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佐野洋子のエッセイ (1)

『100万回生きたねこ』で遍く知られている佐野洋子のエッセイを読んだのは、『ふつうがえらい』(1995年発行・新潮文庫)が初めてだった。奔放なもの言い、すかっとするような切り口、「だって私は私でしかないんだ」という姿勢を貫いているのに、読後しんみりとしてしまう、不思議な魅力を湛えた本だった。

死んでしまった金魚を埋葬する際の、6歳の姉と5歳の妹の話。姉は猫に食べられないようにと深く土を掘る。妹は穴の中では苦しいし、暗くて寂しいからと、葉っぱを敷きつめ金魚を載せて、上から葉っぱをかける。姉妹の父親は、それぞれの個性を大事にしたいと著者に語りかける。ほのぼのとしたエピソードで終わるのかと思うと、そうはならない。佐野洋子は、前者をくそまじめ、後者を人から見るといいかげんなヤツと捉え、自分は後者だと。この世は、この二つのタイプがいいかげんに分布していて、変にピッタリくっついておぎない合っている。「いいかげんなヤツばっかでも、くそまじめだけでも世界は完璧にならない。神様はえらい。」と結ぶ。こういう視点のずらし方は著者特有のものだ。

40年前にご主人を亡くした、八十三歳のおばあさん。ある時、踏切の向こう側に竜宮城を見たと話しながら、(ご主人のことを)「世界一の男よ、わたくし、本当に幸せです」と言って、著者にボロボロになった写真を見せる。また別の時には、餌をあげたすずめが、「ありがとう」と人間のことばで喋り、お礼として子すずめをくれたと話す。そして、また亡き夫の写真を見せる。著者はその度、うらやましくて、ぽーっとしてしまう。そして次のように語る。
「人は生と死の間をこんなふうにおぼろに渡ってゆくのだろうか。どうしてこのひとだけにこんな美しい嘘と真の世界が用意されているのだろう。たった一人の男を命をかけて、たったひとつの自分のたましいと肉体をかけて愛したからだろうか。」と。私は「美しい嘘と真の世界」という表現に鷲づかみにされ、佐野洋子が好きになった。

「ことばを覚えると覚えるほどことばが通じるようになって、ことばが通じることだけで満足したりして、そしてことばでないものを感じたりわかったりすることを投げすててしまうのだ。」
著者は、内実を伴わないことばのやりとりに疑問を投げかけ、ことばの背後にある「ことばにならないことば」を重んじる。そして絵本における絵にも同じ視線を注いでいる。

ひとりの男性をめぐり三角関係に陥った友人(みよちゃん)の話を引き合いに出して、自らの恋愛のこころざしを語るところ。
敵対する女性が、出刃包丁を持ち出して彼を脅し寝かせない、どこにでもべったりくっついて行って、彼を追い込んでいるのが許せないとこぼす。著者が「あなた、しっとはないの?」と尋ねると、自分の知性、美学が許さない。人(男性)を自分のものだという権利なんかないと語る。それに対して、佐野洋子はこう思う。

私理由はわからない。でもみよちゃん、あなたの負けよ、出刃包丁が正しい、あのひとは私のものだって追いつめるのが正しい、たとえそれで男を失ったとしてもその女が正しい、この正しいというのは正義というのではない。恋愛に「権利」などという言葉を持ち出すみよちゃんの負けだ、と何かが私に教える。恋愛は本来無法地帯なのだ。誰も取り締まれない、全ての人に権利があり全ての人に権利などない。全ての秩序が崩壊する場だからこそ恋愛なのだ。その混沌から美しいものだけをとり出すことはできない。(略)人と人が生きるってもっと抜きさしならないところに追いつめられて追いつめて、追いつめる自分の醜さに耐えて、あたふた楽な方に逃げる相手のずるさを出刃包丁でさし殺すことではないのか。何の為の知性かと反論されれば、私は野生の中にある知性こそが、本当の知性だ、そして、それは人間が生き物であれば、誰でも持っているものだと思う。

恋愛に「正義」なぞを持ち込むことの愚かさは、納得できる。清濁ない交ぜになったところからしか、始まらないものもある。それがわかった時点で終わりを迎えようとも。

難しい言葉はひとつも使われていない。なのに、拡がりをもって読む者に迫ってくる。一見断言していると思えるころでも、「ほんとはひとりひとりが考えればいいことなんだ」「思いはそれぞれのもの」という声が聞こえてくる。彼女は、私たちがふだんうまく言葉にできないこと、言いにくいことを単に代弁しているわけではないのだ。

『ふつうがえらい』はマガジンハウスから発行されたのが1991年なので、今から18年前の文章になる。『がんばりません』(新潮文庫)は、『佐野洋子の単行本』(1985年発行・本の雑誌社)を文庫化したものなので、『ふつうがえらい』より6年前の文章にあたる。2000年にはエッセイ集『あれも嫌いこれも好き』が朝日新聞社から出ている。(現在朝日文庫)

佐野洋子のエッセイの本質を知るなら、『ふつうがえらい』(新潮文庫)、2003年に筑摩書房より出版され、昨年(2008年)11月にようやく文庫になった『神も仏もありませぬ』(ちくま文庫)『役に立たない日々』(2008年5月発行・朝日新聞出版)『シズコさん』(2008年4月発行・新潮社)の4冊を薦める。できれば、この順番に読むのを。最後の『シズコさん』はエッセイとは呼べないかもしれない。母親との愛憎を描いた特異な本だからだ。でも、読んで欲しい。
母親を病院に入れ、亡くし、自身が癌におかされ余命2年と宣告される彼女の人生の流れに添って読めば、ことばの響き方も違ってくるように思えるからである。

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