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2008年12月

2008年 本とCD

今年印象に残った本とCDをいくつか。本に関しては、小説はほとんど新刊で読むことがなくなってしまった。ミステリー、エンターテインメントの類も然り。話題になっても、どうしても読みたいという気持ちにならない、読んでおかねばなるまいという気持ちにもならない。歳のせいばかりでなく、魅力ある作家が少ないとうのが正直なところだ。
新刊よりも古本で買うことが今年は多かった気がする。取りあげたのは、あくまで今年発売されたもの。よって、新刊とは限らず、復刊、改訂、文庫化、新書化、再編集された本も含んでいる。★は推薦本。

〔 単行本 〕
★  荒川洋治 『読むので思う』(幻戯書房)
★ 佐野洋子 『シズコさん』(新潮社)
★  ねじめ正一 『荒地の恋』(文藝春秋)
★ 多田富雄 『寡黙なる巨人』(集英社)
★ 吉本隆明 『日本語のゆくえ』(光文社)
● 吉本隆明 『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局)
● 岡崎武志・山本善行『新・文學入門』(工作舎)

〔 新書 〕 
★ 湯浅誠 『反貧困 -すべり台社会からの脱出』
● 岩田靖夫 『いま哲学とはなにか』(岩波新書)
● 大澤真幸 『逆接の民主主義―格闘する思想』(角川oneテーマ21)
● 吉本隆明 『「情況への発言 全集成1~3』(洋泉社MC新書)
● 山際素男 『チベット問題』(光文社新書)

〔 文庫 〕
★ 山村修 『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)
● コールズ 『シモーヌ・ヴェイユ入門』(平凡社ライブラリー)
● サルトル 『存在と無Ⅲ』(ちくま学芸文庫)
● チェーホフ 『カタシンカ・ねむい』(岩波文庫)
●澁澤龍彦『澁澤龍彦 書評集成』(河出文庫)

〔 雑誌 〕
★ 『考える人 海外長篇小説ベスト100 2008年春号』(新潮社)
● 『東京人10月号 アウトロー列伝』(都市出版)
● 『東京人12月増刊 三鷹に生きた太宰治』(都市出版)

〔 CD 〕 発売年月日に関係なく、今年購入したものから。
■ バッハ 『マタイ受難曲』 リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団(1958年録音)
■ マーラー 『交響曲第2番 復活』 メータ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 上記2枚はSHM-CDで再購入。音が格段に良くなり、改めて感動。
■ マーラー 『交響曲第3番』 ハイティンク指揮 シカゴ交響楽団
 バーンスタイン盤以外、何を聴いても満足いかなかった。ようやく2枚目の愛聴盤が現れた。
■ブルックナー 『交響曲第8番』 テンシュテット指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1981年ライブ)
■ベートーヴェン 『弦楽四重奏曲第14番・16番』 ヴェーグ弦楽四重奏団
■ ワーグナー 『ニーベルングの指輪』 カイルベルト指揮 バイロイト祝祭管弦楽団(1955年ライヴ)
購入を迷っているうちに、品切れになってしまっていた。この一年かけて、ディスクユニオンに通い、中古で国内盤を揃える。ショルティ盤を凌駕。これで指輪は、カイルベルト盤とベーム盤が私にとっての両輪。後はブーレーズのDVDがほしいところだが、残念ながら我が家にはDVDプレーヤーがない(笑)

よいお年をお迎えください。

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CMの音楽とメッセージ 映画『八甲田山』の音楽を流すCMに違和感(2)

過日、映画『八甲田山』の音楽を流すCMに違和感という記事を書いてから、芥川也寸志『八甲田山』を少なくとも30回は聴いている。

1曲目はこの音楽のテーマがやや控えめに、かつ短めに奏でられる。2曲目の雪中行軍の音楽には、生と死の対比が鮮やかに盛り込まれている。3曲目の美しい調べには、胸をしめつけられる。厳寒の中にあってやわらかな春を思い、「死」を意識せずともすむ、穏やかな世界への希いに充ちている。そして終曲。チェロとハープの寂しげな音色が、聴く者を雪の八甲田へと引き戻す。映画を観た人ならば、さまざまな場面が浮かんでくることであろう。曲は八甲田のテーマを伴いながら徐々に盛り上がり、ティンパニー、シンバルの強奏とともに終わる。

勇壮というイメージは、私には微塵も感じられない。踏破は不可能と思われていた雪中行軍ゆえ、生きて帰れぬやもしれぬという覚悟を抱いていた者も多くいたはず。しかし、誰一人「死して礎となる」つもりなどあったとは思えない。「この悲劇を忘れてはならない」。そんな芥川のメッセージと鎮魂の想いが、この曲に込められているように思えてならない。

その後2度ほど、CMを見た。ますます腹立たしくなった。1000歩譲ってこのCMに功があるとするならば(功とも言いたくはないが)、映画『八甲田山』、新田次郎『八甲田山死の彷徨』、芥川也寸志『八甲田山』などに触れる人が、新たに出てくることぐらいだろうか。

こんなもやもやとした気分を引きずる中、いいCMに出会った。サントリーオールドのCM。画面に目を向けていなかったのだが、耳慣れた「夜がくる」(小林亜星作曲)が聞こえてきた途端、懐かしさに誘われ、思わず見入ってしまった。父親役の俳優、國村隼はドラマで見かけたことはあるが、名前は知らなかった。目で演技できるいい俳優だなと思った。若い男性のせりふは入れず、字幕の方がもっといいのにと、個人的には思えたが、ひどいCMの影にとりつかれていただけに、いいもの見たなとほっとした。

30秒、60秒の短い時間であっても、CMとて、ひとつの作品だ。「残念だな・・・。嫌な奴なら一発殴れたのにな」。娘のいない私にも、ぐっとくる言葉だった。

パロディが悪いとは思っていない。楽しいCM(広告)、お腹をよじれさせてくれる面白いものも歓迎だ。不快感がなく、メッセージを伴っていれば。そのメッセージが必ずしも、何かを深く考えさせるものでなければならないとは思っていない。ソフトバンクのCMも、最初の頃のものは数バージョン見たが、奇抜で面白かった。

ネガティブアプローチの手法を取り入れ、1990年頃「史上最低の遊園地。TOSHIMAEN」で話題を呼んだ、豊島園の広告などは今もって名作だと思う。「だまされたと思って、いちど来てみてください。きっとだまされた自分に気づくはず。楽しくない遊園地の鏡として有名な豊島園は、ことしも絶好調。つまらない乗り物をたくさん用意して、二度と来ない貴方を心からお待ちしています」。

最後に、高校の後輩が制作に関わっていたと後で知り、さらに驚いた明治安田生命のCM。もう、今さらここで持ち出すまでもないのだが、You Tubeで久しぶりに見て、やはり沁みた。
私にとって小田和正といえば、なんといってもオフコース。しかも、鈴木康博が抜ける前の。『言葉にできない』は忘れられない曲のひとつ。この曲をバックに、写真と字幕のみ。スポンサー名を含み、ナレーションはいっさい無し。「ただ精一杯生きる」「あなたに会えて、ほんとうによかった」「ありがとう」。言葉にしてしまえば、一見単純そうなメッセージだが、様々な思いが込められていて、見る人それぞれに、いろいろなことを考えさせる。

こういうCMもないと、TVのCMは、商品名連呼でただうるさいだけ、購買欲を煽るだけという、陳腐なものがますます横行するようになってしまうだろう。

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「荒地」と「どん底」

四谷書房さんが12月25日の日録の中で、田村隆一『若い荒地』と「どん底」に触れていたので驚いてしまった。

というのも、ねじめ正一『荒地の恋』(文藝春秋)を面白く読み、田村隆一の『若い荒地』が講談社文芸文庫で発売された際、気になってすぐに購入していたからだ。まだ通読はしていない。詩について、それほど詳しいとは言えぬ私には、中身がかなり濃いため、一気に読めるものではなかった。

しかし、鮎川信夫、中桐雅夫、三好豊一郎、北村太郎などの若い頃の様子を知ることができ、田村のこの手の文章は初めて読むことになるので、興味は尽きない。上記4人に田村を含めた5人による座談会、鮎川、中桐、佐々木幹郎による解説、鮎川の日記などを含め飛ばし読みした程度だが、彼らの熱気がひしと伝わってくる。
本文144頁から162頁に亘る「最初の『死』の完成」には心打たれた。詩人牧野虚太郎の存在を私は知らなかった。もちろんその死も。ここでとりあげられている、中桐、三好、鮎川の追悼の文章は哀切で美しい。

そして、「どん底」。おそらく新宿三丁目の居酒屋「どん底」のことだと思う。三島由紀夫、美輪明宏、越路吹雪、野村萬、美川憲一、岸田今日子、吉行和子、富士真奈美、山下洋輔など、多くの有名人も足を運んだ店である。先般亡くなった峰岸徹もその一人だ。
22~23歳の頃、一人でよく足を運んだ。地下のカウンターが好みの席だった。誰かと話すわけでもなく、ただそこで飲むのが心地よかった。午前0時を過ぎると客層も変わってきて、彼らの話に耳を傾けるだけで酔えた。ほとんど安アパートで飲んでいた中、唯一の贅沢だったような気もする。社会人になってから、友人や会社の後輩などを連れていった。みな一様に興味を抱き、また来たいと言っていたものだ。もう7年近く行っていないが、この夏の昼間、近くを通った際に足を向けてみたら、あの佇まいのまま店は残っていた。久しぶりに行ってみたくなった。

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〔 雑記 〕 36年振りに読む息子の文章

仕事を早めに切り上げ、夕方から母を整形外科へ連れて行く。リハビリも行うので、3時間近く要する。病院横の珈琲店で話をする時間も含まれるからだ。
23日に両親と妻の4人、(実家で)ささやかなクリスマス会をした際、プリントアウトした(私が書いた)ブログ記事を何点か渡しておいた。それを何度も読んだみたいだ。身体はボロボロ、痛みもあるはずなのに、穏やかな顔を見せてくれた。
考えてみれば、小6の時に書き、市報に掲載された臨海学校感想文。中2で書いた「暗夜行路論」。それぐらいしか、息子の文章を読んだことがない。誕生日や母の日、クリスマスカードに書くのは文章と呼べるほどのものではないから。

高3の時、倫理社会の授業には試験がなく、提出する論文のみで成績を評価されるのがわかっていた。それをいいことに、代返で、開始早々少なくとも10人は教室から抜け出した。私は抜け出したメンバーの一人なので、3分の1くらいしか授業を受けていない。ノートを取ることは一度もなかった。申し訳程度に出た授業中も、好きな本ばかり読んでいたからだ。つくり話ではなく、そういうことが科目或いは教師によっては許される高校だった。教師も、代返とわかっていて、ニヤニヤ笑っていた。ひどい時は、一人の生徒が3、4人分「はい」と返事するのだ。
その先生の名誉のために言っておくが、卒業後開かれた同窓会で誰かがクラスノートを持ってきて、その中に授業のことが書かれているのを見て腰が抜けそうになった。ヘーゲルの弁証法のことなどが、こと細かに書かれている。その先生、数年後にはヨーロッパの大学へ哲学の勉強のため留学してしまった。要するに、「私の授業なんぞ、君らにはわかるまい」という感じで、余裕の笑いだったのだろう。完全に小僧っ子扱いされていたわけだ。
私は原稿用紙60枚前後の「ドストエフスキー論」を書いた。コメントはなく、最後に「Good」と書かれていた。教師が読んだのは、最初の5枚と最後の5枚程度ということがはっきりとわかった。その部分だけ、ところどころ赤い線が引かれ、4重丸や5重丸が書き込まれ、時に?があった。間の50枚は、図書館で借りてきたE.H.カー他の本からの引用などに、拙いコメントを付けた程度。つまり、そんな部分はわざわざ読むに値しない、お見通しだよと言われたようなものだ。なのに、一番いい評価をくれた。奇人、変人の類なのか、酔狂だったのか、今もってわからない。
そんなわけで、その文章は両親には見せられなかった。

拙いものであれ、36年振りに息子の文章を読んで、嬉しかったのだろう。
ちょっとした親孝行になったみたいだ。

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クリスマスの音楽 キャスリーン・バトルとサラ・ブライトマン

キャスリーン・バトルは22年前、ニッカウヰスキーのCMの中で、「オンブラ・マイ・フ」を歌って一躍有名になったソプラノ歌手。この曲はヘンデルのオペラ『セルセ(クセルクセス)』の中のアリアなのですが、ほとんど単独で取りあげられます。「ラルゴ」とも呼ばれ、様々にアレンジされていますが、ジョージ・セルという指揮者が(歌なしの)オーケストラで美しい演奏をしています。同じCDに入っている『水上の音楽』『王宮の花火の音楽』も名演ですので、お薦めの一枚です。

話を戻します。クリスマスの季節になると、必ずバトルのCD、『きよしこの夜/バトルークリスマスを歌う』を聴きたくなってしまいます。2年ほど前までは、他のクリスマス音楽のCDと並べられているのを見かけましたが、今年は全く見かけません。どうやら品切れに近い模様。どうして?と首をかしげてしまいます。このアルバムの中の「聖夜」(アダン)、「マリアの子守歌」(レーガー)は、言葉では表現し尽くせぬ美しさに満ちています。そしてやさしい「祈り」の気持ちが伝わってきます。もちろん、シューベルト、バッハ/グノーの「アヴェ・マリア」、「きよしこの夜」、「神の御子は今宵しも」、「久しく待ちにし」なども悪くないのですが、上記2曲が突出していて、霞んでしまいます。「聖夜」と「マリアの子守歌」2曲を聴くためだけでも手元に置いておく価値がある。そんな気持ちにさせてくれる、お薦めのアルバムです。新譜が手に入らなければ、ディスクユニオンなどの中古CDショップなら見つけられるかもしれません。今年は無理でも、来年のクリスマスにいかがでしょうか。

さて、説明する必要もないほど有名なサラ・ブライトマンの『冬のシンフォニー』(デラックス・エディション)。ちょっと残念というか、80点の出来だったというのが、あくまで私の、正直な感想です。期待、求めるものが大きいからだと思います。

バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」は、彼女の歌となり、バッハではなくなっています。もし、この曲を、カンタータ147番「心と口と行いと生きざまは」のコラール(第6曲、第10曲)で聴いたことのある方なら、わかっていただけるのではないでしょうか。「アメイジング・グレイス」は、歌唱力の点では及ばなくても、ドラマ「白い巨塔」で使われた、ヘイリーの歌の方が好みという方がいても、おかしくはないと思います。表現の仕方が全く違うので。「アヴェ・マリア」は、バッハ/グノー作曲のものが収められています。彼女以外に、こうは歌えないだろうという文句のない出来です。が、「アヴェ・マリア」なら、 『アヴェ・マリア~サラ・ブライトマン・クラシックス~』に収められているシューベルトの「アヴェ・マリア」の方が断然素晴らしい。他に感じたのは、彼女にデュエット曲は向いていないのではないかということです。男性の声と溶け合わないのです。男性歌手の技量云々ではなく、彼女に合う男性の歌声というものがあるのだろうかと思えてしまうのです。

唯一不満だったのは、付録のDVD。オーケストラと美しい星空をバックに、彼女の歌だけを聴いていたいと思うのに、舞台の前にアイススケートリンクが設けられていて、歌の最中にスケーターが滑り、邪魔になるのです。特に「ランニング」の中に出てくる、彼女ならではの「ジュピター」くらい、こんな演出せずに、じっくり聴かせてほしい!と思うのは、私くらいのものでしょうか。

再びCDの曲に戻って。「イン・ザ・ブリーク・ミッドウィンター」「アイヴ・ビーン・ディス・ウェイ・ビフォア」「ハッピー・クリスマス」「若葉のころ」「ヒー・ムーヴド・スルー・ザ・フェア」。サラ・ブライトマンの良さがフルに発揮されていて素晴らしい、のひと言。そして、昔シングルレコード(ドーナツ盤)でよく聴いた「Soleado(哀しみのソレアード)」。アルバムでの曲名は「ホェン・ア・チァイルド・イズ・ボーン」。彼女の美声が静かに、、やわらかく、暖かく、こころの中に染み込んできます。

何だかんだ言ってしまったのは、どうしてもアルバム『アヴェ・マリア~サラ・ブライトマン・クラシックス~』が頭の中にあるからです。このことはまた別の機会にお話ししたいと思います。

穏やかで、心安らかな、素敵なクリスマスを!

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言葉にならないことば 言葉と沈黙 

言葉は難しい。そのひと言で救われることもあれば、何気なく向けられたひと言に深く傷つくこともある。どれだけ言葉を費やしても伝わらない想いもあれば、言葉などなくても、寄り添っているだけで、想いが伝わることもある。長年連れ添った相手、心から信頼できる友であっても、言葉にしなければ伝わらないことがある。
一方、沈黙はどうだろう。峻拒の表明。あるいは、敢えて言葉にしないのが愛情ということもあり得る。
言葉と沈黙。本質的な部分では、補い合い、支え合っている。言葉は、時に沈黙を背景として際立ち、沈黙は無ではなく、多くの言葉が語られる中で、大きな意味を持つ。

スイスの哲学者マックス・ピカートに『沈黙の世界』(みすず書房)という著書がある。沈黙を失ったがゆえに、人間の本質が変わってしまったと、警鐘を鳴らしている。60年も前に書かれた本だが、現代のように言葉や音が、あたかも記号の如く消費されることを予見しているのだ。ピカートは、自然、文明、病と死、など多くの場面における沈黙の本質、意義を説いている。

「沈黙は言葉にとって自然であり、休息(いこい)であり、未開の原野である。沈黙によって言葉は、言葉自身によって生じた暴虐から身を清める。沈黙の中で言葉は息をひそめ、そしてふたたび根源的な力でもって自己を充たすのである」。
「沈黙は言葉がなくても存在し得る。けれど、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もし言葉に沈黙の背景がなければ言葉は深みを失ってしまうであろう」。
「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙は単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである」。

私は、ピカートが、沈黙に至上の価値を見いだしているとは思えない。沈黙が内包する豊かさを感知できれば、この世界が、より奥行きをもって現前することを伝えている。

また、ピカートは、根源的な愛の在り方を次のような言葉で語っている。

「愛の中にはことばよりも多くの沈黙がある。恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人は、その言葉よりも沈黙に聴き入っている」。
黙って!あなたの声が聞こえるように」。

歌手長渕剛が、以前次のように語っていた。

互いが理解し合う時、その共通言語なんてほとんどないと思っています。口に出せば出すほど、自分の想いはますます空回りします。そして、わかってもらえたかなあと半端に期待して、そのあげく想い通りの答えが返ってこないことを恐れるのです。そして、ますます、また孤独になります。だから、「そんな事わかってるだろう?」というところから常に出発するのです。その人間の内側から発せられる手段が言葉だとすれば、さらにその言葉の裏側というか、内側の想いを理解しようと努めます。「なにを言いたいんだろうか?」と考えるのです。だから、瞳と背中しか信じません。それだけで、充分ですから---。

長渕は言葉を否定してはいない。良くも悪しくも人に影響を及ぼす言葉の力、危うさというものを受けとめている。そうでなければ、言葉に想いを託して歌うことなどできないはずだ。内奥から発せられる「ことば」に耳を傾けようとしている。それが、「瞳と背中しか信じません。それだけで充分ですから」という言葉になったのではないだろうか。

私は「沈黙」の重要さを感じている。と同時に、「言葉」も大切にしたい。言葉は両刃の剣でもあるから、よりいっそう大事にしたいと思う。相手に自分の「ことば」が届くように。容易なことではないが。

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行商

我が家では本やCDをまとめて売りに行くことを「行商」と呼んでいる。もちろん処分するのは私だが、馴染みの古本屋に持ち込む時は、妻に車を出してもらう。
この前、文庫が不足していると聞いていたので、今回は文庫本を120冊、単行本20冊ほど処分した。
ブックオフなどにあふれているような本は基本的に出さない。これは決め事にしている。すると、文庫の場合、だいたいこんな感じになる。
〔講談社文芸文庫〕
『青葉の翳り』『一期一会 さくらの花』『妖という女・正妻』『巴里芸術家放浪記』『再婚者 弓浦市』『深い河 辻火』『才市 蓑笠の人』『朝霧 青電車』『ガラスの靴 悪い仲間』『放浪時代 アパートの女たちと僕と』など
〔講談社学術文庫〕
『銀河と地獄』(川村二郎)『与謝蕪村』(安東次男)『共産主義批判の常識』『和漢朗詠集』
〔中公文庫〕
『芥川龍之介』(宇野浩二)『文藝復興』『思想の運命』『黒い文学館』『歴史・祝祭・神話』『本の神話学』『或る青春の日記』『青き麦燃ゆ』『赤い霧』など。
〔ちくま文庫・ちくま学芸文庫〕
『定家明月記抄』『深沢七郎の滅亡対談』『桃仙人』『インドへの道』など。
〔岩波文庫〕
『哲学書簡』『神々は渇く』『ペンテジレーア』『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』『新編 学問の曲り角』など。
〔新潮文庫〕
『アポロの杯』『熱帯樹』『憂鬱なる党派』『人間にとって』『廃市 飛ぶ男』『この世 この生』『人間滅亡の唄』『芸術と実生活』『島崎藤村』『重き流れの中に』『丸山蘭水楼の遊女たち』『南回帰線』『悪魔と神』『鹿の園』『ルーマニヤ日記』など。
〔角川文庫〕
『女について』(ショーペンハウエル)『ゴッホの手紙』(小林秀雄)『人工楽園』など。

色川武大『明日泣く』『花のさかりは地下道で』、文春文庫の福田 恒存、船山馨『見知らぬ橋』(角川文庫)、舟橋聖一『好きな女の胸飾り』(講談社文庫)、『ボマルツォの怪物―澁澤龍彦コレクション』(河出文庫)ほか。

「古本市」に出せるような本も多いが、それはまた別のこと。これまでの、そしてこれからの長いお付き合いを考えて、このようになった。

処分後、以下の本を購入。

●内海健『「分裂病」の消滅 精神病理学を超えて』(青土社)
●『吉本隆明を<読む>』(現代企画室)
●桶谷秀昭『ドストエフスキー』(河出書房新社)
吉本隆明と桶谷秀昭は、かつて売ってしまったのだが、また読みたくなった。このように買い戻す形になることが多い。

帰りは散歩を兼ねてブックオフに寄る。単行本500円均一セールをやっていたので2冊ほど。
●ロラン・バルト『明るい部屋』(みすず書房)
●黒岩比佐子『音のない記憶 ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)
ついでに100円コーナーから。
●森茉莉『父の帽子』(講談社文芸文庫)
●岡本かの子『生々流転』(講談社文芸文庫)
●小林信彦・荒木経惟『私説東京繁昌記』(ちくま文庫)
●D.H.ロレンス『現代人は愛しうるか 黙示録論』(中公文庫)
●浅羽通明『アナーキズム』(ちくま新書)
●貝谷久宣『気まぐれ「うつ」病』(ちくま新書)
●春日武彦『問題は、躁なんです』(光文社新書)
●市村弘正・杉田敦『社会の喪失』(中公新書)
●『ワーキングプア 日本を蝕む病』(ポプラ社)

これだけ買って2000円でお釣りがくるなんて、本当にいいのだろうかと思ってしまう。本好きにはありがたいことではあるが、本の「価値」を考えない市場が膨らんでいったら、出版界への影響は甚大なはず。複雑な思いだ。

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〔雑記〕 クリスマスの思い出

私の父は、1943年、神宮外苑で行われた学徒出陣式の中にいた。医者だった父親(私の祖父)を3歳の頃に亡くし、母親(私の祖母)が妹二人を含む3人の子供を女手ひとつで育てた。母親と離れ、親戚の家にやっかいになることも多かったらしい。

幼少の頃から絵を描くことが大好きで、絵描きになりたかったみたいだ。大阪から単身上京し、上野の美術学校に入ったものの、戦況の悪化で徴兵された。戦地に赴く前に九州で終戦を迎えた。銃の整備中、仲間の銃の暴発で左の指を弾が貫通し、今も曲がったままである。美術学校は繰り上げ卒業。戦後の混乱期、油絵を描いて食べていけるはずもない。学校でしっかり技術を習得することもなかったのだから。社会がある程度落ち着くまでは、看板描き、雑誌のイラスト、童話の挿絵など、金になることは何でもやって糊口をしのいだらしい。

母と一緒になる頃には、油絵も描けるようになっていて、花や果物を描いた静物画、依頼された企業人の肖像画など、ぽつぽつと売れるようにはなっていたみたいだ。それでも、食べていくのは楽ではない。

私が小学校に上がる前のクリスマスの頃、年子の弟を含む家族4人で横浜へ行った。父は油絵を抱えていた。交渉は不成立、絵は売れなかった。母と3人で待っていた私にも、うまくいかなかったという雰囲気は伝わってきた。せっかく横浜まで来たのだからと、出来て間もないマリンタワーに、父と私と弟の3人で上った。母は倹約のため一人、下で待っていた。その後、市街の大衆食堂へ。大勢の人で賑わっていた。

何を食べたかは憶えていない。食事中、ひとりのおじさんがやって来て、弟と二人にミニカーをプレゼントしてくれた。絵を抱えた父、そして母、幼い兄弟。その光景が目立ったのだろうか。おじさんが何故ミニカーを持っていたのかも、わからない。我が家の外で現れたサンタクロース。雪は降っていなかった。街にはジングルベルやきよしこの夜などの音楽が流れていた。

幼い心に焼き付いた、忘れられないクリスマスの思い出。

贅沢はできなかったが、貧しいという思いは一度も抱かなかった。ほしいものがあっても、誕生日まで、クリスマスまで、○年生になったらと言われ、それまで待った。それがあたりまえと思え、苦痛ではなかった。

その後父は油絵を断念し、劇画、新聞、雑誌のイラスト、社報の表紙を描いて家族を養った。弟が一足先に家を出て働くようになり、まだ学生だった私も、バイトをかけもちし、学費以外は負担をかけないようになっていた。油絵も含め、ようやく好きなことができるかもしれないと思いかけた時、父の妹と同居していた母親を突然ひきとることになり、父の願いはかなわなかった。狭い団地のため、祖母の部屋がない。急遽、私が家を出て、一人暮らしを始めることになった。エアコンも風呂もない、6畳一間のアパートだった。

今父は86歳、母は85歳。クリスマスは必ず両親と過ごすことにしている。今年もその日が近づいてきた。

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映画『八甲田山』の音楽を流すCMに違和感

芥川也寸志作曲『八甲田山』を愛聴している。車の中、自室でも。

映画『八甲田山』は4回観た。原作である新田次郎『八甲田山死の彷徨』も、もちろん読んでいる。日露戦争の始まる二年前、八甲田山における雪中行軍で、200名近い死者を出した悲劇を描いたものだ。

サッカーの試合、ドキュメンタリーを除くと、TVはほとんど見なくなっている。たまたま見ていたニュース番組内の某携帯電話のCMで、突然八甲田山の音楽が流れてきた。CMの情景との齟齬に耳を疑った。制作者の意図が全くわからなかった。ネットで調べ、事情がわかり、さらに呆れた。CMに登場する犬の声は、映画で神田大尉役を演じた、北大路欣也の声だということ。で、『八甲田山』?
新田次郎、作曲した芥川也寸志が生きていたら何と言うだろう。
大手広告代理店がからんだ、たかが企業のCM。目くじら立てることのほどではないという声があろうと、この違和感は拭えない。

映画『八甲田山』には、忘れられない場面がある。高倉健演ずる徳島大尉が、雪の山中を案内してくれた村の娘さわ(秋吉久美子)に対し、「案内人殿」とよびかけ、三十一聯隊の兵士とともに最敬礼する場面。もうひとつ、今は亡き緒方拳演ずる白髪の老人が、生き残った兵士として、映画の最後に花の咲き乱れる八甲田山を訪れる場面。雪の八甲田とはあまりにもかけ離れた、美しい情景。いずれも、原作にはない設定ではあるが。
芥川也寸志の音楽も、単なる映画音楽と呼べないほどの完成度をもった、名曲だと思う。

八甲田山における悲劇という史実を考慮しない音楽の採用。良識を疑う。

※その後、同CMを何度か見て抱いた感想を改めて書いてみた。興味のある方はそちらもどうぞ。 CMの音楽とメッセージ 映画『八甲田山』の音楽を流すCMに違和感(2)

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〔雑記〕 ブログを始めてから一ヶ月

ブログを始めてから、ちょうど一ヶ月になりました。始めたことだけでも大きな自己変革でしたが、よく一ヶ月続いたものだと自分でも感心しています。社会に出てからの27年間、自分の中に貯め込んだものを文章という形でアウトプットする機会は、5回もなかったような…。ギュンター・ヴァントという指揮者の、日本最後となった演奏会の感想を、同窓生仲間のグループメールで書いたのが、8年前。その時も3日間かけて書き上げました。

それくらい遅筆な私ですから、一ヶ月で23本の記事を書くなど、驚異的とも言えます。もっとも、中身が薄いからとも言えますが(笑)。
1週間に一度でいいから、定期的に訪れてくれる方が(1ヶ月後に)10人いれば、ゆっくりしたペースでも、続けていけるかなというのが始めた時の目標でした。実際、始めて間もない頃は、一日でアクセス数1ケタとか、2ケタいっても12や17などという日もあったので、さすがにこれでは厳しいなと思ったりしました。

みちくさ市のリポートを書き始めると、リンク集をつくっていただいた影響か、一気に伸びましたが、一過性のものだろうと、わりと冷静に受けとめていました。事実、その後は身の丈に合っているという感じに落ち着きました。

今日でアクセス数が1,500を超えました。この数が少ないのか、まあまあましな方なのか、自分では判断できません。ただ、再訪問していただける方が、3割を超えていることが、励みになっています。

ということで、また一ヶ月書いていこうという気持ちになりました。3ヶ月とか半年などというのは気の遠くなる先のことなので。

タイムリーな話題、役に立つ情報からは遠く、これまでどおり半世紀の自分史の中で触れてきたものの中から、心に残っている人、本、音楽、出来事などを中心に書いていく姿勢は変わらないと思います。

典型的なアナログ人間ゆえ、まだまだ書く時の仕組みがのみこめません。、いったんアップしてみたら、行間は異様に空く、文字がバラバラにずれてる、誤字のオンパレード等々。毎回冷や汗かきながら、何度も訂正しています。

こんなありさまですが、よろしかったら、また遊びに来てください。

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入ってきた本、引き取られていった本(2)

前回はみちくさ市でのことしか触れられなかったので、今回は日常における、この2週間の古本購入記録です。

仕事の関係で、神保町にはよく行きます。また、古書店が近くにある仕事先へ行くと、例え10分しか見られなくても、足を運んでしまいます。もちろん、帰宅途中、休日にも徘徊。

〔地元馴染みの古書店から〕

■ E .M.シオラン『生誕の厄災』(紀伊國屋書店)1000円

崩壊概論』『歴史とユートピア』は読んだものの、これは未読のため。

■ 上林暁『随筆集 幸徳秋水の甥』(新潮社)

  随筆は読んだことがないので購入。

■ 堺利彦『堺利彦伝』(中公文庫)

〔いろいろな古書店から・・8店舗くらい〕

 中河与一『探美の夜』(講談社)300円

 中河与一の名前が目にとまると、条件反射で手が伸びてしまう。

野村秋介『獄中日記 ―千葉編―』(二十一世紀書院)1500円

 当ブログで書いた(これからも頻繁に登場する)地元馴じみの古書店に十数年前売ってしまった。やはり手元に置いておきたくて、買い戻したようなもの。

     高橋たか子『高橋和巳の思い出』(構想社)100円

  作家でもある妻が、高橋和巳をどう見ていたのか知りたくて。

     岩川隆『神を信ぜず BC級戦犯の墓碑銘』(中公文庫)300円

  山頭火を描いた『どうしやうもない私』の著者ゆえ。

     北森嘉蔵『神の痛みの神学』(講談社学術文庫)

   北森神学には、これまで触れたことがなかったので。

     小島政二郎『芥川龍之介』(講談社文芸文庫)500円

  『眼中の人』の著者ならば、読みたくなるのも当然。きっと芥川への愛情がいっぱい詰まっているはず。

     福永武彦『ゴーギャンの世界』(講談社文芸文庫)100円

   ゴーギャンの絵はどちらかというと苦手なほう。しかし、福永が書いたとなれば、読まないわけにはいかない。

● 山上たつひこ『光る風 上・下』(ちくま文庫)400円

 『がきデカ』のショックは未だに残っている。 彼がこんな作品を描いていたとは知らなかった。山村修が自著『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)で触れていた『喜劇新思想体系①』も読んでみたくなる。「笑いの文法がまったく違う」という、山村修(狐)の捉え方は鋭い。

     村井則夫『ニーチェ ―ツァラトゥストラの謎』(中公新書)300円

  共著、共編としてハイデッガー、西田関連本があり、かつ、リーゼンフーバー『中世思想史』の訳者であると知り。さらに、まえがきを読んで、300円ならお得だろうと。

     荒岱介『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書)200円

   廣松渉と交流を持ち、三年有余下獄した著者の視点から、どう語られるのか興味を抱き購入。

     目崎徳衛『出家遁世』(中公新書)

  やっと手に入れた!!

● 巌谷國士編集『ユリイカ臨時増刊 総特集シュルレアリスム』(青土社)400円

統一性を欠いた気ままな買い方です。引き取られていった本はありません。年末恒例の大量処分に向け目下作業中。持ち込み先は、もちろん馴染みの古書店新刊本の購入はゼロでした。

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入ってきた本、引き取られていった本(1)

みちくさ市から早2週間。年の瀬が迫り、公私ともに一段と慌ただしくなってきましたが、この間も本は出たり入ったり。その記録です。

〔みちくさ市で購入した本〕

● 辻まこと 『虫の図譜〔全〕』(ちくま文庫)

どこのお店だったか忘れてしまいましたが、600円前後の安価。見つけた!という感じ。嬉しい。

● 富岡多恵子 『厭芸術浮世草子』(中央公論社)

岡崎武志さんのお店で。赤瀬川原平装幀、帯の推薦文は澁澤龍彦。

● 大木健 『シモーヌ・ヴェイユの生涯』(勁草書房・昭和43年改訂版) ● 中村真一郎 『読書三昧』(新潮社)

以上2冊は古書現世さんより。直接向井さんからではありませんでしたが、挟まれているスリップの残りから間違いないと思います。ヴェイユは新品だと2,730円もするので手が出ませんでした。400円と知って迷わず購入。ありがたいな。

● 日影丈吉 『かむなぎうた』(現代教養文庫) ● 阿佐田哲也 『阿佐田哲也の怪しい交遊録』(集英社文庫) ● 小山清 『日日の麺麭 風貌』(講談社文芸文庫) ● 辻まこと 『あてのない絵はがき』(小学館ライブラリー)ほか、全部で20冊購入。

「秋も一箱古本市」では、他のお店を回る余裕がほとんど無く、数冊しか 購入できなかったため、今回はその反動が出てしまいました。

〔みちくさ市で引き取り手が決まった本の中から〕

● ロートレアモン 『ロートレアモン伯爵』豊崎光一訳(白水社)
● 佐野眞一 『宮本常一のまなざし』(みずのわ出版)
● 佐佐木幸綱編  『現代短歌 鑑賞日本現代文学32』(角川書店)
● 矢部智子、今井京助ほか『ブックカフェ物語』(幻戯書房)
● 山下武  『人の読まない本を読む』(本の友社)
● 田中眞澄  『ふるほん行脚』(みすず書房)

● バルザック 『暗黒事件』 (新潮文庫) ● ヴォネガット 『ヴォネガット、大いに語る』(サンリオ文庫)

「アリ小屋」さんが購入してくださいました。「一箱古本市」で互いの店で本を購入。お店の名前を覚えていなかったものの、お顔は憶えていました。それが、今回「みちくさ市」では隣同士に! 何という巡り合わせ。アリ小屋さんの感想。「外国文学は人気無いなあ」。

● 鴨下信一 『忘れられた名文たち』(文春文庫)

不忍ブックストリート春秋部、石井さんに。中村さんもご一緒に来ていただいたのにお会いできず、寂しい限り。ほんとうに素敵なお二人です。

● 寺山修司 『ひとりぼっちのあなたに』(新書館) ●栃折久美子 『モロッコ革の本』(筑摩書房)

あいうの本棚さんのお二人のもとへ。本もきっと喜んでいるはず。

● 小池昌代 『屋上への誘惑』(光文社文庫)

一箱古本市でお隣だったもす文庫さんがお見えになって、購入してくださいました。売り場から離れていてお会いできず、残念。

< 感想 >

丸山健二、人気無し。『争いの樹の下で』以降、自身読まなくなってしまったので、仕方ないか。それ以前のものは、エッセイ含め、けっこういい作品もあると思うのだけれど。福永武彦もダメでした。これは残念。『死の島』(新潮文庫)を出せば、ひょっとして、引きとり手がいたのかも…。
荒川洋治さん、完敗。『文学が好き』『忘れられる過去』『読書の階段』どれも1000円以上では、値段が高すぎたかなあ。親しい人で、喜んでくれそうな人のために、取っておこう。

「本の本、本屋さんの本、読書の本、ベスト本」というテーマを設けた本は、9割方引き取られていきました。やはりうち(とみきち屋)は、何かしらテーマを設けて出店するのが、個性も出せるし、似合っているのかもかもしれません。

会場を見て回って。ちくま文庫、講談社学芸文庫、中公文庫の多いこと多いこと。ちょっとした品切れ本も含め、かぶっている本が多いので、うちのような値付けでは残ってしまうのも当然か(笑)。金子光晴、寺山修司、澁澤龍彦、竹中労(芸能関連本)も多かった。『ねむれ巴里』、『美空ひばり』何冊も見ました。

みちくさ市後の、日常のことも書こうと思っていましたが、長くなりそうなので、続きは次回に。

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友と出逢い 本と出会う ー高校から浪人時代にかけての回想ー

彼らと出逢わなければ、自分の読書の歴史や傾向も随分変わっていたかもしれないと、今でもよく思う。

それまで、全くと言っていいほど、本を読まなかった私が、中1の夏に一冊の本をたまたま手にとった。三浦綾子『塩狩峠』(新潮文庫)である。キリスト教に関心があったわけでも、誰かに薦められたわけでもなかった。自己犠牲の精神の尊さに打たれ、本に魅力を感じるようになった。それがきっかけとなり、読書に開眼。

最初は文庫で日本の作家の代表作を手当たり次第に読み漁った。小説以外は、安吾の『堕落論』、小林秀雄を少々。漱石『三四郎』、川端『山の音』、谷崎『春琴抄』、志賀直哉『暗夜行路』、深沢七郎『楢山節考』などが特に好きだった。太宰にはかぶれ、文庫で手に入るものはすべて読んだ。啄木の歌集、光太郎の『智恵子抄』も繰り返し読んだ記憶がある。

中3になって海外文学へ。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、プレヴォー『マノン・レスコー』、リルケ『マルテの手記』、E.ブロンテ『嵐が丘』は2度続けて読み、ポーの短篇、チェーホフの短篇、トルストイの『アンナ・カレーニナ』はお気に入りになった。そして、ドストエフスキー。完璧にのめりこんでしまった。未だに手元には、下手くそな字で書いた、登場人物の相関図が残っている。作中、愛称も使われるので、これには随分と助けられた。

ここまでは取り立てて話すほどもない、どこにでも転がっている話である。

小説一辺倒だった私に一つの転機が訪れたのは高2になってからである。クラスは一緒ではなかったが、一目置いていた男から「これ読んだことあるか。○○(私の名)なら気に入ると思うぜ」と渡されたのが、倉田百三『愛と認識との出発』だった。夢中になり、夜を徹して読んだ。『出家とその弟子』は読んでいたが、この本の存在は知らなかった。

それからしばらくして、渡されたのが吉本隆明『情況』

マルクーゼ、フーコー、アルチュセール、フーリエ、レヴィ=ストロース、ウィーナー、ゲーデル……。いったい誰? プラグマチズム、アナルコ・サンディカリズム、関係の絶対性、共同規範としての言語、構造主義、重層的決定、不完全性定理、サイバネティックス……。何のこと?一ヶ月かけても読み通すことはできず、ほとんど理解できなかったと言える。ただ、その容赦ない語り口、独特の言い回し、鋭い観察眼には強く惹かれた。自分の読書体験の中で出会ったこともない世界だった。

大学紛争における教授陣たちの姿勢に対する批判、太宰の逸話に触れながら何人かの文学者のいんちきさを説いているところには共感を覚えた。前田武彦、野末陳平、青島幸男、大橋巨泉などの芸能人を扱った章は、とりあげる対象が他の章とは異質だが、同じ著者の「ことば」で語っている、つまり、ぶれたりせず、同じレベルでさばいているように感じられ、面白く読めた。

同い年の人間が、こんなものを読んでいることに大きなショックを受け、自分の世界の狭さを恥じた。私の貧弱な読書の畑に、彼が大きな種をまいてくれたと、感謝している。

今では、吉本隆明自身の著書、雑誌『流動』『テーゼ』『ユリイカ』『現代思想』『現代詩手帖』などの吉本特集、多くの吉本隆明論を含めると200冊を超える吉本関連本が手元にある。

もう一人、同じ高校の友人。授業の厳しさ、難しさゆえ、畏怖されていた国語の教師が、ただ一人絶賛したという彼。お互い浪人が決まり、予備校が同じになった。彼は国立コースだったため、校舎も授業時間も別だったが、共に過ごす時間がどんどん多くなっていった。二人とも気に入った英語の人気講師がいた。コースが異なると教材が違うので、互いの教科書をコピーし、もぐりで授業を受けた。顰蹙を買いそうだが、当時は当たり前のように行われており、講師自身が承知していた。小さめの教室の後ろには立ち聴きの列、すごい時は、開いたままのドアの外から覗き込んで聴いている者もいたくらいで、誰が見ても一クラスの人数を遙かに超えている。のどかな時代であった。

彼も私も、自分のカリキュラムの半分はエスケープしていた。こんなつまらない授業を聴いているくらいなら、喫茶店で本を読んでいた方がいいと思うところが、似ていたのだろう。彼のバッグは、いつも異様に膨らんでいた。教科書に辞書を2冊加えてもそんなにはならないというほど。一緒に過ごすようになって間もなく、中を見せてもらった。白い大きな本が入っていた。メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房)。言葉を失った。

吉本隆明の本は少しずつ読む量が増えていたものの、哲学となるとサルトル『嘔吐』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』、デカルト『方法序説』くらいしか読んでいない。当然、その分野では彼の話し相手はつとまらない。時折解説してくれたが、こちらには下地がないのだから、理解できるはずもない。それゆえ、話題は自ずと文学になったが、2時間、3時間話しても飽きなかった。秋の気配が感じられるようになった頃、彼はフーコーの『言葉と物』に挑んでいた。

なんとか浪人生活から抜け出した後、彼の影響もあって、哲学、思想書ばかり読みふけるようになっていた。それは同時に、古本屋通いの始まりでもあった。

最初の彼は、本来なら完璧に文系の頭なのだが、特別な動機があって、小児科医になった。今も1年に一回くらいは会っている。相変わらずの読書量だ。浪人の時の彼とはもう20年以上会っていない。どこで何をしているのか、私の知人で知る者がいない。

今、彼に、一番会いたい。

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モーツァルト 「トルコ行進曲」 悲しみの調べ

遍く知られ、愛奏されてもいるこの曲について、今更書くことがあるのかと思われるかもしれませんが、少しお付き合いください。

ピアノをならい始めた少女なら必ず一度はお稽古させられる初心者向きのあのトルコ風ロンドを、母を喪った日にモーツァルトは書くのである。父親への手紙(※)より、よっぽど、K三三一のこのフィナーレにモーツァルトの顔は覗いている。ランドフスカのクラブサンでこのトルコ行進曲を聴いた時、白状するが私はモーツァルトの母の死後にこれがつくられたとは知らなかった。知ってから、あらためて聴き直して涙がこぼれた。私の娘もピアノでこれを弾く。でも娘のでは涙はうかびもしない。演奏はこわい。涙のまるで流れないトルコ行進曲が今、世界のどこぞで恐らく無数に演奏されているだろう。モーツァルトは二百年後の今だってそういう裏切りかたをされている作曲家だ。

五味康祐『五味康祐 音楽巡礼』(新潮文庫)より

(※)母の死を、最初は「母は重態です」と偽り、六日後に前便の虚偽を詫びて、「ぼくも心から苦しみ、激しく泣きました。・・・・・お父さん、お姉さん、泣けるだけお泣きなさい。しかし、しまいにはお諦めなさい」と、父に宛てた手紙。

母の死の直後に、有名な「トルコ行進曲」を含む、ピアノソナタ第11番イ長調K.331を書いたことを、この本で知りました。22歳の頃だったでしょうか。爾来、このエピソードに呪縛され、誰の演奏で聴いても、心から「ああ、これだ」という演奏に出逢えませんでした。内田光子、グールド、ギーゼギング、バックハウス、ピリス(新録)アラウ、ペライア、グルダ、ブレンデル、ハイドシェク、ポゴレリチ、ハスキル、ラローチャ、サイetc. 数多くの演奏を聴いてきたのですが。

ピリスの新録音は評価も高く、事実美しいのですが「トルコ行進曲」が自分の求めるものと違います。グールドの演奏は、一般に流布されているモーツァルト像を敢えて壊すことを意図したかのような、特異な演奏のため、物議をかもしたものです。低音の分散和音が重苦しく、例によってグールドの声が聞こえてきてしまうのが気になるものの、嫌いではありません。グールド自身、後期のモーツアルトを評価していないということはあっても、凡百の演奏家ではなし得ない世界を築いているからです。

楽譜上の指定はアレグレット(やや快速に)となっていますが、アレグロ(快速に)で弾く演奏者も多く、私が思い描く理想の「トルコ行進曲」が現れることはないのでは、と思っていました。

年に何度も聞きたい曲ではないため、マレア・ペライアの演奏で聴くことが比較的多いという程度でした。

先日、街の小さな中古CDショップの廉価コーナーを何とはなしに見ていたら、ピリスの旧録音が目に止まりました。一時期活動を停止する前の演奏。「演奏の比較もできるし、200円なら買ってみるか」と、期待もせず軽い気持ちで購入。

帰宅後聴き、第3楽章に入った瞬間、「えっ…」。その後、10回ほど連続で「トルコ行進曲」の含まれる第3楽章ばかり繰り返し聴いてしまいました。

ようやく、「理想に近い」演奏に巡り逢えた気分です。確かにテクニック、表現力の大きさの点で新録音には及びません。まるで練習曲を弾くかのように素朴で、飾り気のない演奏ですが、この「トルコ行進曲」は心の奥深くまで届いてきました。母を喪ったモーツアルトの悲しみが伝わってくるかのように。

作曲家がどのような精神状況下で作曲したか、何を意図して作曲したかを、知らずにいる方がいいこともありますし、逆に、知っているから適度なスパイスとなって、味わいを深くしてくれる場合もあります。有名な作曲家は恋愛にからんだエピソードも多く、たくさんの本が出版されているのも肯けます。

同じ曲が、演奏家によってまるで違う曲のように聞こえてくる。何度も何度も聴いた曲なのに、初めて聴いたように感じさせてくれる。クラシック音楽の面白さであり、魅力の尽きないところです。

音楽は、その人の人生に重ね合わせて聴くことが許される。クラシック音楽に限らず、そう思えます。あなたにはあなたの「トルコ行進曲」があるように。

モーツアルト『ピアノ・ソナタ第8(9)番、第10番、第11番』 ピリス(ピアノ)

私が購入したのは、2003年に発売された『11番、8(9)番、15(16)番、16(17)番』という組み合わせ〔COCO-70629 DENON〕ですが、トルコ行進曲は現在発売されているものと同じ演奏です。

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鶴見俊輔 片翼をになう人

時代のメルクマールとなる人物の多くが物故してしまった現在、日本思想、言論界の両翼を担っているのが、吉本隆明と鶴見俊輔であると、私は思っている。最前線で活動しているか、その発言が若者を含め多くの者に影響を与えているか否かを、さしあたって基準とはしていない。二人が抱く「倫理」という点で、その言説の根っこの部分が信ずるに足るものか否かという点で、この二人以外の名前は、残念ながら浮かばないのだ。

鶴見俊輔の『悼辞』が、編集グループSUREより発行されることは知っていたが、「みちくさ市」(古本市)への参加に伴い慌ただしくなり、忘れていた。12月7日付朝日新聞の書評欄で重松清が取り上げているのを読み、今日仕事の合間に連絡入れるもなかなか繋がらない。朝日の影響大と思い知る。結局10分かけ続けた。年内入手は無理であろうと思っていたが、既に増刷を終えており、入手できそうだ。明日手続せねば。重松の評は鋭い切り口もなく、物足りなかった。しかし、もとより買うつもりでいたので、影響はない。

鶴見俊輔という人物を知るのに、格好の材料が手元に残っていたので、少し長くなるが、紹介したい。

2003年3月24日付朝日新聞 「殺されたくない」を根拠に イラク反戦に見る新しい形より

9.11テロ以後に始まったこのピース・ウォークの第一回で私が出発地点にきたとき、集まったのは百五十人。そのうち百人が女性で、五十人が男性だった。男性には、共通の性格があり、女にひっぱられる男だった。もう少し踏み込んで言うと、女にひっぱられて生きる役割をよろこんで受け入れる男たちのようだった。(略)

私は、土讃善麿の戦後始まりの歌を思い出す。一九四五年八月十五日の家の中の出来事を歌った一首だ。

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

明治末から大正にかけて、啄木の友人として、戦争に反対し、朝鮮併合に反対した歌人土讃善麿は、やがて新聞人として、昭和に入ってから戦争に肩入れした演説を表舞台で国民に向かってくりかえした。そのあいだ家にあって、台所で料理をととのえていた妻は、乏しい材料から別の現状認識を保ちつづけた。思想のこのちがいを、正直に見据えて、敗戦後の歌人として一歩をふみだした土讃善麿は立派である。

敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし、夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日とおなじく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。(略)

戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求めるほうがいい。理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは、自分の生活の中に根をもっていないからだ。

「理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは、自分の生活の中に根をもっていないからだ。」

戦争というものを考える際、咀嚼せねばならぬ、重い言葉だ。

まず、何から読めばいいかであるが、正直難しい。さしずめ、『期待と回想』(朝日文庫)が入手しやすく、値段も手頃であろうか。話題になった『戦争が遺したもの』(新曜社)、大衆芸術の本質をみごとに突いた『限界芸術論』(ちくま学芸文庫)などもあるが。

共著も含めると、驚くほどの著作数なので、図書館に足を運び、自分の興味あるテーマについて書かれている本から手にとってみるのも、いいかもしれない。

鶴見俊輔86歳。吉本隆明84歳。まだまだ健在でいてもらいたい。

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浅田次郎による書評集の発行を望む

極道小説、人情小説、時代小説、歴史小説・・・多才な作家である。

『プリズンホテル』『鉄道員』の中の数作品、『蒼穹の昴』、『壬生義士伝』など、好きな作品も多い。『勝負の極意』『競馬どんぶり』などは、競馬好きなら一読に値する。

が、ここで取り上げるのは書評。浅田作品についての書評ではなく、浅田次郎による、書評である。

私は彼の書評が好きだ。以前、朝日新聞日曜版で書評を担当していたが、それは一つの芸の如くすばらしいものであった。いくつか見てみよう。
※(  )内は、現在入手しやすい文庫本を表示。書評当時は単行本である。

乙川優三郎 『尾烏(おくう)』(講談社文庫)

本書に収められた六篇の主人公たちははみな、武家社会の掟とモラルに縛められながらも健気に生きる人々である。(略)人間というもの、あるいは人間社会というものの不変を改めて痛感させられるほど、彼らの苦悩はわれわれの日々に通ずる。(略)彼らはみな不可避の宿命のうちにあっても、可能な限り抗うことを忘れない。おそらく著者の時代小説におけるオリジナリティーは、この「能う限りの抵抗」であろう。読後には容易に瞼を去らぬほどの美しい風景点描とともに、時を超えたさわやかな共感が残った。

新しい時代小説作家の誕生を寿ぐ、浅田の柔和な顔さえ浮かんでくる。

『川端康成・三島由紀夫往復書簡集』(新潮文庫)

正統の文学ファンにとって、まさに垂涎瞠目の一巻である。(略)内向してゆく戦後文学の潮流の中で、日本浪漫派の遺児・三島は、一縷の光明を超越的な審美作家に見いだしていたのであろう。そして文学の聖火を後進に申し伝えることに心を摧(くだ)いていた川端は、みごとに彼を中瀬からすくいあげた。この間の書簡がある種の神聖さすら漂わせているのは、彼らの関係が人知の及ばざる奇跡の中にあったからなのだろう。歴史の偶然は個々の必然によって形成されるのである。(略)三島を評して川端は「いづれは私の名は文学史上にあなたをdiscoverしたといふ光栄なまちがひだけで残るかもしれません」と言う。彼らは、たがいの存在を担保し合いながら、死すべき時間を生きたのかもしれない。文学の神はその方法を二人の天才に許したのである。

二人への羨望と畏敬の念が伝わってくる。「たがいのを存在を担保し合う」。川端、三島の関係を、かくも短い表現で言いえた例を、私は寡聞にして知らない。

亀井宏 『弱き者は死ね』(広済堂出版)

嘘で捏ね上げた夢物語ばかり書いていると、ときおり無性に切実な私小説を読みたくなる。かと言って面白くもおかしくもない愚痴や、しち面倒くさい人生哲学はごめんだ。ただ、「わかるよなあ、コレ」と呟いてみたくなるのである。(略)比較的寡作な著者は、昭和五十五年に講談社ノンフィクション賞を受賞している。その作家的資質が夢物語のストーリーテリングを厭うものであると考えれば、長い時間をかけて網まれたこの私小説集の持つ、のっぴきならぬ切実さも、大いに肯けるところである。(略)けっして器用ではではないが、かつてのプロレタリア文学を彷彿とさせる無骨な文章も読むだに心地よい。男女の愛憎が希釈されてしまった味気ない世の中にあって、「誠実なる無頼」を見る思いがした。

私小説における自分の好みを単に言い放つのではなく、著者に添いながら、私小説の難しさをも説いている。「わかるよなあ、コレ」も、よくわかる。、実際にこの本を読めばわかることであるが、「誠実なる無頼」も、見事に本質を捉えている。

梁石日(ヤン・ソギル) 『血と骨 上・下』(幻冬舎文庫)

粗野ではある。しかし粗野であることすら忘れてしまうほどの魅力を、この小説は持っている。物語本来の矜(ほこ)りと輝きとを、この作家は無骨な掌の中にしっかりと握っているのである。その奇跡には、父なる人の「骨」と母なる人の「血」を、感じずにはおれなかった。

作品の瑕疵を認めつつも、物語の矜持、力なるものを説く姿勢に共感を覚える。

書評を書いても、小説に比すればわずかな稿料であろう。定期的に連載し、それがある程度の数にならなければ、書評をまとめ、一冊の本として世に出すことが叶わないのはわかる。

浅田次郎には、自らが編んだ、『見上げれば星は天に満ちて―心に残る物語 日本文学秀作選』 (文春文庫)がある。また、文学、小説、小説家について、インタビューや対談の形で語っている『浅田次郎読本 待つ女』(朝日文庫)もあるにはある。が、

浅田次郎による書評集の発行を、切に望む。

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〔雑記〕 ベット・ミドラー『ローズ』から始まった脈絡のない連鎖

なかなか寝付けずにいると、昨日、車の中で聴いたベット・ミドラーの『ローズ』が甦ってきた。真夜中なので、ミニコンポで、音を絞り、20回ほど連続で聴く。ジャニス・ジョッブリンの短い生涯を描いた映画の最後に流れる、このあまりにも有名な曲の説明は不要だろう。

Just remember in the winter
Far beneath the bitter snows
Lies the seed that with the sun's love
In the spring becomes the rose

この曲から、「希望」という言葉が浮かんでくる。

ある青年にナイフを突きつけられ、「希望を語れますか」と問われた時に、
「語るべき希望などない」と答えると、「あなたが今希望を語ったなら、あなたを刺していた」
蜷川幸雄『千のナイフ、千の目』の中に、そんなくだりがあったことを思い出す。

同じ「希望」でも、質が違いすぎる。

「希望」・・・突然、岸洋子の歌『希望』が耳に。流行ったのは小学生の頃だ。深い意味などわかるはずもなかったが、訴えかけてくるものがあった。続いて、弘田美枝子『人形の家』、奥村チヨ『終着駅』。もの悲しい歌ばかり甦ってくる。これも小学生の時に聴いていたはずだ。

突然、エディット・ピアフ『愛の賛歌』が聴きたくなる。10回ほど繰り返し聴く。
初めて耳にした時、その声に、震えた。歌詞の意味などわからない。
なのに、自らの命を削っているように感じられた。
その後、飛行機事故で亡くなった恋人へ捧げた歌だと知る。

希望と諦念? 希望と絶望? そんな単純なものではないはず。

説明しようのない、音楽と言葉の脈絡のない連鎖。

窓の外が明るくなってきた。

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点が線になっていく 「みちくさ市」特別編 「わめぞ」の方々

武藤良子様。武藤さんが書かれているブログ『m.r.factory』の中の記事、「思い出アルバム」におきまして、貴重な情報をいただき、ありがとうございました。

みちくさ市終了後も、気になってしかたがなかった男子高校生の、他店での様子を知ることができました。庄野潤三の本を買った瞬間には、所持金170円になっていたなんて!(この経緯はパラフィンさんが書かれています)。なんだか、せつなくなると同時に、そこまでして中野重治、野間宏、庄野潤三などの本を古書市で買う彼に感動しました。

武藤さんの「点が線に繋がる瞬間」という言葉に触発され、思うところを綴ってみたくなりました。お目にかっかたこともないのに、失礼かと存じますが、武藤さんにも触れさせていただきます。

一度も会ったことのない方なのに、ブログを読んでいて、すでにお会いしているような気持ちになる。或いは、初めてお会いしたのに「懐かしい」とさえ思ってしまうことがある。自身がブログを始め、古本市に参加するようになって、感じることです。

わめぞ」の方々のブログには、武藤さんの話題が多く、しかも楽しいので、思わず微笑んでしまいます。時折、お腹がよじれそうにもなりますが。古書現世の向井さん、古書往来座の瀬戸さんなども登場し、みなさまのことを勝手に想像させていただいておりました。退屈男さんだけは、妻が5年前にブログを始めた頃から、知っていました。

豊島区商店街フォーラムでの、向井さんのスーツ姿に触れている武藤さんの文章など、最高です。向井さんが怖そうな方には思えず、むしろ、お会いしたい!と思ったくらいです。みちくさ市で、念願かないお会いできた向井さん、〈ステキ〉でした。この方の周りに多くの方が集まってくる理由(わけ)を実感しました。

みちくさ市会場下見にいった際、旅猫雑貨店さんにうかがい、思っていたとおり素敵なお店だなあと思いました。さりげなく飾られていた、河井寛二郎『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ』。それと、私ども「とみきち屋」のシンボルが猫ということもあって、小さな猫の置物を手に入れました。
お会いした金子さんからは、静かな雰囲気の中に、独特の感性と、こだわりをお持ちの方ではないかなという印象を受けました。
参加前のこちらの質問には、丁寧なお答えをいただいたばかりか、当日も細やかなお心づかいいただき、ほんとうにありがとうございました。金子さんにつくっていただいた「みちくさ市アルバム」の写真も、楽しく見させていただいています。

下見の時は、往来座さんへも。店内カウンターには、ばりばり働くNさんが。ほしかった本を5冊ほど購入。会計の際、宇佐美承『池袋モンパルナス』(旧版)がカウンターに置かれているのを発見。「これ売っていただけますか?」とお願いしたら、「今ネットで確認したところですが、近くのジュンク堂に行かれたら、新版がお求めになれますよ」と。この丁寧な応対に驚きました。もちろん、その場で購入。それから、「実は、みちくさ市でお世話になる者です」とご挨拶。「瀬戸さんはいらっしゃいますか?」とお尋ねし、店外にいた瀬戸さんのもとへ。黙々と作業されていました。声をかけさせていただいたところ、こちらが恐縮してしまうほど、丁寧にお話しくださいました。

そして、再び武藤さん。(すべて武藤さんのブログに書かれていることですが)

ゾンビはたどたどしく歩くほうがいいというコメントには、ゾンビ映画けっこう好きなので、妙に納得してしまいました。それと、狼男の悲哀を書かれた武藤さんの文章も好きです。

最近では、「みちくさ市でした!」で書かれている、けやきの葉が舞い落ちてくる様子に誘われ、空をみつめていらっしゃるところ。
特に、最後の「気づくといつも空を見ていた」が、とても素敵ですね。

みちくさ市ではお会いできませんでしたが、いつかどこかで武藤さんにお会いできるのを楽しみにしています。

このように、私の中でも、いろいろな点が、少しずつではありますが、線となって繋がり始めています。

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フォーレ 「レクイエム」 魂を鎮めてくれる音楽

まず初めにお断りしておきますが、私はクラシック音楽好きですが、専門家ではありません。楽譜は読めませんし、楽器も演奏できない。30年間聴き続けてきただけです。従って、自分の経験においてのみ語ることになります。

どんな曲、どの演奏が心を動かし、沁みてきたかで、「好きな曲」「お薦めの曲」を紹介していきます。

モーツァルト、ヴェルディと並び、3大ミサ曲のひとつである。「怒りの日」を欠くからミサと呼べるだろうか。第1稿から第3稿まであるなかで、どれを取るか。「レクイエム」に元来「鎮魂」の意味はなかったなど、この曲を聴く際、音楽史的な知識は必要ない。かえって邪魔になるばかりです。

耳を澄ませて聴けば、いや、聞こえてきただけで、どれほど人の心に響いてくるか、わかります。心の闇を抱えていても、虚心になれると思います。安らぎ、慰め、浄化、至福。人によってさまざまな印象、思いを抱くことでしょう。

私事で恐縮ですが、最近あるイヴェントに参加し、余韻醒めやらず、嵐の真っただ中にいる感が否めません。それで、2つのフォーレのレクイエムのCDを聴いてから、この記事を書き始めています。そうでないと、書けないと思えたからです。

長くも、短くも感じられる人生の中で、この人、この本、映画、絵、あるいは情景などに出逢えただけで、生まれてきてよかったと思える瞬間があるよう、音楽にもあるはず。私にとって、そのひとつがこの曲です。

鎮魂曲と呼ぶにふさわしい曲ですから、私自身、親しい方が逝ってしまった時、生前を偲び、安らかに眠ってほしいと、祈りの思いを込めて聴きます。私と同じように、この曲をかける人も多いのではないでしょうか。生前に、自分が死んだときにはフォーレのレクイエムを流してほしいという者もいます。

しかし、最愛の人を喪った者、残された者の悲しみはどうなるのか。数え切れないくらいこのレクイエムを聴き続けているうちに、こう思うようになりました。

「鎮魂曲(レクイエム)は、逝ってしまった者の魂を鎮めるだけではなく、生きて在る者の魂をも、鎮めてくれるものだ」と。

つまり、この曲は聴く者の心も癒してくれるのではないかと。

聴いているうちに、あたたかく、やわらかな、それでいて眩いばかりの光に包まれたようになり、これが「死」というものなら、怖れもないのに、と思える瞬間が訪れてくるのです。同時に、亡くなったあの人も、こんなところにいてくれたらいいのに、と思えるのです。

まだ聴いたことがないという方は、是非、聴いてみてください。

〔 推薦盤 〕

■ ①ミシェル・コルボ指揮 ベルン交響楽団 サン=ピエール=オ=リアン・ドゥ・ビュル聖歌隊〈1972年録音〉

■ ②ミシェル・コルボ指揮  ローザンヌ器楽&声楽アンサンブル〈1992年録音〉

①(国内盤)ソプラノにボーイソプラノ起用しているため、他盤とは印象がかなり異なります。清澄の極みと言えるでしょうか。私が最初に聴いたのが、この盤です。

CDなど無い時代だったので、LPレコードで。美しいとか悲しいとか、言葉さえ見つからず、気がついたら涙がこぼれ落ちていました。「この世の音楽とは思えなかった」というのが、初めて聴いた時の感想でした。

②(輸入盤)同じ指揮者の演奏ですが、最初はfnacというマイナーレーベルから発売されたこともあって、その当時はあまり注目されず、長い間廃盤になってしまいました。私はたまたま、レコード芸術という雑誌に掲載されていた記事を見て、発売を知りました。

同じ指揮者の演奏ですから、期待を胸に聴き、かくも深い演奏が存在することに、陶然となりました。

現在はvirjinというレーベルから、モーツァルトのレクイエムとカップリング(2枚組)で再販されています。モーツァルトのレクイエムは、コルボなら旧録音(1976年)のほうがはるかに素晴らしいので、推薦とはしません。そのかわり、同じフォーレの、「ラシーヌの雅歌」「小ミサ曲」が入っています。この2曲がまた素晴らしい。①と違い、ソプラノは女性です。

①は、クラシック音楽を、そこそこ、置いているCDショップなら入手できるはずです。②は輸入盤のため、入手しづらいということがあります。HMVとかタワーレコードなら手に入れられるかもしれません。もし、こちらを店舗でお求めになるなら、事前に電話確認された方がいいでしょう。ネットでよければ、HMVには在庫があるみたいです。

クラシック音楽は苦手、40分も続く音楽など聴けないという方へ。

これは、本来なら決してお薦めしたくない聴き方ですが、第1曲「イントロイトゥスとキリエ」、第3曲「サンクトゥス」、第4曲「ピエ・イエズス」、第7曲「イン・パラディスム」を、まず聴いてみてください。

20分さえ、もたないという方へ。

どうか、第3曲「サンクトゥス」第4曲「ピエ・イエズス」だけでもいいので、聴いてみてください。7分です。その7分があなたの中の何かを変え、その後、全曲通して聴けるようになるかもしれません。

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「みちくさ市」エピソード(2) 「吉本(隆明)さんの大ファンです!」 彼女のひとことに卒倒

女性の年齢あてる自信全くなし。もっと若かったら、ごめんなさい。今年の流行語大賞ののりで言えばアラサー(around thirty)と思われる女性と、短いながら至福の時間を持てました。

アベック、いやカップルでご来店。彼の方はほとんどしゃべることなく、彼女の独壇場。
吉本隆明著『僕ならこう考える』(青春文庫)200円を彼女が手にとったところからの会話です。

吉本隆明は吉本ばななの父親で、戦後思想界ではとりわけ有名な人と言っても、
ご存じない方には何のことやらですよね(笑)
〈 〉内は、私の独白。

「この文庫と違って、単行本の表紙の方が好きなんだけどなあ」
 
  < 確かに。文庫はセンスない。表紙の違いがわかるなんて >

「単行本、持ってるし」
 
 < じゃあ、なぜ文庫手に持ってるの?まさか、持ち歩き用に?かなり好きそうだ >

「そうですか。吉本さんの本、ここにもありますよ」
 
  ― 『読書の方法』(光文社 知恵の森文庫)を私が指さす。

「ああ、これね。これも単行本持ってるから」

 < はあ? ひょっとして、吉本ファン? >

しばらく、迷った彼女。手にしていた『僕ならこう考える』を、すうっと、こちらに差し出す。

「よろしいんですか?」
「ええ」
「ありがとうございます! 吉本さん、お好きですか?」
「ええ!吉本さんの大ファン!!」  

 ― 私は卒倒しかけた。

「う、うれしいなあ。女性から、その言葉聞くの、初めてです。すご~く嬉しいから、1冊サービスします」
  
  ― 他の本の中に埋もれていた、『心的現象論序説』(角川文庫)をとって渡そうとした。

「ああ、『共同幻想(論)』なら、サービスしてもらわなくても(けっこうですよ)」
 
 < 表紙の絵柄をちらっと見ただけで、『共同幻想』と口にするなぞ、ほんものだ >

「そうですか。高価な本論の方も出版されて間もないから、喜んでいただけると思ったのですが。もうお持ちですよねえ・・・残念です」
 
 ― まじまじと本を見る彼女、目が点状態で、私の話など全く聞いていない。

「うそ?!いいんですか。うそうそ・・・。だってこれ、ネットで○○○○はしますよ~」

 < アマゾンあたりのことだろうな。そういうの、ちょっとは参考にするけど、本の値段の決まり方って、いろいろあるんだって、この頃つとに思うようになったから>  

「いいんですよ。大ファンに出逢えた記念だから」
 
 < ちょっと、かっこつけすぎ?おっさんだなあ >

「そんなあ。ダメですよ。無料(ただ)なんて」 
「だから、ただじゃなくて、気持ちですから」

  ― そこで初めて、300円と書いてあるスリップを見た彼女。

「300円~~~!!! 買います、買います」
「そうですか。それでは、2冊合計で、500円になります」

嬉々として去っていった彼女。嬉しかったのはこっちなのに。

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「みちくさ市」エピソード(1) はにかみ高校生 彼は・・・

昨日の「みちくさ市」で出逢った、言葉では形容し難い高校生についての話から。

300円、200円でも、お客様にすれば高いと感じられるのかな・・・と思える本を、店のレイアウトを変えてつくった200円、100円均一箱に入れ始めてまもなく(閉店40分くらい前)のことでした。他のお客様に気をとられていたら、ふっと左から黒い人影が視界に入ってきました。私の正面に立ったのは、詰め襟の制服を着た清潔感漂う高校生。襟をきちんととめ、髪は短くも長くもなく、きれいに整えられていました。もちろん、染めてなどいません。私がもし女子高生だったら、恋してしまいそうな麗しい顔。おじさんが、魅入られてしまうーそんな高校生を思い描いてみてください。

その彼が黙って本を差し出してきたのです。瞬間、お客様?と思いました。とみきち屋出品本のなかに、高校生と結びつくものがなかったからです。野間宏『文章入門』(旺文社文庫)、中野重治『歌のわかれ』(新潮文庫)だったものだから、思わず仰天。しかし、すぐさま歓喜。 嬉しくなって、「こういった作家が好きなんですか?」と尋ねたら、はにかむように視線をちょっと逸らされてしまいました。そして、お財布から小銭を取り出そうとするので、「野間宏の方は、100円ではなく400円ですが・・・」と言いかけたら、さきほどとは違い、〈わかっていますよ〉という感じで、微笑んだのです。〈この本が欲しいから、500円硬貨出しているのに〉という彼のプライドのようなものが感じられ、一瞬言葉につまってしまいました。

思い直して、「それでは400円頂戴します。この手の本を買っていただけるのは嬉しいので、中野重治の分はサービスさせてください」と、お釣りの100円を渡したら、満足気にニコっとして、静かに去っていきました。結局、彼は一言もしゃべらなかった。

なんだか、夢のなかにいるような気分で、しばらくぼうっとしてしまいました。後からですが、「黙って箱の中に目をやり、何冊も手にとるわけでもなく、あの2冊を選っていたよ」と妻から聞きました。

妥当な値段と思ってくれた彼に、「400円ですが」などと、失礼なことを言ってしまったと反省しています。そういえば、ただシャイなのだとは思えず、知的な雰囲気を漂わせ、自分の世界を持っている目をしていました。彼は他のお店で、どんな本を買ったのでしょうか。みちくさ市にまた参加する機会があったら、もう一度彼に会ってみたい。会話はなくても、買ってもらえなくてもいいから。次はどんな本に目を遣るのか、知りたい。今回の「みちくさ市」で、一番印象に残ったお客様です。

ここからは、持ち帰っていただいた本と、お客様のことです。書名に興味のない方は、読み飛ばしてください。

■バシュラール『夢見る権利』400円 澁澤龍彦『血と薔薇コレクション1』200円 ほか5冊

「秋も一箱古本市」で、ハイデガー『ニーチェⅠ・Ⅱ』(平凡社ライブラリー)ほか、哲学、思想関連の本を、二度ご来店いただき、計5冊ほど買っていただいたお客様が、なんと今回の「みちくさ市」でもいらっしゃいました。忘れるはずがありません。両手に持った袋にはぎっしりと本がつまっていたのですから。今回は思い切って、「秋も一箱の際には、何冊もご購入いただき、ありがとうございました」声をかけたところ、少し驚かれたようでした。嬉しいことに、先方もこちらのことを覚えてくださっていました。

で、その後はこんな感じで。「澁澤のこの本、1しかないの?」「すみません、買って読み始めたものの、私にはどうも合わなくて。この本だけなんです」「残念だな。2・3もあればな・・・」それを聞いて澁澤の本はダメかと諦めかけたら、「今回はこれだよこれ、バシュラール!」とニコニコされました。そして、『血と薔薇コレクション1』を含め、結局3冊お買い上げいただきました。バシュラールを出していなかったら、今回はパスだったかもしれません。〈1冊欲しいのがあったから、あとの2冊は気持ちだよ〉という感じが、嬉しくてなりませんでした。

驚いたのは、時間をおいて再び訪れていただいたことです。『泣菫随筆』『近代の超克』(いずれも冨山房百科文庫)の2冊を持ち帰ってくださいました。

この方の好みに合う本を考えるのは難しそうですが、またお目にかかりたいものです。

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