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2009年2月

〔 雑記 〕 「おくりびと」、「納棺夫日記」、親鸞「教行信証」、ブルックナー・・・

映画『おくりびと』の宣伝を見た時、およそ16年前に読み、その後文春文庫〔増補改訂版〕で再読した『納棺夫日記』をすぐさま思い浮かべた。思ったとおり、『納棺夫日記』を原作として作られた映画だった。驚いたのは、主演の本木雅弘がこの本を自費出版版で読んでおり、著者にアプローチしていたこと。このことは『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した際に初めて知った。

本木雅弘は私にはやや苦手な役者で、出演作品はほとんど見ていない。何年前かは忘れたが、深夜に放映されていた『ファンシイダンス』を面白く観た記憶しかない。この映画も、たまたま観ただけで、監督が周防正行であることも知らなかった。(『Shall we ダンス?』もまだ観ていない)
本木雅弘への関心が高まり、映画も観たくなったが、今はこの盛り上がりだから観るのは当分先になるだろう。

青木新門がどのような感想を述べているか知りたくて、2月24日付毎日新聞朝刊を駅売店で購入。「『おくりびと』が(死者を)どこに送るのか」が描かれていなかったので、「原作者」とされることを拒んだと記事には書かれている。映画はまだ観ていないが、著者からすれば、きっとそうなのだろう。しかし、映画は「視覚的に見えない世界を現代風に視覚化してくれた。いい仏像ができた、という印象だった」と語り、本木雅弘からノミネートの知らせを受けた時には「おめでとう」と伝えたとのこと。

今日、青木新門『納棺夫日記』を文春文庫〔増補改訂版〕で4回目読了。文庫には載っていない「柿の炎」「少年と林檎」は、1993年発行の自費出版版で読む。
近々ブログで取りあげようと思い、久しぶりに親鸞『教行信証』(中央公論社『親鸞』所収)から、関連部分を読む。

貯まっていたタワーレコードのポイントを使って、『ブルックナー 交響曲第9番』オイゲン・ヨッフム指揮ミュンヘン・フィルハーモニ管弦楽団のCD(2007年8月発売)を購入。
あまりの素晴らしさに、3回続けて聴き入ってしまった。ブルックナーの、神への篤い信仰が余すところなく表現されている。テンポを動かし、金管を強奏させることが時に煩わしく感じられ、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏は、LP時代に聴いたものの、愛聴盤とはならなかった。同じ「9番」ならベルリン・フィル盤の方が美しく感じられ。

ブルックナー指揮者としては好きなので、1982年バンベルク交響楽団を率いて来日した際には、NHKホールで生演奏も聴いた。アンサンブルに乱れがあったり、音色が渋すぎて陶酔できるほどの演奏ではなかったものの、ブルックナーの本質は十分伝わってくる名演だった。
ヨッフムのブルックナー「2番」(シュターツカペレ・ドレスデン)、「5番」(アムステルダム・コウセルトヘボウ)、「6番」(バイエルン放送so)「7番」(アムステルダム・コウセルトヘボウ 1986年来日ライブ)などは愛聴している。

そのヨッフムが、こんなにも深い演奏を残してくれた。「9番」の演奏で感激したのは、2006年9月に発売された、ジュリーニ指揮シュトットガルト放送so演奏のCDを除けば、ギュンター・ヴァント最後の日本公演を生で聴いて以来だ。

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お薦めの復刊文庫 2009.2 吉田秀和 『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)

絶版久しかった新潮文庫『LP300選』が、『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)として復刊された。著者は《音楽の歴史》を描いたのではなく、名曲を300曲選んだと述べているが、グレゴリオ聖歌から現代音楽まで、その視野は極めて広い。しかも、その時代ごと、主だった作曲家、作品への言及もしており、驚異的な本と言える。28年前、新潮文庫発行時以来手元に置き、愛読している。クラシック音楽に興味を持ち、その全貌を見通したい思う者には、最適の本としてお薦め。

文学、美術の造詣も深く、鋭利な感覚を土台にしながら、その文章には滋味がある。決して声高には語らない。だが、二流、亜流と思える曲には明言を避けたりしない。それでいて、逡巡してしまうところは、正直に伝える。そこがまた、吉田秀和の魅力でもある。

本書の中からいくつか紹介したい。

「ハイドンは、即興と情熱の一時的な戯れを拒否し、すべて着実で、論理的に一貫し、作品の統一と安定、音楽の純粋と真実が達成されている。しかも、すばらしいことには、それが、みせかけの悲愴や厳粛やをともなわず、むしろ明るくて活発な機知とユーモアとを失わない、本当の思索となっていることである。」

ハイドンの本質はつかみにくいと思っていた私の目を開かせてくれた。かくも短い文で言い得た例を他に知らない。

「『ピアノ・ソナタ ハ短調』(作品111)』はベートーヴェンのピアノ・ソナタの真の要約。劇的で、悲愴で孤高な第一楽章。本当にエッセンスだけにきりつめられた意義深い祈りの主題につづくすばらしい変奏の第二楽章。私は、もし、ベートーヴェンのすべてのピアノ曲中、ただ一曲をえらぶとなれば、この曲をとるだろう。」

ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調』(作品131)に触れて、

「ことに第一楽章のフーガと、中間のアンダンテの主題の変奏曲が深い感銘をあたえる。光と影の交替の絶妙さと、全体をおおう一種の超絶的な気配の独自さは、音楽史を通じても、ほかに比較するものが考えつかない。」

この文章と、五味康祐がこの2作品に言及した文章を読んでいなかったら、『ピアノ・ソナタ第32番』、『弦楽四重奏曲第14番』に出逢うのはもっともっと遅くなっていただろう。おかげで、20代前半で知ることができた。本当にその素晴らしさがわかるようになったのは30代後半になってからではあるが。今やこの2曲は私の宝となっている。

ワーグナーの音楽との対比でブラームス。

「音楽をもう一度、感情のほしいままの奔流とせず、音に造詣された構成の芸術に戻そうとする。といって、彼は、二十世紀の意味での《純粋音楽家》では、まったくない。彼もまた、骨の髄から時代の子、つまりロマン的芸術家なのだ。ただ、彼は無形体に耐えられなかった。ブラームスの偉大と悲劇―退屈という人もあるかもしれない―は、ここに胚胎する。」

ブラームス好きにはこの一節、至極納得できると思う。「退屈」と感じてしまう危うさを孕んでいるブラームスの音楽。映画音楽などで使われ、有名になった哀愁漂うメロディーもあるが、作品の多くは抒情があふれ出るのではなく、沈潜している。そこにロマンを見い出せるか否かで、ブラームス感は変わる。

「リストは、ロマン派のなかでも、ピアノの技法の発達、管弦楽法の新工夫、和声上の探求、リズムの非常な自由さといった点で、大変興味ある存在にはちがいないのだが、私は、彼の曲はよくわからない。」

「チャイコフスキーとなると、私は好きでなくとも、敬意を払う。彼には、表現すべき内容があったし、それを過不足なく表すすぐれた技術的手腕とのバランスも、きっちりとれていた。彼の曲は、入門にもよかろうが、そのあとだって優にきくにたえる。」

ベルクの『ヴォツェック』 に触れ、

「現代の人間の極限状況をとらえて、一個の不幸な人間のあり方を、鋭くえがいた傑作である。どんなに十二音階になれない人、あるいは嫌いな人でも、一度、これを舞台でみれば深くゆすぶられずにはいられないだろう。そのことはまた、この作品では、表現の形式と内容が、まったくほかのどんなふうなやり方でもなくて、まさに、こういう書かれ方をしていなければならないと、人を十分に納得させ、確信さすということでもある。」

どうですか?本書が単行本で世に出たのが1961年だから、48年が経過している。今なお、古びておらず、首肯できるとは思えませんか? 新潮文庫版では巻末に推薦盤(LP)が挙げられていて、これがまた圧巻だった。このリストを参考に、いったい何枚のLPを買い漁ったことか。

今回、ちくま文庫から復刊されるにあたり、さすがに年月が経ち過ぎていて、ここを見直すとなると、本文も必然的に手直ししなければならないので削ったと、吉田秀和自身述べている。解説は片山杜秀。

個人的に言えば、ヴィヴァルディの評価がもう一つであったり、ブルックナーの交響曲を第7番一曲で代表させてしまっているところが残念ではあるが、トータルで見ればたいした問題ではない。

他の者だったら無謀とも言える試み。本書は、吉田秀和だからなし得た、偉業とも言える。つい先日、新刊『永遠の故郷-薄明』(集英社)も出た。現在95歳の高齢ではあるが、音楽や芸術全般について、まだまだ「生の声」を聞かせてもらいたい。

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気になる復刊文庫 2009.2 中上健次『紀州 木の国・根の国物語』(角川文庫)

中上健次『紀州 木の国・根の国物語』は角川文庫、朝日文芸文庫、小学館文庫と版元をかえながら発行されてきたが、ここのところ店頭から消えてしまっていた。今この時期に復刊する角川の姿勢を称えたい。初めて中上の本を手にする者が読み通せるか、気になるところではあるが。

中上は日本的自然が生みだす差別は、その構造において小説や文化の構造とも通底していると捉える。しかし、論理的に解き明かそうとしても跳ね返され、「構造」という視点に拘り過ぎると、「差別」そのものの本質が隠れてしまう。
中上の出自が本書に多大な影響を及ぼしていることは否めない。そうであるがゆえに、著者はルポを続けながら自問を繰り返し、揺れている。
中上なら、もっと踏み込めるところでも微妙な距離を置いている。
「神武以来敗れ続けてきた闇に沈んだ国。敗れた地霊どもが眠る隠国(こもりく)」=紀州。この特異な地を客観的に見ることも、小説家の目を通してのみ視ることも許されず、時に夢と現のあわいを彷徨い 神話的世界に足を踏み入れてゆく。

デビュー以来、異形の者と感じられた中上健次が、「人が大声で語らないこと、人が他所者(よそもの)には口を閉ざすこと」を聞き出し、「埋もれ、眠り込んだ悪霊の声、マモノの声」に耳を傾け、「差別」の根源に光をあてた貴重な作品だ。

扱われているテーマの重さ、中上の文体を考えると正直読み辛い。一気に読み通せるしろものではない。しかし、一読の価値を有している。

巻末解説は著書『社会的ひきこもり』(PHP新書)で一躍知られるところとなった精神科医・斎藤環。漫画、アニメ、ゲーム、映画、小説などを精神分析の観点から鮮やかに腑分けし、文化現象、社会問題にも言及を続けている。

小学館文庫には、本編以外に「私の中の日本人 大石誠之助」「生(き)のままの子ら」が掲載されていた。前者は大逆事件で処刑された紀州出身大石に触れつつ紀州という国の理念を説き、後者は自らの出自に触れ、「差別」と「暴力」について深い考察をめぐらせている。この2篇が復刊された角川文庫に載っていないのは、やむを得ないとはいえ、残念でならない。

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殉愛 中河与一『天の夕顔』 〔新潮文庫〕 (2)

地上では決して叶うことのない恋が描かれていることを見れば、中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)は悲恋の物語だが、二人の魂が永遠に深く結びつく、殉愛の物語でもある。
人の心は脆く、絶えず揺れ、何らかのくさびを打ち込まないと自身を滅ぼしかねないほどの矛盾さえ抱えている。抑えがたい狂想に囚われた時、何を守り、何を貫くか- 人は試される。

京都の大学に通う「わたくし」(龍口・たつのくち)は、7つ歳上で、子どものいる既婚者あき子に心惹かれてゆく。彼女に借りたトルストイ『アンナ・カレーニナ』には、「いつも逢いたいと思うばかりに」と書かれた小さな紙切れが挟まれていた。次に借りたフローベール『ボヴァリー夫人』には栞が入っていて、百人一首にも収められている高内侍(儀同三司母)の歌が書かれている。
「わすれじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな」

「わたくし」は、誰に宛てられたものでもないと考え、故あって暫く手紙も出さずにいる。するとあき子から、二人のあいだにわだかまりがあるのではないか、そうだとしたら耐えられないのでうちあけてほしいという手紙が届く。二人は会うのだが、あき子は唐突に別れを告げる。自分があなたを愛しだしたのではないかと思うと、危険を感じるからと。
友情と考えているので危険はないと言っても、「わたくし」は彼女から突き離されてしまう。翌日彼女からの手紙が。
本当はいつの間にか愛し始めていた。許してほしいという偽りのない心情を吐露しながらも、「わたくしの内心の声は、電撃のように否と強く否定しております」と、固い決意が伝えられていた。ここから二人のあてどない旅路が始まる。無間地獄のような。

あき子は自身の母親を亡くし、夫は他の女性を愛し、その苦しみから逃れるために洋行している。愛し始めてしまったがゆえに彼も失なってしまう。「妻として母として」生きることを選んだものの、彼への想いを断ち切れない。
彼の方は、あき子を苦しめてはならないと思いながらも、彼女への想いをますます募らせる。どこかで相手を求めてやまない二人は、結局幾度となく会ってしまう。しかし、その都度別離を余儀なくされる。幸福はつかの間で終わり、さらなる苦しみを負う。

いかなる苦しみを味わおうとも、彼は儚い一縷の望みを頼りに、彼女を待ち続ける。
別れを「拒絶」と表現する様(さま)に、何度読んでも肺腑を抉られるような思いにかられてしまう。

会ってしまったがために、決意をうち砕かれ、心揺れ、苦しみ、二度目の別れの決意を伝えるあき子の手紙の余白には、建礼門院右京大夫の歌が付け加えられていた。
「今はただしひて忘るるいにしへを思ひ出でよと澄める月かな」
忘れようとしても忘れられぬ過去を思い出せと言わんばかりに月が澄んでいる。千々に心乱れるあき子の悲しみが重なって見える。

「わたくし」は大学卒業後入隊し、やがて他の女性と結婚するがそれにも破れる。あき子を忘れるための結婚なぞ、破綻するに決まっているのに。

4度目の拒絶の時、あき子は「たとえ、わたくしは、この首が飛んでも、もうこの決心を動かそうとは存じません」と言い放つ。彼の殺意に近い激情を感じとって。
その言葉に、「一人きりではないのだ」と思えた彼は、あき子の心が自由になるまで待とうと決意を新たにし、冬山にこもる。
自身が壊れてしまわぬよう、悲愴な思いを抱いて。

どんなに不自由をしても、どんなに孤独に陥っても、この世の冷徹無惨の中にいるよりは、いっそ天に近いところに行って、自分のかなしい生命を終わったほうがいい。(略)何もなく冷たく、氷りはててしまった世界。そここそ自分にふさわしい住みかにちがいない。(略)天に近い清浄の雪の中に身と心を置いて、自分は自分の思いを高めよう。

二人が出逢ってから19年。「わたくし」40歳、あき子47歳の春、ようやく時は訪れた。
あと「五年たったら」。あき子の口から出た言葉に、彼は狂喜する。
『アンナ・カレーニナ』のアンナが夫や子どもを残して自殺したことを、自分などよりどんなに幸福であったかもしれないと語るあき子。そんなことなど決して出来はしないから、彼らの19年があり、それぞれが身を切られる苦しみに堪え、生きてこられたのだ。
そして、ついに約束の5年を迎える・・・・・。

14歳で初めてこの小説を繙いた時、多くの読者同様ストイック、克己心という言葉が思い浮かんだ。自分には持ち得ぬ純粋で気高い精神への憧れ。
齢を重ね、幾度となく読み返すうちに、自分がここまでこの作品に惹かれるのは、何故だろうと思うようになった。
道を踏み外した恋。それだけの理由で、人の世の倫理に従ったわけではない。互いのいずれかが、もう一歩踏み出してしまったら「すべてを失ってしまう。完全に繋がりも絶たれてしまう」。そのことを二人は何よりも怖れたから、身を投げ出し、相手に飛び込める機会が何度もあったのに、踏みとどまったのではないだろうか。
最初の別れから、相手だけを見て、思いの全てをぶつけることは叶わないのだという、悲しいまでの覚悟が底流にある。
その姿勢をストイック、己に打ち克つ精神と感じる一方で、お互いが究極の理想のために自らを貫いた、自分を偽れなかったのだ。二人を踏みとどまらせたのは、単なる理性や道徳心だけではなかったのだと思えてならない。
だからこそ、彼らの歩んだ人生がいっそう哀切で、同時に、美しくも感じられる。

主人公は多くのものを捨て、傍からは愚かと思える人生を敢えて選んだ。あき子も、一見何も失っていないかのようで、最も手に入れたいものを諦めたところから24年の月日を送ってきた。しかし、二人は何かを犠牲にしたわけではない。後悔はない。
この世では叶わぬ恋を捨て、愛に殉ずることで、得難いものを得たのだ。

一人の女性を崇め神格化してしまう在り方を、現実離れしていてあり得ないと思うなら、或いは自己憐憫としかとれぬなら、何の感慨ももたらしてはくれないだろう。

「わたくし」によって語られる物語だが、決して私小説ではない。感情移入できるか否かでこの小説を裁こうとするなら、時間の無駄かもしれない。
「ただ逢いたいという願い、傍らにいたいという願い」- そんな堪えがたい思慕で生きた主人公を、私は嗤えない。むしろ、打ち震えてしまう。

物語の最後、天に夕顔が咲く。
夕顔をどんな思いで見るか。
その花を摘み取る人の姿が見えるか見えないか。
そこに読んだ者の心が映し出される。それだけは確信をもって言える。

蛇足ながら、夕顔の花言葉は「儚い恋」である。

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殉愛 中河与一『天の夕顔』 〔新潮文庫〕 (1)

中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)。こんなにも心を抉られ、慟哭した小説は他にない。

中学2年の時に初めて読んで以来、30回近く読んだろうか。100頁少しの短い小説ゆえ、ストーリーも会話もほとんど頭に入っているのに、読むたびに心打たれ、揺さぶられる。自分の人生に重ねて読むわけではないのに、第三者の目で冷静には読めず、物語の中を生きてしまうからだと思う。この小説の主人公のようには決して生きられないからといって、荒唐無稽の物語とも思えない。然し、単なる憧憬でもない。
ある種歪んだ自己愛の投影ではないのかと笑う者がいても一向に構わない。それぐらい私にとって絶対的な小説なのだ。

不思議に思うことがある。今手元にある新潮文庫、平成15年3月改版の奥付を見ると、昭和29年5月発行以来81刷となっている。一刷ごとの部数が少ない(はず)とはいえ、驚くべきことだ。少なくともこの30年、この本が大々的に取りあげられた記憶はない。ということは、口伝てに読み継がれて来たのであろう。
巻末の保田與重郎による解説を引用しながら、まずこの作品がどのように受けとめられたか、紹介したい。

昭和13年に発表されて以来、大東亜戦争(※保田による表記)中から戦後にわたり45万部も売れた。なのに、ある事情から文壇では黙殺された。この事情を明らかにすることは不要と言う保田の考えには同感である。作品の本質とは全く関係ない。
しかし、永井荷風が絶賛、徳富蘇峰が推賞、与謝野晶子などが称えている。また、カミュや柳田国男の推賞により、英、米、仏、独、中国、スペインなど6ヵ国に翻訳された。カミュは「毅然としてかしかもつつしみ深い」と評している。
保田與重郎は、この小説の中の人々の愛に対する節度と宗教的な態度に共感する若い人々が多いことに安堵感を抱いた。そして、人間の文化が最もけだかく美しいものを念願していた時代の人々のおもいを伝え、愛の情緒と思想を教えていると称えた。

数年前だったか、純愛ものが若い世代を中心に流行ったようだが、関心が向かなかった。どうせたいしたことはないだろうと高を括ったわけでも、傍から眺めて苦笑していたわけでもない。強いて言えば、いわゆる純愛というものが私にはピンと来ないのだ。
しかし、「殉愛」となると違う。どんなに齢を重ねても、惹きつけられる。本の題名や文中にこの言葉が使われているか否かは関係ない。おのが人生や命のすべてを賭けることが、私にとっては愛に殉ずることを意味する。これこそがというように、決してひとつの形があるわけではない。無償の愛とも違う。
今までに「殉愛」が描かれていると感じた小説といえば、『天の夕顔』以外には、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』と、アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』がすぐに浮かんでくる。この2作品も、若い時に読んで激しく心を動かされたが、今なお読める。ゆえに、私には青春の書ではない。

『天の夕顔』は主人公(男性)の次の言葉で始まる。

信じがたいと思われるでしょう。信じるということが現代人にとっていかに困難なことかということは、わたくしもよく知っています。それでいて最も信じがたいようなことを、最も熱烈に信じているという、この狂熱に近い話を、どうぞ判断していただきたいのです。
わたくしはひとつの夢に生涯を賭けました。わたくしの生まれて来たことの意味は、だから言ってみれば、その儚げな、しかし切なる願いを、どこまで貫き、どこまで持ちつづけたかということになるのです。ばかばかしいといって、人は、おそらく身体をふるわしてわたくしの徒労を笑うかもしれません。それが現代です。しかしわたくしにとって、それは何事でもあり得ないのです。わたくしは現代に生きて、最も堪えがたい孤独の道を歩いているように思われます。

これが、70年以上前に書かれた小説の書き出しである。
(続く)

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古本一週間

先週土曜、いつものように地元馴染みの古書店に段ボール2箱処分。それから、一週間。(私にしては)かなりの数の古本を購入。古本屋に足を運ぶのは、やはり楽しい。背表紙を見ているだけのこともあれば、見たこともない本をそっと書棚から引き抜いて、ぱらぱらと目を通すこともある。気になったら値段を確認。「またいつか機会があったらな」(笑)と書棚に戻すことのほうが多いものの、「(俺を)待っていたのか」と、迷わず買うこともある。しかし、やたらと手にとったりはしない。長年の古本屋通いで培った勘を頼りにする。自分に合っている本かどうかを。加えて、店への配慮もある。もちろん、探していた本は、よほど高価でない限り購入する。5年かけて見つけるなんてことはざらだ。これはいわゆる古書店の場合。

ブックオフとなると買い方が変わる。定価の半額でも高いなと思える本は買わない。単行本均一500円とか、値札の半額セールを待つ。もっともセール当日の朝から行けることはほとんどないので、そう簡単にいい本を見つけることはできない。仕事の合間、仕事帰りとなると、セールをやっている日かどうかという巡り合わせもある。
(昨秋)古本市に参加するようになってから自身変わったのは、既に持っている本でも、人に提供したくて探すようになったことだろうか。1冊しかないと自分の蔵書からは出せない。そういうものは半額でも買う。また、今年もできれば古本市に参加したいと思っているため、自分の蔵書だけではもうひとつぱっとしない場合、値段に関係なく買うこともある。例え数は少なくとも、テーマをいくつか設けて出品したいからだ。
それでは、この一週間の購入本をご紹介。古書店5軒、ブックオフ5軒にて。

■ 豊崎光一 『クロニック』(風の薔薇叢書) 800円
『他者としての忘却』 『ファミリーロマンス』 『余白とその余白または幹のない接木』などを処分してしまったことを後悔していた。久しぶりに豊崎光一の文章が読める。
■ E・Hカー 『カール・マルクス』 200円
■ 北博昭 『二・二六事件全検証』(毎日新聞社) 300円
■ 霜山徳爾 『仮象の世界』(思索社) 
あのフランクル『夜と霧』の訳者。この人の『人間の限界』(岩波新書)、『人間の詩と真実』(中公新書)、『素足の心理療法』(みすず書房)、『共に生き、共に苦しむ』(河出書房新社)など、どれも読み応えがある。驚くべき幅広い教養、深い洞察力。
■ 結城信一 『結城信一 評論・随筆集成』(未知谷) 1500円
前回当ブログで書いた、荒川洋治『読むので思う』の中で触れられていたので欲しかった。まさかこんな値段で手に入れられるとは!
クルト・リース 『フルトヴェングラー 音楽と政治』(みすず書房) 
以前処分してしまったので買い戻し。やはり手元に置いておきたい。
■ 足立巻一 『やちまた 下』(朝日文芸文庫) 
これでようやく上下揃い2セットになった。1セットはどうしても手放したくない。しかし、いつか誰かの手に渡ってくれればと下巻を探し続けていた。足立巻一といっても、興味のない方には無縁ではあるが。
■ 荒巻義雄 『柔らかい時計』(徳間文庫) 
昔、高校バレー部後輩の兄から薦められて読んだものの、知らないうちに無くなってしまった。一緒に買って読んだ『神聖代』(徳間文庫)は残っているのだから、恐らく間違えて売ってしまったのだろう。もう無理と諦めていたが、ようやく手元に戻ってきた。27年振りだから、奇跡に近い。
■ 渡邊二郎 『芸術の哲学』(ちくま学芸文庫) 400円
■ 長谷川如是閑 『ある心の自叙伝』(講談社学術文庫) 

〔ブックオフ 105円〕

■ 松本健一 『大川周明』(岩波現代文庫)
■ 石原吉郎 『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫)
■ 弘津正二 『若き哲学徒の手記』(講談社学術文庫)
■ 北杜夫・辻邦生 『対談 若き日と文学と』(中公文庫)
■ 増田彰久・藤森照信 『アール・デコの館』(ちくま文庫)
■ 福永武彦 『塔』(講談社文庫)
■ 日影丈吉 『女の家』(徳間文庫)
■ 森敦 『わが青春 わが放浪』(福武文庫) 
■ 巌谷大四 『懐かしき文士たち 戦後篇』(文春文庫)
■ 吉田さらさ 『京都、仏像をめぐる旅』(集英社be文庫)
■ マラマッド 『アシスタント』(新潮文庫)
■ モーパッサン 『死のごとく強し』(新潮文庫)
■ 清水多吉 『ヴァーグナー家の人々』(中公新書)

クラシックCD(ブックオフ)500円

● ベートーヴェン「運命」、シューベルト「未完成」 クレンペラー指揮 ウィーン・フィル
● シューベルト「グレート 他」 クナッパーツブッシュ指揮 ウィーン・フィル
 いずれもドイ・グラムフォン国内盤(現ユニヴァーサル) ライブ録音

この一週間は怖くなるくらい、恵まれた。

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佇む喜び 荒川洋治『読むので思う』(幻戯書房)

昨年11月末、<わめぞ>「みちくさ市」プレ開催参加直前に、荒川洋治『読むので思う』(幻戯書房)を購入。40頁ほど読んで簡単な感想を書いたが、それから2ヶ月少し経った。3回通読、文章によっては4、5回読んだものもある。そのつど深くしみ、飽きることがない。

本を読むと何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。人が書いた作品のことがらやできごとはこちらには知らない色やかたち、空気、波長を持つ。いつもの自分にはない思いをさそう。読まないと、思いはない。思いの種類の少ない人になり、そのままに。そのままはこまるので、ぼくも読むことにした。

本書のタイトルにもなっている「読むので思う」からの言葉。荒川洋治という詩人の素晴らしさがいかんなく発揮されている。ひっそりと、何度でも味わいたい文章だ。
「色やかたち、空気、波長」は知識とは別のもの。本を書いた人の思いを受けとめ、自分(読者)も様々な思いを巡らせることで見えてくる世界。そこからまた、世界は拡がり、深まってゆく。
同時に著者は、詩人北村太郎の『光が射してくる 未刊行詩とエッセイ 1946-1992』(港の人)に触れ、漠然と或いは好きなものだけを読むのはほんとうの意味での「読書」とは言えないことを示唆している。(以下「  」内は北村太郎の言葉)
「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」「ひとつの小説の型、考え方の型、生き方の型、美の型だけにしがみついて、それ以外のもの認めようとしない」人になる危険があると。

こういう文章に出会うたび、立ち止まっていろいろ「思う」。自分の読書嗜好は偏っていないだろうか?あれもこれも気になって多くを読む。でも、ほんとうに読んだといえるのか?読んだということで満足していないか?咀嚼できているか?などと。
また、一冊の書物に感銘を受けた時に自分をしっかり見つめ、何を得たのか自分の言葉で表現できるかどうかも、大切な事だ。
知識としてのみ吸収するだけでは、心が狭くなり、かたくなになってしまいかねない。読書の難しさがそこにある。

荒川洋治はさらに、今の自費出版の問題点を昔のそれと比べて、こう語る。

すぐれた作品を書く人の作品を編集、出版することを通して「表現の世界」全体の展開を楽しむ。そこに読者としてのよろこびと、出版の意義を見た。複数の人間がつながる新しい空気が生まれた。それから時は流れ、他者への興味や関心は希薄になった。いまは、自分のお金で、自分の本をつくるだけ。そこから先は、ない。その先を考えるヴィジョンははじめからもたない。本が出ることで、人と人は出会うもの。いまは逆に分断され、孤立感を深める。本をめぐる意識は貧しいものになってしまった。

厳しい言葉で書かれてはいるが、本とは出会いの場であり、そこから人がつながってほしいという著者の願いが行間から滲み出ている。
著者の本への愛情があふれている文章を紹介したい。『結城信一 評論・随筆集成』(未知谷)に触れた「青年の方角」の中から。

本らしい本を読まない人がふえた。目の前のものだけを見るようになった。文学は、現実の奥底を照らすものだ。見えにくい現実を知らせてしまうものを人々はうっとうしくかんじるようになった。そういう人たちが新しい時代をつくりはじめた。(略)人のいのちと同様に、文学にも寿命があることに気づく人はいなかったのだ。どこに、何があったのか。どこに何がなかったのか。それを確かめるためにも文学を振り返らなくてはならない。見つめなくてはならない。この一冊におさめられた文章の形式、内容、配置、それらすべてが、いまはなき時代のものである。そのことが胸に迫る。本書は、ことばや文章を大事にした人たちの姿をうつしだしている。結城さんのことばは、文学を表すものだ。忘れることはできない。

著者は、単に昔はよかったと嘆いているわけではない。文学の力を信じている。文学を通して深まっていくものをこよなく大切にしている。この変わらぬ姿勢に、いつも胸が熱くなってしまう。
もちろん、本書には詩人特有の目で捉え、詩人らしい言葉で表現している文章も多い。一例をあげる。三好達治の詩「砂の砦」に触れた「手本のうた」から。

「砂の砦」のことばを見つめていると、光を知り、影を知る。反復という機能の美しさ、きびしさがわかる。わかったところで、自分には書けない。手本にできることが、こちらでできたら、手本ではない。こちらも、うれしくない。はるかなもの、この身に果たし得ないものを置く。そばに置く。それが手本をもつ、よろこびだ。

手本の本質を「はるかなもの、この身に果たし得ないもの」などと表現するなぞ、私のような凡人にはとうてい思いもつかない。美しい言葉だと思う。

目を凝らし、ありふれた光景の中に埋もれてまったものを見つけ出す。耳を澄ませ、さりげない日常の言葉、囁きに近いものから心の声を聞く。そして言葉をかみしめる。さまざまに思いを巡らすことで、新たな思いが芽生えてくる。佇む喜び。
荒川洋治のエッセイはそういうきっかけを与えてくれる、かけがえのないものだ。

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宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)と『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の落差

宮下誠 『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)には落胆した。近年稀に見る好著と思えた『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)の著者が、何故このような本を世に問うたのか、疑問が残るからだ。

宮下誠の名は、7年ほど前、高校以来の親友が所有していた本で知った。当時彼は絵画にはまり、盛んに美術館巡りをしていた。山荘に招かれた時、彼の読んでいた本が『逸脱する絵画』(法律文化社)だった。興味半分でパラパラと読んでみたら、極めて難しいが、何とはなしに惹かれる不思議な著述。しかし、高価だったため購入せず、いつの間にか時は流れてしまった。3年前、気になってある新書を購入。読み出したら止まらない。ネットで著者のことを調べ、「ああ!」と納得。あの『逸脱する絵画』の著者だった。
私が読んだ『20世紀絵画』(光文社新書)は、抽象的で難しい専門用語も用いられてはいるが、著者の意図が明確に伝わるものであった。
絵画は抽象、具象に関わらず、作家あるいは民族のアイデンティティと深く結びついていて、造形上の相違とは裏腹に、時代や我々自身を映す鏡となっている。20世紀後半の具象表現は、時代の複雑化に伴い、たやすく理解できないものがある一方で、抽象絵画が理解しにくいとはいえないことも、著者の解説によって腑に落ちた。
遠近法の問題、ダダ運動、コサージュ、アサンブラージュなどについても的確にかつ、わかりやすく記述されている。パウル・クレーとピカソの話はとりわけ興味深く読んだ。この本で初めて知った旧東独美術の圧倒的な存在感には目を奪われた。藤田嗣治「アッツ島玉粋」に触れた章の中で、敢えて絵画を載せない(ブランクのままにしておく)、一見トリッキーと思われる編集にも、違和感を覚えなかった。
絵画を読み解く著者の、真摯で斬新な目に共感を覚えたものだ。
それだけに・・・。

「故意にカラヤンを貶めようとして書かれたものではない。」「本書はひとつのメルヒェン(大人の童話)として書かれている。主人公たちは実名で登場するが、議論の俎上に載せられているのは彼ら自身ではなく、彼らが代表する価値観であり、世界観である」「記述の大部分はごく個人的な感慨に占められている」。こういった留保が多すぎて、象徴としてのカラヤンの音楽を、自省無く受容してきた罪は、著者も含め、聴く側とカラヤンの双方にあると述べてはいるものの、残念ながら、(疑問を抱き、何かが違うと思っていた)著者自身は罪を軽減されているかのように聞こえてしまう。(私は「罪」という表現に納得はしていないが)
『カラヤンがクラシックを殺した』というタイトルそのものも、商業主義にからめとられ、安易ではなかろうか。筆者の真意から乖離しているように思えてならない。
また、「単純な誹謗中傷は何も産み出さない」と言うのであれば、カラヤンによる演奏の本質を説くのに、人工的美、欺瞞、嫌味な臭さ、気持ちの悪さ、救いのなさ等々、あまりにもステレオタイプな表現が多い。筆者はいったい、誰に向かって説いているのか、その対象がぼやけて見えてこない。

人が数値化、匿名化され、その個性が平板なものへと馴化される20世紀の危機的状況下、その対抗的意味合いで、素晴らしい芸術が産み出されてきた。ささくれだった感受性によって、いわば心の叫びとして、或いは憎悪をとして、或いは怨嗟として真正の芸術が世に産み出されてきたという筆者の主張に真っ向から異を唱えるつもりはない。賛同できる部分もある。しかし、「心の叫び」「憎悪」「怨嗟」あるいは筆者が何度も持ち出す「世界苦」が感じられない音楽を、真正な芸術と見なさないとしたら、却ってクラシック音楽を浅く狭い芸術に貶めることにならないだろうか。指揮者ケーゲル、クレンペラーらの音楽に触れるところでも、「世界苦」「絶望の深さ」「矛盾」「自己破壊的デーモン」などの言葉で、真正な芸術の何たるかを強調し過ぎている印象を受ける。

クラシックの受容のあり方、というごく狭い観点から私は近現代社会の病理を掠め見ようとしてきた。(略)カラヤンの罪はクラシック音楽受容の陳腐化にとどまることなく、あらゆる社会現象の弱体化に寄与するほどの影響力を発揮したのだ。改めて書く。カラヤンは断罪されなければならない。さもなければ私たちの住む社会はいよいよ痴呆化し、危機的な状況は更に深刻になり、文化崩壊のスピードは更に速度を増してゆくだろう。
私たちは覚醒しなければならない。立ち上がらなければならない。象徴としてのカラヤンに代表される非-文化的文化の巧妙な罠を注意深く避けながら、真正な芸術とは何か、人間の幸せとは何かを問い続けなければならない。クレンペラーやケーゲルの音楽はそのように気づいた私たちを必ずや勇気づけてくれるに違いない。
小市民たちよ、目覚めよ。
さもなくば、私たちはこれまで同様、悪魔に魘(うな)されることになるだろう。

悲しいかな、「小市民たちよ、目覚めよ。」といった、安っぽい言い回しを用いることに意義を感じない。逆に(筆者が)伝えたいことを、自ら歪めてしまっているように思える。

音楽全般が生み出す「美」や「慰め」や「癒し」はもはや悪い冗談としか言いようがない。(略)社会的勝者であり、強者である「文明社会」に生きる音楽的聴衆の、日和見的で、そして快楽主義的な音楽鑑賞のあり方は、社会的弱者(彼らにも多くの問題があり、間違いがあり、狡知があることは言うまでもない)の不条理や不合理な死を冷淡に放置し、格差社会の根本原因を追及しようとせず、無自覚的に自己のひたすらに個人的な不安や不満やルサンチマンにのみ「不幸」を見出す、まことにおめでたい「文明人」の世界把握と完全に同期している。

音楽に「美」や「慰め」や「癒し」を求めるのが悪い冗談?長い歴史の中で愛され、生き残ってきた作品の多くが、カラヤンという特異な指揮者に再現され、演奏されることで、その本質が損なわれるなどとは思えない。全世界で500万枚売れたらしい「アダージョカラヤン」購入者の多くを、日和見的、快楽主義的と決められるものであろうか。このアルバムが「悲しくも切実な上昇志向と自己神話化による負け犬的な羨望の醸成」、すなわちカラヤン的本質の現れと言うのは、牽強付会ではないか?

どんな信念のもとに書かれていようと、いや信念があるのならば、音楽に関わる人々の心に届き、響く表現方法をもう少し考え、工夫してもよかったのではなかろうか。決して心地よい言葉である必要はないにせよ。
かく言う私も、カラヤンのモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー演奏などには感動した記憶がない。カラヤンの演奏に比し、より作品の本質に迫っていると感じられるものの方が圧倒的に多いのも事実だ。音楽において、たとえカラヤンといえども、一人の指揮者を象徴的に扱い、敷衍させ、時代の病理にまで言及するには無理があると、私は思う。むしろ、危険ではないかとさえ思える。

筆者が音楽を愛し、いいと思える音楽を一人でも多くの者に聴いてもらいたいのであれば、理想とする指揮者、音楽を徹底して描く方がよかったのではないだろうか。あくまで現代社会の病理を訴えたいというのであれば、別の手法もあるはず。「必要のない、無意味な」抵抗感を生じさせず伝えることも、筆者ならば可能ではないかと思う。『20世紀絵画』(光文社新書)に多大な示唆を受けただけに、残念に思う。

私はこの著書に賛否両論あるだろうことを前提として言っている。よく言ったと溜飲を下げている読者も、著者の真意を誤ることなく受け取った読者も多いと思う。だが一方で、不快感を抱いた読者も、少なからずいるはず。両者とも「音楽への愛」ゆえにだと思う。ならば、どうして相反する感情が芽生えてしまうのか。どんな本(作品)も賛否両論あって当然という月並みな解釈には収まらない問題を、この本は孕んでいる。

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ETV特集 「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」 (2月1日 NHK教育TV放映)

芥川賞作家辺見庸は4年前、脳出血で倒れ右半身麻痺、その後癌も発覚し、大きなハンデを抱えながら、今なお現代社会の問題を鋭く抉り続けている。倒れた後に出版された『自分自身への審問』 (毎日新聞社)、 『いまここにあることの恥』 (毎日新聞社)には、鬼気迫るものを感じた。

辺見は現在の危機的状況を「パンデミック(感染爆発)」と名付ける。字義通りならば新型ウイルス感染の恐怖であるが、それだけではなく、経済恐慌、格差、社会と切断されてしまっている個、人間の心の問題まで、重層的に捉え、広義に用いているのだ。社会の個別的な事象、例えば、秋葉原事件、派遣切りなども「パンデミック」のひとつとして言及。さらに、カミュの『ペスト』をとりあげ、そこに現代社会が抱えている問題を重ね合わせる。

秋葉原事件に触れ、世の中から切断されてしまった「個」というものに、人の根源自体の腐敗を見て取っている。犯人が携帯を使って書き込んだ一連の言葉に薄ら寒くなるような痛ましさを感じ、リアルに生きられない姿を見、吐き出されたものが単なる記号としかとれず、これが「言葉」かと、愕然とする。これは、時代が経済という枠にとどまらない「恐慌」を迎えようとしている兆しではないかと。

1929年のニューヨーク株大暴落に端を発する世界恐慌の時期に、著書『ドグラ・マグラ』で有名な夢野久作が「猟奇歌」なるものを雑誌に掲載していたこと、さらにその歌に私自身驚愕した。
「自分より優れた者が皆死ねばいゝにと思ひ鏡を見てゐる」
「殺すくらい何でもないと思ひつゝ人混みの中を闊歩して行く」
「白塗りのトラックが街をヒタ走る何処までも何処までも真赤になるまで」
これらの歌から、単なる符合には思えぬ恐怖を感じないだろうか。
辺見の言葉を記す。

昔日との相違はまさに
悪の核(コア)をそれと指ししめすことの
できないことなのかもしれない
どうやら資本が深くかかわるらしい
〝原発悪〟が
ほうぼうに遠隔転移してすべての人のこころに
まんべんなく散りひろがった状態が
いまという時代の
手におえない病症ではないのか

カミュの『ペスト』(新潮文庫)では、行政側および新聞社がオランの市(まち)で起き始めていることを具体的、詳細には報道はせず、そのことがペストの拡大の危機を湖塗してしまう様子が描かれている。人々も現実に起きていることの真の重大さに気づかず、市が閉鎖された後も、街頭を練り歩き、懊悩はあるものの個人的な感情を第一として生活を送っている。いずれ鎮まる、たいしたことはないだろうという、願望に近いものが目を曇らせてしまう。久々に読み、神の問題も含め、30年以上前に読んだ時には見えなかったものが見えてきた。

辺見庸はこの『ペスト』に書かれている、医師リウーの「絶望に慣れることは絶望そのものよりさらに悪いのである」という言葉を基に、考えを巡らせていく。
ペストにさえ日常として慣れてしまいかねない、人間の危うい本質は現代においても変わらない。資本の潤滑油になっているマス・メディアが流す、コーティングされた情報にさらされている私たちは、まさにパンデミックとも言える危機的状況において、実相が見えなくなっている。道義、人倫、権利、言葉、信頼、約束など、人間の諸価値そのものが根底から覆されようとしている。単に経済の回復を目指すだけでは、対症療法に過ぎない。寄る辺なさ、存在の悲しみに震え、この世界から切断され、矮小化されてしまっている人間の内面こそ打破すべきと訴えるのだ。
辺見の言うように、職を失い、住む場所もなく、公園や路上で寝る人々の姿をふつうの、仕方のない光景と思えるようになってしまったら、異状だと思う。

辺見は、絶望に慣らされないための糸口を「誠実さ(sincierity)」に求める。言葉そのものは抽象的だが、伝えようとしていることは十分届いて来た。
著書『自分自身への審問』(毎日新聞社)にも書いているが、山谷で無宿者のために10年以上、休みのたびに炊き出しに来る人の話を例に出す。(本の中ではごく普通のサラリーマンで家庭人と書かれている。また、誠実さを〝心ばえ〟と表現している)
とってつけたような優しい言葉はかけない。しかし、誰かに注目されるわけでもないのに、社会の片隅で長年持続させる「誠実さ」の凄み。これには、作家である自身が百万言の言葉を費やしてもかなわないと正直に吐露する。『ペスト』の中の医師リウーの言葉、「ペストと戦う唯一の方法は誠実さです」に触れながら。

自覚的な「個」としてどう在るべきか。マスコミから伝達される、ある意味でバイアスのかかった(偏りのある)情報の奧に、何を見なければならないか。多くの問題を考えさせられる良質な番組であった。
辺見庸が共闘を求めているようには、私には思えなかった。それだけにいっそう、彼の口から紡ぎ出される言葉に重みを感じた。揺るぎない視座を持っている人である。

番組内では、リハビリを兼ね、右足を引きずりながら階段を上り下りする姿が何度か映し出される。進歩はしないが、やめると歩けなくなる可能性が生じる、「徒労」のような運動。
最後の言葉が耳から離れない。
「徒労という窓口から世界を考えたり、自分の行為とか生っていうものを考えることは、あながち悪いことじゃねえなとは思う。なにか、成果を期待するのがないっていうことはいいね」
命を賭して戦おうとする作家の思いが、胸を打つ。

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