「ストレス解消は本を見て廻り、いい本に出会うことですね」と、気持ちは同じ。
少しでも元気になられることを祈っています。

ほうろうさんでは以下の本を購入。

■荒川洋治『試論のバリエーション』(學藝書林)

知らない詩人がたくさん取りあげられている。荒川洋治がどう捉え、何を伝えてくれるかで、新しい詩人との<出会い>があるかもしれない。それが楽しみ。

■竹田青嗣『近代哲学再考』(径書房)

現在は早稲田大学国際教養学部教授らしいが、雑誌『流動』に文章を書いていた頃から読んでいたこともあって、私にとって竹田青嗣は在野の人。いわゆる哲学の専門家からすれば、正統な哲学とは云えないのかもしれぬが、そんなことは構わない。哲学的思考を今私たちを取り巻いている現実に結びつけようとする熱意は評価したい。それは生き方を説いているものでもなければ、昨今ニーチェに関して乱発されているお手軽な解説とも違う。

■三浦雅士『メランコリーの水脈』(福武書店)

福武文庫、講談社学芸文庫で持っているのに、懐かしさからついつい手にとってしまった。『私という現象』『主体の変容』は単行本をとってあるが、これは手放してしまった。美本500円は魅力。

前野久美子編・著『ブックカフェのある街』(仙台文庫) ※新刊

一昨年(2009年)6月7日、シークレットワメトーク「Take off Book! Book! Sndai」で、<book cafe 火星の庭>前野さんのお話を聞く機会に恵まれた。

(その時の記事 →http://ramble-in-books.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-ee84.html )

岡崎武志さんの『女子の古本屋』(筑摩書房)を読んでいたので前野さんの凄い経歴は知っていた。それだけに穏やかな話しぶりに一瞬虚をつかれたが、話される内容からはやはり、強固な核を持っていらっしゃる方だなと思えた。
昨春の「一箱古本市」の打ち上げの帰り、その前野さんと妻を含め三人で偶然お話することができた。
翌日にシンポジウムを控え、2次会後帰られるところで、駅の改札まで<古書ほうろう>のミカコさんが見送られるところだった。こういう気配りはさすがだと思った。宮地さんはすでに出来上がっていたかな(笑) 
池袋までのわずかな時間であったが、ご一緒させていただく。
お嬢様のことを「不思議ちゃん」と私たちが表現しても、笑顔で楽しく話していただいた。
しっかりと前を見据えながら、風のように移動している。そんな感じのする素敵な方でした。

帰宅後、さあっと目を通す。開店までの経緯、その後のエピソード、海外を旅してブックカフェを見て回った時のことなどがいっぱい詰まっている。
「私にとってブックカフェをやることは人を好きになること」と云う前野さん。
多くの方々が集まってくるわけですね。

お店で催されている作家・佐伯一麦による<文学散歩>は羨ましい限り。佐伯一麦はデビュー当時からほとんどの本を読んでいる好きな作家。
本書には、古井由吉『杳子』を取りあげた第2回のことが載っているが、2月6日の第4回は岡崎さんも加わった「『海灰市叙景』をたずねて」だったのですね。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房)、『佐野洋子対談集 人生の基本』(講談社)、大澤真幸『「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学』(NHK出版新書)の3冊を同時に読み始めたばかりなので、じっくり読む楽しみは取っておいて、今は妻が先に読んでいる。

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山之口貘 山之口泉 父娘

<古書往来座>の瀬戸さんが、「往来座通信」の中で、読みたい本として山之口泉『新版 父・山之口貘』(思潮社)を挙げていた。
私が抱いている瀬戸さんのイメージというものがあり、決して多くを語らない瀬戸さん故に、強く迫ってくるものがあった。
役に立つ、面白そうな情報を提供してくれたという意味は毫も無い。だからこそ、触発され山之口貘・泉親子に触れてみたくなった。

2冊所有していたので、過日催された「くにたちコショコショ市」で『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)を出品した。何かしら因縁めいたものさえ感じる。

『山之口貘詩文集』は荒川洋治が解説を書いている。

たとえどんなに繊細な詩の世界を、その詩がつくりあげたにしても、彼はこれこれこういう詩というものを求め続けて書いたのではない。一直線にただの「詩」を求め続けた。その「詩」は具体的なものとしては伝わらないのに、物体のように、はっきりした影をもっているように感じられるのだから不思議だ。(略)

また、彼はたいへんな時間をかけて、一編の詩を書いたという。それは推敲のためばかりではない。詩を書くところに自分がいる。それ以外なにごともないところで生きていたかったのだろう。それだけに彼の詩からは、ふたつとはない詩情が炸裂し、放射する。

山之口貘という詩人の生き方の根底にあった思い、詩の魅力をわかりやすく、かつ鮮やかに表現している。

この文庫には娘である山之口泉も「父は、やや変種の詩人のようである」という短い文章を寄せてはいるが、残念ながら彼女の魅力を十分に伝えるものとは云えない。

一方、現代詩文庫第Ⅱ期『山之口貘詩集』(思潮社)に載っている「沖縄県と父・など」は何度でも読みたくなる。
娘として父をみることと、好きな詩人の一人としてみることのあわいから立ちあがる光のなんと温かいことか。しかもユーモアとペーソスが妙なるバランスで混交している。
ところが、父が生まれ育った沖縄の話になると、一転してトーンが変わる。

父の死後八年たって、オキナワは沖縄県に戻った。私の子供達は、皆、沖縄を沖縄県と呼ぶことを当り前のこととして育って行く。沖縄が日本の県ではなく、さりとてアメリカの州なんかでもなかった、あの空白の時間を、彼等は知らない。そして、それに先立つ戦争を。それらをいやというほど知りつくしている人々の数は、次第次第に減っている。父の友人達の多くは、既に旅立ってしまった。今にすっかりいなくなってしまうだろう。新聞やテレビやラジオは、何喰わぬ風に沖縄を沖縄県と呼んでいる。今となっては、父のあのやり場のない憤りも悲しみも、世界の片隅にそんなものがあったことさえ、誰も気がつきはしない。全ては包まれ押しやられ、やがて新しい時代の波がそれらをすっかり呑みつくしてしまうに違いない。まるで、一匹のねずみのように。

長らく古書でしか入手できなかった、娘・山之口泉による『父・山之口貘』が大幅に増補され新版として刊行された。

「山之口獏は人間に絶望し、その絶望を自分のみっともない体の一部のようにたずさえて生きていた詩人である――。パパの微笑の温かさも優しさも私には全てそこから出ているような気がして仕方がないのです」

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