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2009年6月

戦争の傷跡 「鎮魂歌」「火垂るの墓」「ふたつの悲しみ」

5月末に「往来座 外市」で購入した『荒地詩集1956』(荒地出版社)を少しずつ読み進めている。田村隆一、鮎川信夫、黒田三郎、三好豊一郎、中桐雅夫ほか現代詩文庫で読んだことのある詩がある一方で、初めての詩もある。木原孝一の詩にはこれまで触れることはなかった。吉本隆明『戦後詩史論』の中にちらっと出てきた記憶がわずかに残っているぐらいで。今回「鎮魂歌」に出会い、心を揺さぶられた。棘が刺さったような感覚が消えない。

民間人(非戦闘員)であった弟を昭和20年5月の大空襲で喪う。その弟への、そして戦争で命を落としたすべての人々への鎮魂であり、生き残った者たちへのメッセージでもある。

「鎮魂歌」  木原孝一

  弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
  こちらからは 何も見えない

昭和三年 春
弟よ おまえの
二回目の誕生日に
キャッチボオルの硬球がそれて
おまえのやわらかい大脳にあたった
それはどこか未来のある一瞬からはね返ったのだ
泣き叫ぶおまえには
そのとき 何が起こったのかわからなかった

  一九二八年
  世界の中心からそれたボオルが
  ひとりの支那の将軍を暗殺した そのとき
  われわれには
  何が起こったのかわからなかった

昭和八年 春
弟よ おまえは
小学校の鉄の門を 一年遅れてくぐった
林檎がひとつと 梨がふたつで いくつ?
みいっつ
小山羊が七匹います 狼が三匹喰べました 何匹残る?
わからない わからない
おまえの傷ついた大脳には
ちいさな百舌が棲んでいたのだ

  一九三三年
  孤立せる東洋の最強国 国際連盟を脱退
  四十二対一 その算術ができなかった
  狂いはじめたのはわれわれではなかったか?

昭和十四年 春
弟よ おまえは
ちいさな模型飛行機をつくりあげた
晴れた空を 捲きゴムのコンドルンドルはよく飛んだ
おまえは その行方を追って
見知らぬ町から町へ 大脳のなかの百舌とともにさまよった
おまえは夜になって帰ってきたが
そのとき
おまえはおまえの帰るべき場所が
世界の何処にもないことを知ったのだ

  一九三九年
  無差別爆撃がはじまった
  宣言や条約とともに 家も人間も焼きつくされる
  われわれの帰るべき場所がどこにあったか?

昭和二十年
五月二十四日の夜が明けると
弟よ おまえは黒焦げの燃えがらだった
薪を積んで 残った骨をのせて 石油をかけて
弟よ わたしはおまえを焼いた
おまえの盲いた大脳には
味方も 敵も アメリカも アジアもなかったろう
立ちのぼるひとすじの煙りのなかの
おまえの もの問いたげなふたつの眼に
わたしは何を答えればいいのか?
おお
おまえは おまえの好きな場所へ帰るのだ
算術のいらない国へ帰るのだ

  一九五五年
  戦争が終わって 十年経った
  弟よ おまえのほうからはよく見えるだろう
  わたしには いま
  何処で 何が起こっているのか よくわからない

声高に戦争の悲惨さを唱えてはいないだけに、いっそう心に響いてくる。
「おまえの盲いた大脳には 味方も 敵も アメリカも アジアもなかったろう」。
不条理な死というものが確かにある、ということを突きつけられる。
「わたしには いま 何処で 何が起こっているのか よくわからない」。
わたしたちは、この地点から大きく前進できたのだろうか。戦争の本質というものをほんとうにわかっていると言い切れるのだろうか。そんな自問がふつふつとわき起こってくる。

肉親の死を通じて戦争の傷跡を描いた作品に、あまりにも有名な野坂昭如の『火垂るの墓』がある。アニメによる映画も幾度と無く放映されているので、知らない人の方がむしろ少ないのではないか。この作品の中でも、肉親を焼かねばならぬ状況が描かれている。栄養失調により衰弱死した妹を行季に入れ、兄が木炭で焼くという。

衰弱した妹・節子が、ままごとのように土くれの石ころを並べ、兄・清太にご飯、お茶、おからなどを振る舞う場面、(原作にはないがアニメで)節子が石ころをドロップだと思って舐める場面など、胸を抉られるような描写もある。とりわけ私の脳裏から離れないのは、原作の中で清太が次のように思うところだ。

横になって人形を抱き、うとうと寝入る節子をながめ、指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさせたろか、

中学生の清太にこんなことまで思わせ、そして「もはや飢はなく、渇きもない」という状態で死に追いやる戦争とは何なのだろうかと考えざるを得ない。

杉山龍丸『ふたつの悲しみ』も忘れられない。筆者が日本兵の復員の事務についていた際、ひとりの少女が父親の安否を確認しに来た時の話である。

「あたち、小学校二年生なの。おとうちゃんは、フイリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの」
 顔中に汗をしたたらせて、一いきにこれだけいうと、大きく肩で息をした。(略)
私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島のルソンのバギオで、戦死になっていた。
「あなたのお父さんは――」
といいかけて、私は少女の顔を見た。やせた、真黒な顔、伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。
 私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。
「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです」といって、声がつづかなくなった。瞬間少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、ベそをかきそうになった。涙が、眼一ぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。それを見ている内に、私の眼が、涙にあふれて、ほほをつたわりはじめた。
「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの」
 私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。
 少女は、不思議そうに、私の顔をみつめていたのに困った。やっと、書き終って、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。
 涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。肩に手をやって、何かいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。
 私は、声を呑んで、しばらくして、「おひとりで、帰れるの」と聞いた。
 少女は、私の顔をみつめて、
「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」
と、あらためてじぶんにいいきかせるように、こっくりと、わたしにうなずいてみせた。
 帰る途中で、私に話した。
「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」と、小さい手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。(略)

山田太一編『生きるかなしみ』(ちくま文庫)所収

「下くちびるを血がでるようにかみしめて」涙をこらえる少女。こんなことを強いる戦争とは何なのだろう。

若者の右傾化、北朝鮮の脅威などが様々なメディアで報じられている。日米安保、憲法改正の是非はこれからもわたしたちが直面していかねばならぬ問題である。それはいかにして「戦争」を回避していくかという問題でもある。わたしたち一人一人が考えねばならない。
日常に追われ、そんなことなど考える余裕すらない現実の中にあっても、思考停止してはならない、感覚を鈍麻させてはいけないと思う。

今回とりあげた3つの作品は、目をそむけたくなる惨状が直接描かれているわけではない。だからこそ、わたしたちの「想像力」が求められるのだ。
自らが戦争体験者となる時には、もう遅いのだから。

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中公新書の魅力  『中公新書の森 2000点のヴィリジアン』

新書には随分とお世話になった。お金のない学生時代には、古本屋に行けば新刊専門書1冊分の値段で何冊購入できたことか。金銭面だけではない。英文科に所属していたが興味の対象は哲学、思想、宗教、心理。もっと知りたい、自分なりに考えたいと思ったのが戦争や歴史的事件を通じての「日本」であったために、新書は大いに役立った。
とにかく概要をつかみたい。が、教科書的記述では物足りない。あまりに専門的ではついていけない。そういう要求に応えてくれるのも新書であった。

量的には岩波新書を一番多く手にしたが、深く心に刻まれ、もっと知りたい、拡げたいと思えたのは中公新書の方が多かった気がする。岩波新書、講談社現代新書が装いを新たにした前後から(昔に比べ)中身が薄くなった現在、充実度、水準の高さ、駄本の少なさでは他を大きく引き離しているのではないだろうか。
加えて著者の情熱、息吹が感じられ、参考文献(史料)の多さには目を見張る。思想的偏向、教条的言述も少ないように思われる。

通巻2000冊突破記念として無料配布された『中公新書の森 2000点のヴィリジアン』を読む。各界の識者を中心とした179名に、最も印象に残っている中公新書、人に推薦したい中公新書などを、1から3点挙げてもらい、その理由を答えてもらうアンケートの結果と、選ばれた3冊に関するコメントはとても興味深いものだった。
解答をもとに(私が)集計してみると人気ベスト20は以下となった。

アンケートによる上位20冊 ※書名の頭の数字は得票人数

15 ■会田雄次『アーロン収容所』   
11 ■石光真人編著『ある明治人の記録』 
10 ■宮崎市定『科挙』  
9  ■竹内洋『教養主義の没落』  
8  ■井上幸治『秩父事件』  
8  ■高橋正衛『二・二六事件 増補改版』 
6  ■山室信一『キメラ-満州国の肖像』 
6  ■北岡伸一『清沢洌 増補版』 
5  ■入江昭『日本の外交』 
5  ■佐藤卓己『言論統制』
5  ■高坂正尭『国際政治』
4  『アダム・スミス』 『時間と自己』 『照葉樹林文化』 『大君の使節』
   『胎児の世界』 『肉食の思想』 『発想法』 『町衆』 『理科系の作文技術』

好みの差があるにしても、この結果に大きく異存を唱える者はいないと思われる。『清沢洌 増補版』 『照葉樹林文化』 『大君の使節』 『肉食の思想』 『町衆』の5冊は未読であるが、きっと良質な本であろう。
コメントをいくつか拾ってみる。

石光真人編著『ある明治人の記録』 
明治政府に「朝敵」の汚名を着せられた会津藩の「流刑地」における辛苦、および初期士官学校の姿をつたえるものは、この本をおいてない。恐るべき明治人の、恐るべき回想。
関川夏央(作家)

井上幸治『秩父事件』
「戦後歴史学」の手法を存分に用いたこの著作は、社会経済史的な分析をベースにしながら人びとの内面にどこまで接近し、それを解明できるかに挑戦した著作のように思う。ここに描き出される農民たちの姿は、じつに感動的である。
成田龍一 (日本女子大学教授 日本近現代史)

佐藤卓己『言論統制』
大戦直前、国防国家実現へ策を弄した情報官・鈴木庫三。彼が増長した陰には言論出版人らの時局迎合本能が多分に働いていたー。メディアの論調が一斉に片方の極に傾く時、必ず思い出す、重たい、歴史の真実。
尾崎真理子(読売新聞記者)

上位20位には入っていないが、コメントの中で特に印象に残ったもののひとつ。

西丸四方『病める心の記録』
落着かない精神神経の状態の記録が生々しくて、とても切なかった。異常への憧れがある一方で、その不安からも逃れたいところに自分もあったから、読んでいて心に染みた。
赤瀬川原平(作家、画家)

最後に私のベスト10 (順不同)

■木村敏『時間と自己』
■石光真人編著『ある明治人の記録』
■高橋正衛『二・二六事件 増補改版』 
■児島襄『東京裁判(上)(下)』
■山室信一『キメラ-満州国の肖像』
■霜山徳爾『人間の詩と真実』 
■生松敬三・木田元『理性の運命』
■長田弘『私の二十世紀書店』
■目崎徳衛『出家遁世』
■三木成夫『胎児の世界』

初版4万部がすぐに品切れとなり、2万部冊増刷したとのことですが、まだ書店に残っているかはわかりません。できる限り早く入手されることをお勧めします。

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古本界の新しいムーブメント 「一箱古本市」、<わめぞ>のことなど

昨日は仕事の資料作成に時間をとられ40分の仮眠。満員電車に揺られ、朝8:30から打ち合わせ。昼間3件ほど仕事先を訪問。夕方、目録「逍遥」で申し込んだ本を受け取りに古書現世・向井さんのところへ。

先日のシークレットワメトーク「Take off Book! Book! Sndai」のことなどを話す。ワメトークに関しては、書肆紅屋さんが詳細をレポートしてくれています。これまでの<わめぞ>の活動、南陀楼綾繁さんを中心とする一箱古本市の流れ、岡崎武志さんの(著書を含めた)影響ほか、古本界の新しいムーブメントの一端を知ることができるので、是非読んでみてください。(→こちら)です。

学生の頃から古本屋通いをしていたが、あくまで人文系をメインとする自分が読みたい本、読みたくなるような本を探すのが目的であって、古本コレクターでもないし、古書業界全般に興味があるわけでもなかった。北尾トロ『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』(風塵社)、高橋徹『古本屋 月の輪書林』(晶文社)、内堀弘『石神井書林日録』(晶文社)は読んでいたが、昨秋一箱古本市に参加するまで、岡崎さん、ナンダロウさん、向井さんの著作は1冊も読んだことがなかった。『sumus』のことも『彷書月刊』のことも知らず。何も知らない素人として一箱に参加して以来、目を向ける世界が大きく変わった。

プロの古書店からは決して生まれない素人参加の一箱古本市。その創始者であるナンダロウさんの功績は大きい。さらに凄いと思わせるのが、運営マニュアルを非公開としていないこと。さらに、ポリシーに反することなく、面白いと思えるものであれば、アドバイザーとして助力を惜しまず、多忙な中、現地へ赴いて行くところ。ナンダロウさんのフットワークと人脈、編集力、岡崎さんの実績、影響力、そこに向井さんが加わって新しい企画なりイベントが生まれたら、衆目の的となり、大きな風が巻き起こるに違いない。実際に店舗を構えている向井さんゆえ、思うようには動けないという制約はあるが、そういう動きをつくっていきたいという熱い思いが言葉の端々から伝わって来た。わくわくする。

 「Book! Book! Sndai 2009」の核となっている、火星の庭・前野さんのことは、岡崎さんの『女子の古本屋』(筑摩書房)で、破格ともいえる経歴、恐るべきバイタリティは知っていたが、今回上京された時の様子をいろいろなブログで読み、この方の魅力がさらに強まる。向井さんが「前野さんとならいろいろやっていきたい」と思うのも肯ける。

「来年は規模は小さくなっても、ほかの月にまた別のことがやれればいい」という前野さんの発言に、器の大きさを感じた。まだ終わってもいないイベントの来年のことを話せる点にではない。プロとしてしっかり地に足をつけながら、絶えず夢や理想を現実に近づけていく。その過程で何かひとつ、形となって成し遂げられたにしても、新たな問題点が浮かんだり、こうした方がいいと思われたら立ち止まらず、軌道修正していく潔さ、強さというものが感じられるからだ。直接お話したことさえないのに、いつか仙台に行くことがあれば、何をおいても前野さんの「火星の庭」に足を運びたいと思ってしまう。

〈 追記 〉

岡崎武志著『女子の古本屋』(筑摩書房)は前述の火星の庭のほかに、旅猫雑貨店ブックギャラリーポポタム海月書林蟲文庫などもとりあげられている。とても面白い読み物になっており、お勧めです。
「古本屋という道で生きるんだ」という決意の重要さを説き、紹介した女性古書店主はその決意を持っている人ばかりであると書かれている。そして巻末には次の言葉が紹介されている。

「『価値のあるもの』を買うのではなく、『自分で価値を作れる』人間は強い」 古書現世(二代目店主) 向井透史

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国宝 阿修羅展 (東京国立博物館)

昨日阿修羅に会いに行った。これで4回目になる。奈良・興福寺国宝館で3回、東京では初めて。阿修羅が奈良を離れるのは半世紀ぶりらしい。東京国立博物館は入館まで90分の行列。雨の中黙々と歩みを進める。普段ならとうてい我慢できる待ち時間ではないが、不思議と苦痛ではなかった。それにしても女性の多いこと。連れのいない男一人は浮いていた。
寺ではない場所で観るのはいかがなものかという声もあろうが、通常阿修羅はガラスケースの中に収められており、裏側からはもとより、横から見るにも限界がある。それが360度好きなアングルから見られるのだ。この初めての機会を逃す手はない。

六道輪廻における六界(道)〔地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上〕のひとつ「修羅界(道)」を支配するのが阿修羅。阿修羅は、もとは正義の神で天界に住んでいたのだが、帝釈天に娘を奪われたことを機に帝釈天に戦いを挑み、際限なく敗れ続け天界を追われてしまう。
須弥山(しゆみせん)の頂きにあるといわれる「三十三天の住みか」の中央には「善見」と呼ばれる都城があり、さらにその中央にある殊勝殿に住まうのが帝釈天。いわば天界の統治者に挑むという無謀な戦いだった。鎌倉時代の「六道絵」には忿怒の形相の阿修羅が描かれている。その後、阿修羅は仏法の守護神たる八部衆のひとつになるのだが、興福寺の阿修羅像のように人間の顔に近く、穏やかな表情をしているのは極めて珍しい。

三面六臂の異形の姿が何故かくも人の心を魅了してやまないのか。おそらく、阿修羅が仏に帰依するまでの内面の動きが、見事な造形とともに表現されているからだろう。正面の顔は端正な面立ちの中に愁いを漂わせている。口をぎゅっと結び、やや目が吊り上がり、何かに耐えているようにも見える(正面向かって)左の顔。右の顔は何ものかに対峙している感があるものの、威嚇ではなく、凛々しさを湛えている。三つの顔どの表情も、角度が変わると微妙に変化する。
一般には少年と捉えられているが、この像に少女の姿を重ねて見ることもできる。観る者の心次第で表情を変えるのも阿修羅だ。
慈愛に満ちた像とは違う。苦悶の跡が、戸惑いのようなものさえ感じられる。阿修羅の視線は私たち人間をすり抜け、はるか遠くへと投げかけられている。

阿修羅の周りを人々が三重、四重になって囲み、数秒ごとに半歩ずつずれてゆきながら360度回るのであるが、人と密着していても気にならなかった。輪から抜け、2メートルも離れれば、じっくり拝むことができる。実際多くの人が立ち去りがたく、佇んでいた。
初めて真後ろから観たのだが、左右両方の横顔の違いが際立って見え、その素晴らしさにため息がこぼれた。
1300年の時の流れを超え、阿修羅は目の前にいた。

もちろん、阿修羅以外の八部衆像、十大弟子像、四天王立像、薬王・薬上菩薩立像なども見事なものだった。
とりわけ気に入ったのは、法隆寺所蔵の阿弥陀三尊像。その慈愛に満ちた穏やかな表情に惹かれ、他の人の邪魔にならぬよう少しずつ立ち位置を変えながら、20分近く見入ってしまった。

煩悩まみれの人間ゆえ雑念が消えることはないが、心を無にできる時間はたとえわずかであれ、私には尊い。

すべてを見終え外に出た時にも雨は降りやむことなく、長蛇の列は100分待ちに変わっていた。「100分待つだけの甲斐は十分にありますよ」と心の中で声をかけながら、上野の森を後にした。

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第14回 古書往来座「外市」でのひと時

30日(土)、<わめぞ>外市へ。降雨に対応できるようディスプレイがいつもと違っていたためか、ややすっきりした感じ。でも、棚や箱の中身はいつもの「外市」。
古書現世、立石書店さんの外市用の品揃え、往来座さん店内探求だけでなく、店を構えていない<わめぞ>メンバーの出品を見るのも楽しみのひとつ。何故なら、出品者の個性が何とはなしに滲み出ているように思えるからだ。
荻原魚雷さんの箱は、じっくり読んで味わう渋めの本が多い。魚雷さんが書く内省的な文章に似ているというか。退屈男さんは、幅広い。月の湯古本市以来、ちくま文庫のアウトロー系ありとインプットされたのだが、案の定今回、笠原和夫の本が出ていた。『「妖しの民」と生まれきて』を購入。ふぉっくす舎NEGIさんの棚からは高橋健二『ヘッセ紀行』(駸々堂ユニコーンカラー双書)。ほかの本とは少し傾向が違うように思え、目に飛び込んで来た。
「えっ!?」と思ったのがu-senさんの箱の中。宝島の『マルクス』、三一新書から出ていたゲランの『現代アナキズムの論理』。昔読んだ時の懐かしさが甦って来た。同時に、この手の本が出品されていることに驚きを覚えた。
他の出品者の箱にも、その若さでどうしてこんな本を・・・ということが多く、楽しみは尽きない。

今回のゲスト火星の庭さんの棚からは『別冊新評 深沢七郎の世界』(新評社)を購入。これはすごい。秋山駿、吉田知子らの鼎談。伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫による中央公論新人賞選後評(「楢山節考」)、正宗白鳥、江藤淳、室生犀星、藤枝静男、塚本邦雄、高橋和己等による作品論。風流夢譚事件に関する中野重治、大岡昇平、平野謙、吉本隆明のコメントなど圧倒的な内容。

「早稲田古本村通信」で連載「ゲーテを読んでハッピーライフ」を始めたPippoさんとはゲーテの話をあれこれ。『ゲーテ格言集』は私のお気に入り。よって、いろいろな言葉が頭の中に染みついている。その中からいくつかをPippoさんに投げかけると即座に的を射た反応が返ってくる。さすがと言うほかない。ゲーテの二面性については意見が一致。
単なるゲーテ解説にとどまらないPippoさんの連載の今後が楽しみだ。何故かいきなり血液型を聞かれ、Bと正直に答えてしまう。。奇異な目で見られがちなBだが、Bであることになんら引け目を感じないところもBたるゆえんか(笑)。

文系ファンタジックマスクの売れ行きも好調。横光利一編はひとつしか残っていなかった。取り上げたフレーズが気に入って横光の作品を読んでみたくなったという方がいらっしゃったようで、その話をする時のPippoさんの嬉しそうな顔がとても印象的だった。
Pippoさんからは、『荒地詩集1956』を購入。まだ読んだことはないのだが、衣更着信の詩がいいとのこと。じっくり味わってみたい。

そして、そして。あの「はにかみ高校生」に遭遇!! 学生服姿の凛々しいこと。本を見る横顔には微かな笑み。その優雅な佇まい。もう言うことなし。
手には単行本が2冊。「後ろにまわってどんな本を買うのか確かめたいなあ」と漏らしたら、「それじゃあストーカーですよ!」と古書現世・向井さんとPippoさんに笑われてしまう。泣く泣く諦める(笑)。
古書現世や往来座にも来たことがあると知る。向井さんも自分からは話しかけないようにしたとか。都内某私立高校生らしい。その高校名を聞いてびっくり。高校受験の際、1校だけ私立を受け、合格したのがその高校。都立志望だったため、結局都立に入学したが、(都立に)落ちていたら彼はもしかして私の後輩?う~ん、これは巡り合わせというしかない。これからも、そっと遠くから見守っていきたい。

古書現世から『世界教養全集別巻2 東西文芸論集』(平凡社)を購入。サント・ブーヴ、サルトル、カミュ、ベンヤミン、エリオット、ボードレール、ヴァレリー、ハックスリー、魯迅、埴谷雄高、小林秀雄、花田清輝、神西清、川端、啄木、鴎外、横光利一、斎藤綠雨ほか総勢39人の文芸論集。46年前発行とは思えぬほど充実している。この世界教養シリーズ、林語堂「生活の発見」が収められている第4巻を持っている。

帰り際、編集長武藤さん渾身の作「わめふり」創刊準備号を入手。発行までにいろいろあってたいへんだったようだが、仙台まで足を運んだ武藤さんの執念が感じられる。共同編集、図案担当、豆惚舎・山本さんの力も遺憾なく発揮されている。A3用紙六折りは斬新だ。武藤さんのイラスト、手描き文字が見事なアクセントになっているし、記事の囲みも工夫が凝らされている。
個人的な希望としては、本文の文字の大きさをもう一回り大きくしてもらえたら嬉しい。若い方には何の抵抗感もないと思うが、50代目前のおじさんにはちょっとつらい。また、縮小して収めざるを得ないために(手書きということも加わって)、漫画の中の文字には読みとれない部分があった。武藤さん自身ブログで書いていたように、写真の掲載はやはり厳しいかなと思う。旅猫雑貨店・金子さんが撮った鉄砲坂の見事な写真(→こちら)は、高いクオリティの印刷にかけ、それなりの紙を用いなければその細かいニュアンスを(残念だが)伝えられないからだ。

武藤さんの記事は、仙台に行かなければ決して伝わって来ない趣がある。「ぼうぷら屋古書店」のエピソードも味わい深く面白かった。秘境のような古本屋が眼前に迫って来た。仙台在住者でなくとも行ってみたくなる。
白シャツ王子こと古楽房・薄田さんの文章が素敵だ。ものが近すぎることから感じる都会生活の閉塞感。その中にあって「隙間」を持っていることの大切さ、豊かさが詩的に語られている。さわやかな風を感じた。

31日(日)私は知人の演奏会に行っていたが、夕方近く強い雨が降り始め、外市の現場はたいへんだろうな・・・と思ったりした。実際、そうだったらしい。それでも、お客さんは絶えなかったとか。雨が降っていない方がいいのは言うまでもないが、天気が悪くても、足を運ぶだけの価値が「外市」にはある。

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