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旧制高校生の〈三種の神器〉本復活か?!

岩波文庫がウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、シモーヌ・ヴェーユ『自由と社会的抑圧』、レヴィナス『全体性と無限』、ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』などを出版した時も少なからぬ驚きはあった。しかし、近年、ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』、シュレーディンガー『生命とは何か』など、科学系のものを出していることにも目がいく。『生命とは何か』は同社が新書で発行していたこと、ベストセラーとなった福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の中でシュレーディンガーが取り上げられている影響も少なからずあるのだろう。

しかし、ここに来て、坂口安吾『堕落論、日本文化私観 他二十二篇』を皮切りに安吾の文庫を続々と出版する岩波のねらいはどこにあるのだろうか。新潮、角川、集英社、ちくま、講談社文芸文庫など、「堕落論」は、掲載作品の組み合わせこそ違え、多くの出版社から既に文庫が出ている。しかも、ちくま文庫は全集だ。岩波という知的(?)ブランドを看板にしたところで、売上げ上の限界はあるはず。

そして、なんとなんと岩波は、倉田百三『愛と認識との出発』までも復刊した! 角川文庫版が絶版になって以来、文庫で読むことが叶わなかったわけだから、個人的には喜ばしい。が、底流に何があるのかはわからない。「まさか、教養主義の復興?? ならば、阿部次郎『三太郎の日記』なんかも、そう遠くないうちに出版されたりして。そこまではあるまい・・」とぶつぶつ独りごと。

そんななか、19日(水)朝日新聞朝刊一面下、書籍広告欄を目にして仰天。「永遠の青春の書」がここに甦る!『新版 合本三太郎の日記 阿部次郎』(角川選書)とあるではないか。これで、西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫・講談社学術文庫)を合わせ、三役そろい踏みか。 といっても、若い年代の方には通じないだろう。旧制高校生が“三種の神器”として読んだ3冊である。

戦前から戦後へ、さらに時代を経て、その流れは少なくとも、私が高校生だった30余年前(1976年頃)までは、(ごく一部の文学好きの学生の間ではあったが)受け継がれていた。時代背景の違いがあるのは当然だが、私は人格形成のための必須本という捉え方で読んだ憶えはない。ゆえに、「教養主義」とも縁遠い。ことに、倉田の自分というやっかい極まりない存在と対峙する際の真摯な姿勢に打たれ、苦悩を共有しているような気持ちになり、のめりこんだ。そこには正否の判断もなければ、好悪の感情が入り込む余地もほとんど無かった。つまり熱病にとりつかれたようなものである。人生の指針を求めたわけでも、刻苦勉励の名のもと、教養(知識)を身につけたいわけでもなかった。こう言ってしまうと、「読むに値するのかと?」いう声も聞こえきて、正直、推薦本として挙げるには躊躇われる。

『善の研究』はいわゆる哲学書であって、他2冊とは異質。また、『合本三太郎の日記』は値段が張る。昔の学生がこぞって読んだ本に興味を持たれるなら、この三冊のなかでは、倉田百三『愛と認識との出発』(岩波文庫)が最も手にとりやすいかもしれない。

「異性の内に自己を見いださんとする心」の章では、西田の『善の研究』に触れ、「この書物は私の認識論を根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い、遠い、神秘な、夏の黎明の空のような形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸い込まれるように包摂されてしまった。」と語っている。「形而上学」とあるだけで顔をしかめられる方には縁のない書物でしょう。中途で投げ出される方もいるでしょう。何とか読み終えられた方が、どのような感想を持たれるか、知りたいのはやまやまですが、文句を言われても責任は持てません(笑)。その点ご了承下さい。

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