« 『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社) | トップページ | 阪神・淡路大震災から14年 (2) »

阪神・淡路大震災から14年 (1)

1995年1月16日、私は最終に近い新幹線で東京から大阪へ向かった。23時半頃、会社が事務所兼宿泊所として借りていた、天満橋近辺にある3Kの古いマンションに到着。荷をとき、翌日の仕事の準備をしてベットに入ったのが、日付も変わった17日午前3時。そして・・・。

午前5時46分。爆音と揺れで飛び起きる。ベッド横の窓ガラスの衝撃音が凄まじく、一瞬近くでガス爆発が起こったのではないのかと身構えた。東京では何度も震度4を経験していたが、それを上回る衝撃だった。
すぐにテレビをつける。しばらくして京都震度5の表示。しかし、なかなか詳しい情報は入ってこない。6時過ぎ。徹夜していた会社の後輩から電話が入る。「関西の方で大きな地震が発生したみたいですが、大丈夫ですか?」と。皆には無事を伝えるよう、指示。その後妻にTELを入れ、無事を伝える。

朝一番の約束が入っていたので、詳しい状況を把握できないまま、得意先を訪問。担当者は出社していたが、どうやら大阪の地下鉄も止まっている線があるらしい。連絡のつかない社員もいるとのこと。大きな影響が出始めていると感じる。早々に打ち合わせを終え、事務所に戻る。

テレビをつけた途端、からだが震えた。現実とは思えぬ光景が映し出されている。ほぼ全国民が息を呑みながら目にした映像であろうが、激震を我が身で感じていただけに、恐怖に近い感情がわき起こってきた。
阪急、JR、阪神の各沿線、そして神戸には多くの得意先がある。芦屋には親戚が2件。昼頃、親戚の無事が確認された。しかし、得意先に関しては、どうしようもない。大混乱の状況下、連絡を入れるわけにもいかない。(連絡を取ろうとしても繋がらなかったであろう)
夕方、外に出る。すぐ隣の県で大惨事が起きているというのに、大阪の中心街は見かけは平常そのものだった。言いようのない違和感に囚われる。何ヶ所かビルの窓が割れ、歩道にロープが張られているのを見たものの。
出張は10日~12日間の予定だったので、大阪に留まることにした。仕事にはならないが、助かったとはいえ、親戚のことも気掛かりでならなかったからだ。

翌日からある異変が起きる。コンビニ、スーパーの店頭から水、パン、インスタント食品、カセットガスボンベなどが姿を消し、パン屋では「お一人様2個まで」という、販売制限が始まる。身を寄せるあてのある被災者が大阪を目指す一方、大阪の人々は必需品を買い集め、神戸方面へと救助、援助に向かう。

4日後の21日。私も、奈良の従姉、京都の従弟と共に3人で芦屋の伯母の家を目指した。電車で行けるところまで行き、後は歩いて約3時間。乗車中、窓外の街並みが変化していく。最初は屋根にブルーシートがかけられた、おびただしい数の家。それを過ぎ、阪急西宮北口駅に近づくに連れ、壊れたり傾いた家が目に飛び込んでくる。
歩き始めると、道のあらゆるところが盛り上がり、裂けていた。場所によってはうねっている。思うように歩けない。キャリーカートにくくりつけた救援物資が重く感じられる。多くの人が黙々と西へ西へと向かっていた。

芦屋の山側にある伯母の団地は、ところどころ外壁にひびが入っていたものの、なんとか生活できる状態は保たれていた。家の中に足を踏み入れ、いかに大きな揺れだったかを知る。食器類は粉々に砕け散っていた。寝室のベッドにはタンス他家具類が倒れ込んでいる。大きな怪我もなかったことが奇跡に思われた。
日が落ちないうちにと私一人、海側の埋め立て地に建てられた、もうひとつの親戚の家に向かう。阪神芦屋駅あたりから、ぐちゃぐちゃにつぶれた多くの木造家屋の残骸が視界に入って来る。足を止め、思わず手を合わせていた。
車道を走れないところでは、原付バイクの二人乗りが歩道の上をゆっくり走っていく。誰一人咎める者はいない。やむを得ないからだ。国道は車による大渋滞。サイレンの音が響き渡り、上空にはヘリの音。目の当たりにする光景を何と表現すればいいのだろうか。語弊があることを承知で言えば、ある種の戒厳令が布かれたら、このようになるのではないかとさえ思われた。実際、長田など火災による被害が甚大だったところは、戦場の焼け野原のようだとも表現された。

『記憶よ語れ 阪神大震災』(作品社・1995年8月発行)の中で、一昨年夏に亡くなった小田実は次のように語っている。

八十五歳の祖父は末期がんで入院していたが、死傷者続出の病院から追い出された。ろくに毛布の配給のない、水とおにぎりとパンだけの食事、コンクリートの床にさえ人々が眠る「避難所」の暮らしは「難民」どころか「棄民」の暮らしだ。(略)怒りが体内に噴き上がって来ている。何が「大国」、「先進国」かと思う。これは決して「天災」ではない。「人災」だ。ここ十数年、神戸、芦屋、西宮でやってきたことは、地域経済の発展を大義名分としての、税金をふんだんに使った乱開発だった。六甲山を削り、埋め立て地用の土を取り、トンネルを何本も掘り、海は埋め立て、高速道路を強引に押し通す。これは日本全体でやってきたことだが、このあたりの乱開発はひときわ群を抜いていた。(略)マス・メディアの世界ではテレビジョンの有名なニュースキャスターたちが、学者相手に、東京は大丈夫でしょうかと、何千人が生き埋めになっている最中に論じ上げていた。彼らの目には、建物、道路は見えていても、人間の姿は見えていなかったに違いない。

政府、自治体の危機管理体制の不備、乱開発による影響という点で、被害の拡大は確かに「人災」の意味合いも強い。小田実の言葉には真摯に耳を傾けるべきであろう。同時に、未曾有の災害に襲われた際、大混乱の中、一人一人がどのように行動するかも、同じくらい大切なことではないだろうか。天災そのものは避けられないからだ。

大震災から13年間、同日同時刻に黙祷をし続けて来たが、今年は事情もあって怠ってしまった。するとその夜から急に発熱し、ダウン。嗤われるかもしれないが、「風化させてはならない」という思いはほんものか?と問われたような気がしてならない。
(続く)

|

« 『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社) | トップページ | 阪神・淡路大震災から14年 (2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1132277/27284637

この記事へのトラックバック一覧です: 阪神・淡路大震災から14年 (1):

« 『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』 (河出書房新社) | トップページ | 阪神・淡路大震災から14年 (2) »